鎧には隙間があり、何かがそこから入りこんでくるのは必然

引き継ぎのためのデータの整理。引き継ぐいうていったい誰にという話だが、、かなしき万年ルーキー、、まだ見ぬ将来の後継者のために、、

夜、豚肉とロメインレタスの炒めもの。ラー油とチーズ入り。ごま油と醤油をかけた冷奴も食べる。ブラディメアリを1杯。

2020.6.16、アップリンクの代表である浅井隆氏に対するハラスメント横行の告発がタイムラインに流れてきたのを見る。原告を支持するついーとをする。わたしはここの採用試験を受けたことがあり、そのことを、おぼえているかぎり、きちんと書いておこうと思った。わたしの場合は浅井氏と話したのは採用面接の1回きりで、長期的なやりとりがあったわけではないので、パワハラ云々というよりも、「多様性」を掲げた活動をしていながら、じっさいはまったくそうではないことに気づいたという腹立たしさとかなしみこそが重要なのであって、そのことをこの機に文章でのこしておきたいと思ったのだ。もっといえば、その実感がぜんぶのこっているうちに、ちゃんと記録しておけばよかったと悔やんでいる。面接を受けたのはもう5年も前の話である。思いだすためのどうでもいいディティールと、関連する過去に書いた文章を交えながら、書いていくことにする。

いまはどうだかしらないが、当時は書類審査が一次二次とあり、そののちに一次面接という流れだった。一次ということはつぎもあるはずだが、わたしはそこで落ちたのでその後の過程は存じ上げない。氏とはそこではじめて直接やりとりをし、ひじょうにわずかな時間ではあったが、こんなひとのもとではとうていはたらけないなと思わされたのだった。メールをあさっていると事後の記録があったので引用する。

面接では浅井氏の洗礼を受けたといいますか、私がアップリンクに対して抱いていたイメージが大きく変わるようなやり取りがあり、ここではやっていけない/ここに進むべきではないと思わされました。

これはアップリンクの面接後に同時並行で受けていた会社の採用担当者に送ったメールの一節で、まあこんなことをいちいち選考中の企業宛に送るのもおかしな話だが、とにかくおおきな衝撃を受けたことがわかったのでひっぱってきた。採用試験を受けるくらいなのだから当然なのだが、「抱いていたイメージ」とあるように、わたしは黒沢清の『アカルイミライ』や、グザヴィエ・ドランの諸作品などアップリンクの配給作品を好ましく思っており、世代はちがえど紙の『骰子』ももっていたし、何よりギャラリーもレストランもショップもイベントも包括するあのちいさなスペースのことが好きだった。いまでもアップリンクという場自体はいいなと思う。事前におこなわれた説明会で「給料は低い」とちからづよく宣言する浅井氏のすがたを見ても、一次で3本、二次で6本の作文課題がだされようとも、その思いは変わらず、忘れもしない卒展の設営日の夕方、残る作業を友人たちにほっぽりだして渋谷まで向かい、早く着きすぎたのでSPBSで時間をつぶしつつ、面接のためにアップリンクへ向かったのだった。

作文は全部で9本あり、原発パレスチナ、遺伝子組換え食品などに対する考えを問うハードな課題を気合で書き上げ、何とか書類選考を通過したのはいいのだが、いざ面接に臨んでみれば、面接官(社長)は文章を1文字たりとも読んでおらず、たった1分で面接が終了するかなしい結末を迎えることとなった。

ここに書いてある通り、浅井氏との面接は1分かそこらの瞬間的なものだったので、先にその「1文字たりとも読」まれなかった作文の話に触れておこう。ここで引用した文章は、2019年、わたしが自分のスペースをオープンした記念に発行したZINEからの抜粋だ。わたしは課題作文のうちのひとつで「小さな場」の有効性について語っていて、「関係する相手の顔が見え」、「作り手と受け手が対面でコミュニケーションしながらつくりあげていく」場のちからを、ポエケットやジンスタ・アフタヌーンといったその頃よく参加していたちいさなアートイベントを例にしながら述べており、それがいまこうやってスペースをオープンすることにもつながっているという趣旨のステートメントだった。この声明文は以下のように閉じられている。

ちなみに、上記の作文[*引用者:アップリンクの課題作文]はこうむすばれている。

オルタナティヴな文化のあり方を探っていくことは、より豊かな文化の受容環境をつくることであり、それは新たな世代が育つ肥沃な土壌となるはずです。私はまだ誰も見たことのないような才能を世界から見つけだし、それを●●●というアンテナから、他の誰かへと発信して、文化を耕していきたいと思っています。

場所が変われども、この想いは変わらない。おぼつかない足どりで歩みはじめたばかりの、このちいさなスペースが、手さぐりですすんでいくその先で、あなたと手を取りあうことができるとわたしは信じている。

アップリンクを腐すために書いた文章ではなかったので当時は伏せ字にしていたが、●●●に入る言葉はアップリンクである。「UPLINKの意味は衛星と地上基地の通信を指します。地上基地から衛星へ電波を飛ばす事をUPLINK。衛星から地上基地へ電波を飛ばす事をDOWNLINKといいます」とホームページの会社概要には書いてある。その電波は、まちがいなくわたしのもとに届いてた。ちいさなスペースを運営したいと願っていたわたしにとって、アップリンクはあこがれの存在のひとつだったのである。つよい影響を受けた磁場のひとつだったのである。がゆえに、面接の応対にはほんとうにショックを受けた。

空間の記憶はおぼろげだが、カーテンか何かで簡易的な仕切りが設けられたスペースに入ると、浅井氏がデスクに一人で座っていた。最初の二言三言で、作文を含む応募書類がまったく読まれていないことがわかり、むこうの高圧的な態度も相まって、若いわたしは反発心をくすぶらせながら「そちらにも書いたのですが、」と枕を添えつつもていねいに受け答えをしていると、「さいきん観た映画は?」という質問がなされた。当時は卒論の提出はおわっていたもののまさに卒制まっただなかの日々がつづいていて、といいつつも、ちょうどtnlfでハシゴ鑑賞をしたばかりだったのでその話をしたのだが、そこで返ってきたのは、当時アップリンクが配給・上映していたロウ・イエの『二重生活』を何で観ていないんだという言葉だった。そこですぐさまむこうは「否」を決めたようで、観てないやつは論外という感じで面接は打ち切られ、わたしもやる気がついえて食い下がりもしなかったため、ふたりは永遠に隔てられたのだった。これが「たった1分」の内実である。当時友人がアップリンクではたらいており、わたしの面接の時間帯にちょうど受付に立っていたので「え、もうおわったの?」みたいな会話をしたことをおぼえている。氏のいわんとしていることはわかる。ここを受けるならそのくらい観ておけということだろう。だけれども、それを観ていないことただ一点だけで、なぜ門前払いのようなかたちで面接を打ち切られなければいけないのか。そういうスタンスをとるのであれば、作品を観ることを課題のうちに含めておけばよいではないか。百歩譲って、それが熱意のなさだと切り捨てるのはいいとしても、であれば書類審査はいったいなんのためにあるのか? 「では、あなたはなぜ応募書類を読んでいないのですか?」とつきかえしてやればよかったといまになって思う。こうして表沙汰になった言動の数々を見てもわかることだが、氏には寛容性というものがまったく欠けているのである。氏の言葉、あるいは社の方針として、いくら「多様性」を掲げていても、その内実は、けっきょく自分の認めるものだけで構成された排他的な多様性なのだということがわかって、わたしはこれ以降、アップリンクに足を運ぶことをやめた。


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『骰子』の奥付にはおそらく雑誌の制作にかかわったスタッフだけではなく劇場のスタッフまでも名前がきちんと細かく書かれてあって、1999年発行という時代に照らして考えてみればとても先進的で、ここはひとを大事にするところなんだなと思っていた

面接の上で採用を決めると映画配給会社という仕事では優秀なのは女性の方が多いので、アップリンクでは8割が女性社員。

女性に対するハラスメントへの苦言にかこつけて(!)、かつて浅井氏はこのようなついーとをしていたが、ここに掲げられている理由以外にもその要因があるように思う。雑なジェンダー区分で申し訳ないが、男は強権をふるうきょうれつなボスと対峙したとき、直接的に対立してしまってつづかないのである。たとえ入社したとしても、ふざけるなと辞めてしまうのである。これは「男」というよりも「男性性」とした方がいいのかもしれないが、わたしがたった1分で決裂してしまったことも、その影響は否めないのではないか。いまわたしが属している会社もリーダーシップのつよい、年長のマッチョなワンマン社長のもとで駆動しているところなのだが、これまで長く勤続していたのは女性社員ばかりだったという過去の思い出話を聞くかぎり、アップリンクでも同じような構造があったのではないかと訝ってしまう。ところで、「面接の上で採用を決めると」とあるが、あのような面接でいったいなにがわかるのだろう? 自分に従順で、ききわけがよいかどうか? 奴隷に向いてるか、そうでないか?

たとえばアンケートに丸を付ける(何の意味があるのか、たった一分半の面接を終えて、何がわかるのか、十枚の書類に書かれた言葉は一行も読まれることなく裁断機にかけられる(空白がある空白ができているこの空白がわたしの空白だとしたらわたしは穴だらけのわたしは椅子に座ってペンを走らせるページをめくって丸を付けていく丸丸丸まるまるまるまる○○○意地のようなものだけでここに座っている意地のようなものだけを書き殴っているわたしは穴を埋めている埋まらなくても誰も困らないひとつの深い穴ぼこを埋めている

当時書いた詩のなかにもこの出来事が書かれていた。1分ではなく「一分半」とある。書いた時期のことを思えば、こちらのほうがより正確かもしれない。抜いたのは第1連の最終行で、情念が生のまま投入されていて、もはや詩というよりも愚痴のようなものだが、面接後に2階のロビーでおこなわれたアンケートについての記述である。もう落ちたことはわかっているし、たとえ受かったとしても入る気はゼロなのでやる必要のないアンケートなのだが、わたしは「意地のようなものだけで」その場に残り、こんなことは何にもならないと思いながらアンケートに答えていた。映画監督やメディアなどの固有名詞が列挙され、それを知っているかどうかという内容だった。採用候補者に、文化の素地があるかを確かめるためのものだろう。二次審査でだされた課題作文は、社会問題に対する視座を有しているかどうかを判断するためのものだった。題材には先にもすこし触れたが、それぞれ配給作品に絡めた社会的なテーマ設定がなされていて、やっていてひじょうにたのしい課題だった。一次審査では、それぞれの作文に「アップリンクの全施設の案内」、「WebDICEの感想」、「アップリンクでやってみたいこと」という主題が与えられ、そこでは文章の出来だけではなく、会社への理解や熱意もはかられていたことだろう。いずれにせよ、どれも最終的な合否にはいっさい関係ないのだから、ほとんど意味のない書類審査であったのだが。

「webDICEの感想」
マイノリティの声を拾う、雑多なカルチャーマガジン
 
 映画を主軸としながら、食、音楽、アート……とあらゆるカルチャーを対象としてインタビュー記事や紹介記事を掲載している『webDICE』ですが、その誌面の根底には「マイノリティの声を拾う」ということが流れているように感じます。配給している映画と連動させながら、ジェンダー、紛争、デモ、原発といった問題の、既存のマスメディアではほとんど取り沙汰されない部分に光を当て、深く掘り下げる編集方針は、フッターにある「文化多様性サイト」を体現しているように思えます。そのうえ、誌面は読者にも開かれており、ゲストブログやイベント告知、クラシファイドに自由に投稿することが可能なことも本誌の大きな特徴のひとつといえるでしょう。明らかな業者の宣伝までもが野放しになっているのは読者にマイナスイメージを与える要因かもしれませんが、その雑多な感じがまた特色といえるような気もしています。

これはそのうちひとつの全文である。浅井氏の言動を踏まえて読みかえしてみれば、なんとむなしい言葉だろうか。