怒鳴るコミュニケーション

やさしいコミュニケーションにのみ触れて育ったひとは、怒鳴るコミュニケーションをしないのか。どうだろうか。隣に住むおじさんの片割れは怒鳴って会話をする。そこに怒鳴っているという意識がはたらいているのかさえあやしいが、ふたりの隔たりのある力関係がそこにうごいているのはたしかだ。フーコーがこんなことをいっている。「会話のとき、われわれはあらゆる戦略を用いて互いに相手を支配しようとする」。コミュニケーションに必要なのは、そのちからに対する自覚なのではないか。リンギスはこのようにコミュニケーションを定義する。「コミュニケーションとは、メッセージを、バッググラウンド・ノイズとそのメッセージに内在するノイズから引きだすことを意味する。コミュニケーションとは、干渉と混乱にたいする闘いである。それは、背景に押し戻されなければならない無関係で曖昧な信号、そして地方なまり、発音間違い、聞こえてこない発音、口ごもり、咳、叫び、途中で取り消され最後まで語られない言葉、非文法的表現といった、対話者が互いに相手に送る信号に含まれる不快な音と、文字記号の悪筆とにたいする闘いなのである」。リンギスにとってみれば、こうした意識をもたないコミュニケーションはコミュニケーションではないということになる。自分が何かを伝えることに苦心するよりも、相手が何をいおうとしているかを読みとることに骨を折ること。読むことの重要性がふたたびたしかめられる。上記の引用は、どちらも2018年の展示の際に抜きだしたものだ。なんどもおなじことをわたしはたしかめる。たしかめるたびに、新しい気づきが生まれている。

彼は電話をするときはおとなしい声だが、同居人に対しての態度は一貫してきつい。上下関係が会話のたびに強化される。耳にするとほんとうに嫌な気分になる。聞きたくなくても聞こえてしまう安アパートのかなしみがある。だから夏場はキッチンで大半の時間を過ごしている。彼らは居間で生活をしているから。声を荒らげないほうの彼はいったいなぜいっしょに暮らしているのだろう。ブチギレて同居人を血祭りにあげるすがたが見てみたいなとまるでフィクションに接するときのようにわたしは思う。

冒頭の問いに立ちもどれば、たぶんそうなのではないかと思う。暴力的な交流に生まれてからたったのいちども触れずに生きていれば、そうなるだろう。では逆に暴力的なコミュニケーションのなかで生き延びてきたにんげんにはやさしい対話ができないのかといえばそうではない。ひとには想像力がある。他者などくそくらえといわんばかりの荒廃した現代において、もはや失墜したかのように思える概念だが、まだ息絶えてはいないはずだとわたしは信じている。これはわたしが文学を信じていることと同義である。ひとのきもちは文学によって養われている、そのことはもっとひろくしられてよいはずだ。恋だとか、愛だとか、それらはすべて文学からはじまっている。


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絵は容量が軽く通信制限下でもあっぷしやすい


スーパーにいく途中には2軒のパチンコ店がある。片方は休業しているが、もう片方は営業しているようで、年老いたおばあちゃんがしきりに店内の様子を外からうかがっていた。人生の娯楽。その選択肢のゆたかさは経験の量によって規定される。経験都市東京に住むということは、その代価を高い家賃に託すかたちで支払っているのだといえる。不健康だ。経験そのものに対価を支払わさせてくれ。経験をつくりだすつくり手にお金を払わせてくれ。

手羽元、厚揚げ、茄子、卵、ねぎで煮込みをつくる。砂糖、みりん、生姜、醤油。ベリナイス。3日かけて食べる。チョコミントのカントリーマアムは冷やすよりも常温で食べるのがおいしかった。あとで温めて食べるのも試す。