アントン・ルシェーの冒険

 穴ぐらの奥深くからひびくおそろしい唸り声は、アントン・ルシェーのなけなしの勇気を打ち砕くにはじゅうぶんすぎた。やっぱりやめておこうと引き返そうとする彼を、後ろに立つロイ・バージェスは怖気づいたのか?とせせらわらって挑発する。なにかいい返そうと口をひらくが、その間にも獣は喉をふるわせて低い音を轟かせており、そっちに気がとられてうまい言葉が何も浮かんでこない。ああもう、いいからもどれよ、と腕をのばして立ちふさがるバージェスを押しのけようとするが、彼はうごかない。それどころか、下卑た笑みを浮かべながらルシェーの胸を突き飛ばし、暗がりの方へと追いつめてゆく。おいやめろって、行くんだよ、おい、やるっていっただろ、押し問答がつづいて、次第に唸り声に吠え声が交じりはじめた途端、やりとりはすぐさま遮られる。荒々しい息遣いさえも耳のそばで鳴っている感覚に襲われ、ルシェーは深い闇をふりかえる。真っ暗の空間に打たれたふたつの点がたしかにそこにはあり、ちいさな炎のようにぎらとひかる。それはバージェスの目にも映ったようで、ふたりは示し合わせたようにぴたと立ち止まる。冷たい緊張が首筋を走る。漆黒に燃えつづける眼光がふたりをとらえ、牙を突き立てて離さない。乾いた舌が、半開きの口のなかで空転する。全身が自身のふるえを感じている。視界がうごめくほどに鼓動が大きい。ルシェーも、バージェスも、一歩もうごけない。息をすることすらもが躊躇われ、ときおり思いだしたように肺が収縮し、拡張する。ぼくらは、目の前の獣と、同じ空気を吸っている。
 ひとつの緊張関係のさなか、真っ先にうごいたのはルシェーでも、バージェスでも、獣でもなく、地面だった。かすかな振動はみじかい周期で地をこまごまとふるわせたのち、大きなゆれに変わって彼らの心情すらもぐらつかせた。穴の内郭がちいさく崩れ、土煙が立つ。獣も突然のことに驚いたのか唸るのを止め、身を伏せた状態で様子を伺っている。その隙をついてルシェーは身を翻し、バージェスの脇をくぐり抜け、ほら穴の開口部へと駆けだした。あ、おい、待て、というバージェスの手が空を切り、ひときわつよいゆれがきて、彼はその場に倒れた。逃げ切れた、とふりかえったルシェーは、彼が闇のなかに吸いこまれていくのを見た。脚にがっしと食らいついた獣によって、無惨な悲鳴とともに、愛すべき友人が暗い暗い穴の奥へと引きずられていくのを見た。

 谷間にあるホンダルツの村にはひとつの学校があり、ルシェーとバージェスはそこの中等科生だった。彼らは年齢や出身、体力、知力などによっていくつかのグループに分け隔てられたクラスの、ちょうど両極端に身を定めながらも、昔からの幼なじみという点で独特の立ち位置のふるまいをする生徒として、学校に属するひとびとから一目置かれた存在だった。方や暴君、方や模範生の凸凹コンビではあったが、その合致具合は誰が見ても申し分ないもので、ふたりの様子をながめて、エルダーコーチであるキーゾーはある種の共同体の希望のようなものをぼんやりと胸に抱いていた。が、その帰結がこうなのである。仲がよいゆえにエスカレートした肝試しは、一方の死をもってして決定的にふたりの距離を遠ざけてしまったのである。
 いや、まだ死んだと決まったわけではない。ルシェーは爆発しそうな心臓を、ありったけの虚勢で押し殺しながら、親友の名を叫ぶ。いくら待っても返事はなく、眼前からははげしい争いの音だけが間断的に聴こえてくる。バージェス、とふたたび叫んでから、彼はいよいよ闇の方へ足を踏みだす。すでに地震はおさまり、もうもうとした土埃が舌の上にはりついてくる。しばらく前から口呼吸をしている所為だ。目に砂が入り、涙がこぼれる。やけになり、ルシェーは走りだした。自らに気合を入れるための雄叫びを上げながら、暗闇のなかを疾走した。反響した叫びはルシェーの健脚が地面を踏みつける音と並走し、穴ぐらのなかを騒々しくみたしていく。争いの音はいつの間にか聴こえなくなっている。
 なにかに蹴躓いてルシェーは転倒する。硬い音とその軽さから察するに、レッサービートルの脱皮甲殻じゃないかとルシェーは体勢を立て直しながら思うが、がさとうごめくその気配を感じ取って、どうやら生体のようだぞと気を引き締める。もしもこれがレッサーではなくグレーターだったらと思うと気が気ではないルシェーは、かつてキーゾーから教わったビートルの撃退法を、小袋に入った豆を箸先でつかみとるように思いだす。一か八か、ルシェーはそのうごめくものに飛びかかる。どんなに獰猛なビートルも、角さえつかんでいれば大人しいのだ。
 しかし、ルシェーがやっとのことでにぎりしめたものは角ではなかった。ところどころにまだ肉片の残る、骨であった。まだ意識の残る、ヒトの一部分であった。弱々しい声がルシェーの耳の後ろで発される。不安と恐れににごった冷や汗が、背の上をすべり落ちる。にぎったところがぬめっとしている。血なのか、自分の手汗なのかも判別がつかない。少し離れたところで、さきほどのふたつの点が彼らを見つめていた。そのそば、よりちいさな無数の点が、ルシェーとバージェスを取り囲んでいた。