生活の縮小先鋭化

家賃のでかさがどう考えても足をひっぱっている。給与が上がらないのだから、出費を下げるしかないのに、いつまでこんな無駄金を払いつづけるのか? たとえば5万円台のところにでも引っ越せば、imacをアップルローンで買って、さらにwifiを開通してもお釣りがくるのである(たぶん)。ダイアログが死に体になってるいま、こんな広さを維持している必要は皆無であって、しかしながら引っ越し費用を捻出できる余裕などひとり暮らしになって以来、いちどもない。国からの給付金が全国一律になった場合は越してしまうのが手かもしれない。とはいえ、同じ街の賃貸情報を見ていても予算的に移り住みたいと思える物件は皆無である。アフターコロナの身の置き方を考える必要がある。

緊急事態宣言が発令されたということは、わたしにとっては少なくとも5月あたままでは在宅勤務がつづくということである(それまでに収束する未来があなたには見えますか?)。昨日2、3週間ぶりに友人と濃厚接触し、たのしいきもちになったが、はたしてこの先1ヶ月、ふたたびだれかと会うことはあるのか? 映画館も美術館もライヴハウスもレコ屋も本屋もやっていなければ外にでる理由が消滅してしまう、というのはいいすぎだが、、と書いていて髪を切りに行く予定を思いだした。ぜんぜん会えるじゃんね。


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牡蠣のオイル漬け、とんでもないうまさ、、おれは余ったオイルでスパゲッティをつくるんだ、、リゾットもありだな、バゲットもいい、おからパウダーをこいつでふやかすのもサイコーなんだ(メモ:つぎつくるときは塩気をさらに足すこと)


ライン上でテキストベースのオンライン読書会を立ち上げて、コロナ禍を主題に友人3名と話し合いをしている。さいしょのテキストは、HAPAXに掲載されているフランコ・ベラルディ(ビフォ)のアジ(?)文。立場のちがいというのもあるけれど、自分ひとりではたどりつけない論点からぽんぽん意見がとびでてきてとても刺激になる。他者が存在することによって、自分の考えが相対化され(SNSにおける「他者」の薄さ……)、自分が比較的楽観的であることが明るみになる。こういう連帯のかたちがいろんなところで起こっていてほしいと思う。

そこで考えたことはここでもかたちを変えて記述してゆくと思います。考えたことを書くのではなく、書いたことが考えたことになるという、そんな感覚を思っています。いま読んでいるエンリーケ・ビラ=マタスバートルビーと仲間たち』にでてくるようなひとらとは真逆の立ち位置ですね(ソクラテスは生前、一文字も書かなかった……)。読んでいて、未読ではありますが、デイヴィッド・マークソン『これは小説ではない』も似た読み味なのではと思いました。次に買う本の候補としてあたまに入れておきましょう。