甲羅から縄

映画館が空いている。ファーストデーだというのに、平日昼間というのもあるだろうが、座席がスカスカだ。快適だ。街はそれなりにひとが出歩いている。退勤時間ともなれば駅には混雑の気配さえただよう。


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先日書いた牡蠣のオイル漬け、しみわたるのを待ち、まだ賞味していない


わたしの家には最終巻だけ買ってない漫画がけっこうある。心残りのひとつであったのだが、今日ようやくそのいくつかに手をのばした。それ町ドロヘドロだ。ともにかつて溺愛していた漫画である。後者はアニメ化の影響か2店舗まわっても在庫が見当たらず。前者は買えたはいいのだが、最終巻の前もその前も買ってなかったことが帰宅後に発覚する。ダブるよりはマシと自分にいいきかせる。いとうひでみというひとの『class X』という漫画も購入した。ジャケ買いだ。漫画の新刊買うのは鬼頭莫宏なるたる』新装版ぶりか? あんなに愛した漫画からなんでこんな遠く離れてしまったのだろうか。シブツタで毎月10数冊買ってたのが嘘みたいだ。

ほか、『オリーブ』の復活号、ドラン特集の『ユリイカ』、スラヴォイ・ジジェクロベスピエール毛沢東』、尾崎翠第七官界彷徨』を買い求める。ジジェクは何気に初である。「肝要なのは、イデオロギーなんだよ、まぬけ!」がとにかくサイコーの文句だが、これはべつの本。

日をおいて、閉店するというささま書店へ。中央線があまり好きではないわたしは、年にいちど行くか行かないかくらいの立ち寄り頻度であったが、詩書につよい古本屋というイメージがあり、堀川正美や谷川雁の本などを買った思い出がある。入り口付近でなく奥に詩の棚があった頃がとくに好きだった。今夜は買い納めとして2冊、990円。また、夕方にメルヴィルの『書記バートルビー/漂流船』と滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を購入。せっかく読む時間ができても、買うスピードの方がはやいので積み本は減らない。

わたしたちはキレ方がわからないままきてしまっているのではないか。どう考えたっておかしい行政に対して、向こうの敷いたレール(webフォームでもメールでもなんでもいいが)に沿って文句をいってる場合だろうか。どうして大規模な暴動が起きないのだろうか。ハロウィンの若者たちも、ついったで気炎を吐くひとたちも、どうにかして暴徒になる道はないのだろうか。階級問題から差別問題へと縮小遷移した闘争の位相は、いかにして再拡大するのだろうか。在宅勤務になるまえ、会社のテレビでは若者叩きが放映されていた。反政府から反若者へ、対立軸を逸らすためである。その軸に逆側から乗っかって、コロナの蔓延で年寄りたちがどんどん死んだとして、たとえば社会保障費が減少したり年金にいまよりも余裕ができたりするのだろうか(なんというネオリベ的発想……)。それもひとつの階級闘争かもしれないが、そこで死に追いやられるのはまず貧者たちからであろう(富裕層だろうが容赦なく命を奪っていくのは報道が伝えているが)。「感情で記号だけ攻撃しろ」(庄司創勇者ヴォグ・ランバ』)は、SNSを戦場として効力を持ちうるのだろうか。その後に付されている「暴力はそのままに!」を、いかにしてきわめてノーマルな状態にもってゆけるだろうか。恩恵を受けている金持ちどもはべつにして、この後に及んで政権を支持しているひとらの気がしれない。「であること」に固執せざるを得ないほどにまで弱りきり、飼い慣らされてしまっている状態から解き放たれるためには、やはり「読むこと」が必要なのではないか? しがみついた手を引き剥がすための、暴力が必要だ。