老馬の味

 居直るようにして盆に置かれた飯の盛り方に、時子は昨日、アパートの階の隙間から覗いたしめった土の上で黄色い野花のゆれ咲くさまを思いだし、さらに今朝章介さんが「ずいぶんと聞きわけがよくてね」といったときの、感慨のこもった「ずいぶんと」の程度をかさねあわせて
「姉さん、これ多すぎよ」
 と、独特の抑揚をもって台所と居間を行き来している空子に呼びかけた。空子は、まあまあ、という動作を顔の筋肉だけを使っておこないながら、大皿を盆の上からテーブルの上にごとと音を立てて移してから
「ほら、ごはんよ」
 と、奥の部屋で遊ぶ娘たちに声を張った。元気のよいはーいという返事がふたつかさなって時子の耳にも飛びこんだのち、中庭の前の廊下に吊るされた青白い電撃殺虫器がバチと小気味よい音を立てた。ふたりのまだ幼く青白い脚が、時子の横を抜けて台所へと向かう。
「ときちゃん、痛い痛い治った?」
 濡れた手をスカートの上でパタパタさせながら戻ってきた風未は畳の上に脚をたたみ、後ろを振り向いて時子に尋ねた。
「まだ痛い痛い?」
 時子が返事をする前に、両手に中鉢を抱えた海未が台所からやってくる。手のひらがつくるやわらかいカーヴを伝って、水道水の雫がぽた、と畳の上に落ちる。
「痛い痛いがどこいくかしってる?」
「ウルチャーのとこにいくんだってしょうちゃんいってたよ!」
「でもウルチャー死んじゃったから、痛い痛いどこ行くんだろう」
「痛い痛いどう?」
「痛い痛いどこ?」
 時子の答えは端から期待していないというように双子は言葉を連ね、きゃっきゃっとおたがいのからだをここ、ここ、と手のひらでたたいてわらいあっている。
「ほら、はしゃがない」
 空子が味噌汁を四つ、盆に載せてやってきて、子供たちはあぶらげ!と手で狐をつくってまたきゃはきゃはとほほえみを交わしている。時子が立ち上がり、片足を引きずって食卓へと近づきながら、
「ねえ、章介さんまたなくていいの?」
「いいのいいの。どうせまた飲んで帰ってくるんだから」
 と、空子は慣れた手つきで盛り上がっている風未と海未を着座させてから、時子の隣に腰を下ろし、子供二人大人二人の四人で囲むには大きいテーブルの長辺に二人ずつ並んで、いただきますと声を揃えたところで、玄関の扉が叩かれ、木枠におさまった磨りガラスががしゃがしゃとぐらつき、空気をふるわせた。
「はーい」
 と、膝を鳴らして立ち上がった空子がそそくさと居間をでていくあいだに、娘たちは大皿に載った臙脂色の大輪にいまようやく気がついたようで、
「これ、ウルチャー?」
「お母さん、これウルチャー?」
 と、首をからだごとひねって大声を上げる。
 母親は訪問者の応対に心身を傾けていたために、何も答えず、代わりに時子が
「それはウルチャーじゃないよ」
「じゃあ、これ何?」
「何チャー? 何チャー?」
「なんだと思う?」
「うーん、肉チャー!」
「チャーハンチャーハン!」
「肉あんかけチャーハン!」
 と、会話にならない会話をしていると、玄関から空子と、真新しい黄色のフィッシングベストを着た大男があらわれ、チャーチャーわめいていた声が一文字にむすばれた唇によって一瞬にして断たれた。
「チャーハンチャーハンいってるから中華かと思ったら」
「馬刺、嫌い?」
「あんまり食べたことないな」
 テーブルの短辺側に座布団を敷いて座った男は、右手にぶら下げていたビニール袋のなかから缶ビールを四つ取りだし、そのうちひとつのプルタブを起こした。
「時子さんも飲む?」
「いらない」
「そっか」
 男は空子がもってきたグラスに手酌でなみなみとビールを注ぎ、のどを鳴らしてあおった。双子はだまって味噌汁に口をつけ、次いで馬刺に箸をのばした。
「しかし桜肉なんてめずらしいじゃないか」
「飼ってた馬が死んじゃってね」
「あー」
 と、あけられた口にふたたびビールが注がれたのち、辛味のあるにんにくだれの絡んだ馬肉がふた切れまとめて押しこまれる。うん、というつぶやきが閉じた口からこぼれ、次ぐ言葉はないままにグラスがすっかり空にされ、細い空子の指がそこに黄金色の液をみたすために空を駆けていく。
「わたしも飲もうかな」
 と、空子は中身の大半を注ぎおえた缶を男のグラスに軽く当てて音を鳴らし、乾杯の風情をまとわせながら唇にはこび、おおきく傾けた。口を湿らせた男の毛むくじゃらの手がリモコンにのび、騒々しい笑い声がテレビからひびきだす。時子は、目の前に座る何も喋らなくなった子供たちが、一切肉には口をつけず、ほうれん草のおひたしや、イカと大根の煮物なんかをつついてこまごまと米をほおばっているのをぼんやりとながめながら、舌の上でつめたく横たわるウルチャーを、時間をかけて、ゆっくりと、噛みしめていた。