アンタッチドあんたんち

自由が丘に片手鍋を見に行った。現在使っている鍋は蓋の取っ手がはずれ、鍋底は削れに削れまくってもう限界という様相で、この機にいろいろキッチンウェアを買い揃えようという魂胆である。先日は無印でバットを購入した。揚物の衣入れや切った野菜の一時避難所としてさっそく活躍しており、とても便利である。同時に箸立てもプラからステンレスに新調し、いい感じである。片手鍋は事前にwebでながめていた通りフォルムがかわいかったので購入した。エピキュリアンのまな板もかわいかったが、それなりに値のはる土鍋をげっとしようとしているのもあって今日のところは見送った(なお何年も前から購入を検討しているバーミキュラではない、あれはホーローだ、でもホーローもいいよな、迷いに迷っている)。何年も前にフライングタイガーで買って日々使っているまな板、ちいさく、かたく、使いにくいのだ。ここ5年くらいまな板買うぞの波がたまにやってきて、前回は栗原はるみの丸いまな板を買い替え先に選ぼうとしたのだけれど、いかんせん家のキッチンが狭すぎて使いこなせる展望が見えず、ここまできてしまった。なんどめかのこの波、うまく乗り切れるか? ということで、今日はいくつかの雑貨店もといライフスタイルショップをまわり、そばちょこを買って帰宅。酒や茶やつゆを入れる。万能だ。今年は食器で気分をあげていきたい。いい皿を買うぞ。


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こういうワンプレートで食事をするときにさらにテンションをあげたい、なおブリ照り is SAIKYO.


シネマヴェーラにひさびさに足を踏み入れた。新藤兼人特集だ。この監督も観よう観ようと思って機を逃しつづけてきたひとで、今回『鬼婆』(1964)にてようやく邂逅を果たした。ラース・フォン・トリアー『メディア』(1987)でもあった葦(すすきが原とあったので芒か)が風にゆらぐカットの美しさに目を瞠る。フォン・トリアーのインタビュー本では黒澤映画の影響を受けているなどと語られていたが、もしや本作も影響源のひとつとしてあるのだろうか。林光のおどろおどろしいパーカッションとともに、長い葉のゆれるさまが、モノクロームの陰影を切り裂くようにスクリーンにさざめき、劇中性欲のままに疾走する女のすがたとともに執拗にインサートされる。この怪作は幼少期のビョークにも衝撃を与えたそうだが、性に溺れる娘役の吉村実子の顔立ちがビョークにまあまあ似ている(ビョークといえば引退の折に映画はもうおわりだとぼやいていたタル・ベーラにもキレていたらしくてサイコーだなと思った)。客席がおじさんばかりで、将来おれもこうなるのかと思うとかなしいきもちになる(なぜに? 惰性的再生産に乗っからずにステロタイプなおじさん像に終止符を打とう、ニューおじさん、ニューおばさんのよい時代をつくってゆこう。

今月もこのままのペースだとデータ容量オーバーするなあと意識して節制モードに入っていたのだが、Apple Musicがwifiが切れようとも容赦なくダウンロードを続行したために辛うじて保たれていた一週間分程度の余裕が一気に切りくずされ、まだ半月もあるのに残り0.5gbを割った。シューゲイザー飲みの直後であったがゆえの悲劇である。昨月もはやい段階で制限がかかって月末不便な思いをし、不用意なYouTube視聴は控えようと決意したところだったというのにさっそくこのざまである。もうネットフリックスプランにしようかな。YouTubeでさんざ広告を見せられたおかげで耳障りなイントネーションで脳に刷りこまれている「データ容量上限なし」である。こんな歳になって通信量で一喜一憂してるのマジでばからしいな。みんな子どもの頃に考えてたような大人になれてる??

帰宅して、さっそく買ってきた鍋でパスタソースをつくる。ひき肉、トマト、ヨーグルトに塩胡椒をふりかけひと煮立ちさせ、茹であがったスパゲティをほおりこんでかるく和えたのち、しあげにシュレッドチーズを投入する。途中、熱された蓋でやけどをし、細長い水疱が手の甲にあらわれる。山脈のように盛り上がったそれは白くにごって、周囲には赤い裾野ができる。肌理の交差に山肌のけわしさを見ながら、そこから手首の方にすこしくだると、さしずめ湖のようにして他の皮膚とは異なる様相を見せている古いやけどの跡もある。ひきのばされたビニールの質感をかさねることもできるこのちいさな湖面は、さっきできたばかりの傷と、やがては双子のようにして、わたしの左手を彩ることになるのだろう。