犬の歯

 犬の歯が転がっていた。一目では数え切れぬほどに方方にちらばり、土のつめたさを強調する荒涼さが周囲に漂っていた。なかには歯肉が残っているものもあって、赤赤としたそれに茶と黒の入り交じった体毛が付着していたり、かたまった黒い血や、できもののような砂土がこびりついたりしているものもある。たった一本だけのものから、鼻や顎がひっついたものまで、一面、皆等しく、荒々しい風に曝され、野垂れていた。
 いくつかの目は、生前と変わりのない歯列を残こしているものを見定め、うちひとつを手にとると、表面にこまごまとしたものがうごめいており、それが蛆だとわかるまでしばらく見つめつづけてしまうのがあって、その後ろでは手頃な枝を引っ掴んで腐った舌を刺し抜く者や、一本一本歯をつまんで拾い集める者もいた。ばらばらにうごくわたしたちは、そのまま犬の歯に囲まれながら犬の歯の周りをそれぞれうろうろしていたが、突如風向きが変わった途端、きょうれつな死臭に鼻を衝かれ、今朝胃に詰め込んだ缶詰の中身を犬の歯の上にぶちまける者があらわれた。
 「きたない」と声を挙げる者と、「もったいない」と声を挙げる者がふたりずついたが、じっさいのところはもったいないと思う者の方が多く、こみあげる胃液を押し止めようと努力する者たちが複数いたにもかかわらず、次いであふれてしまう者も二三でた。飛沫が足にかかり、不快な思いをする者もいた。
 そうこうしているうちに「みて」と肩を叩く者がおり、ふりむくと歯だった。歪な犬の歯が、一本一本自らの口腔に生え揃った歯の上に被せられ、つまりにつまった鉛筆立ての口のようにはみだして目の前にあった。歯の違いだけでこれほどまでに人相が変わるのかとわたしたちは驚いたが、その高さの違うぎざぎざの歯列を備えた人物が、先ほど熱心に犬の歯を蒐集していた者であることは間違いなかった。
 何とも言いようのない愉快さがそこにはあり、わたしもわたしもと何人かが続いて、噛み合わない歯をがちがちと鳴らしながらはっはと笑い合っていると、藪のなかから生きた犬が続々とあらわれ、死んだ犬や、まだ生まれていない犬、死にかけ、生まれかけ、死にたて、生まれたて、そのあわいでどちらに向かおうか迷いあぐねている犬などまでもがやってきて、ぐるりとわたしたちを取り囲んだ。よだれを垂らしながらやかましく吠え立てる犬たちに、わたしたちも負けじと雄叫びを上げて応戦したが、余計にうるさくなるばかりで、しまいには足元に転がった犬の歯たちまでもが吠え始める始末だった。
 見つめあう犬と歯とわたしたちのなかには、たがいの歯の本数でも数えてみようかと思う者もおり、ひいふうみいと指折り歯折り数を唱える姿がいくつか見受けられたが、なんど数えても歯は増えるばかりで、正しい数を数え上げるのはあきらめるしかなかった。それは犬も歯もわたしたちも納得した上で合意できる、唯一のことだった。
 いや、もうひとつあった。風が止み、それぞれがさんざん声を挙げた所為で喉が乾いて、でも止めてはいけないとまだまだわめきちらしてしばらくした頃に「これはおもしろい」とひとりが言うと、「たしかに」と応える者があったのだが、地が音によって埋め尽くされてしまったかのように思える吠え声にかき消され、そのふたりのあいだだけに通じたやりとりとして記憶された。この記憶もいつか消えてしまうということが、わたしたちも、犬も、歯も、涙がでるほどさびしかった。