二重化された人体の分断

自由を志向する姿勢を顕彰するしごとをしながらそれにたずさわるわたしの自由ががちがちに縛られているのはなぜなのか。複数の考えが入り交じる「集団制作」において、「下働き」の立場にある者が加担したくないことがらに対していくら拒絶のふるまいをしたとて、権力はそれをないものとして圧しつぶし、何事もなかったかのように平らにならしてゆく。瞬く間に過ぎ去る、あるいは迫りくる時間は、思考を奪い、目のまえの案件を先にすすめることに集中せざるを得ない状況をつくりだす。そこでおこなわれる行為と、自らの思想や精神とのあいだには、はげしい亀裂が生じ、するどい痛みが走る。その乖離しかけた二重化された身体は、自らのうちにひとつの思考がかたちづくられていくのを感じとる。わたしはなぜこんなことをしているのだろうか、と。


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加えて、そのふたつにわかれようとする身体の背後では、また新たな分断のための影がゆれている。不愉快で、屈辱的で、どうにもこうにもうんざりすることばかりで、もうおわり、もうむりだというきもちだけになっている。信頼はいともかんたんに葬られる。あまりにも空疎な言動の節々、というよりもその根本において「ひとをなめている」としか思えぬ行為に手を染めながら、どの口がいうのかというようなことをのうのうと宣ってみせるその態度にわたしは耐えきれずにいる(まったくべつの地平では、そう形容されるべき存在はまごうことなく「わたし」である)。前後左右、どこを向いてもかなしみしか見当たらず、どうしようもない。この地は行き詰まりである。底である。


地獄の連勤のあいまに本谷有希子の『本当の旅』を観劇した。大学時代に演研の『遭難、』を観たり、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』や『江利子と絶対』を読んだりしていたが、本人演出の舞台を観るのは初めてだった。正直なところ、こんな感じなのかとわるい意味でショックを受けた。森達也らが撮った『311』を観たときに感じた作家と観客の「共犯関係」すらもすっ飛ばされ、表面だけがこそぎとられた「冷たい笑い」だけがスタイリッシュなあしらいのもとに提示されているようにしか思えなかった。「40歳になってまでも夢を追い」、体験を写真で記録し、「SNS映えにこだわる」ひとたち(次々に代替されてゆく「ぼく」「おれ」「わたし」……)を、ずっと馬鹿にしつづける態度が、何ものにもむすばれず、ただただ露悪的な時間だけが空間を支配して、そのまま終幕する。「原宿」の「オシャレなショップ」で、「社会的な成功をおさめた作家」が、こうした演劇を「いまの時代の日本」でやることにまったくのれなかった。これは作品とはべつの次元のことだが、ついったで賛の声しか見あたらないことにも信じられないきもちになる(こうした賛否のバランスの鑑賞体験は記憶に残るよなと思う、わたしが否の立場であるか賛の立場であるかにかかわらず、、

わたしは胸糞ラヴァーではあるが、もしかすると冷笑的なそれは苦手なのかもしれない。理不尽でもなければ、いたたまれなさともまたちがう、「軽薄な」悪意が空間にながれていた。そもそもその軽薄さこそが本谷有希子の魅力ではなかったか。そうした表現の、いわば源となっている他者を見つめる作家のまなざしが、作品を通して客席に座るわたしたちの心裡すらもとらえる。その視座の高さに辟易とするわたしは、いったいどこに身を置いているのだろうか。

そういえば、本谷有希子はまだ演劇のえの字もしらないころ、オールナイトニッポンを聴いてしったのだよなと思いかえす。10年以上のときを隔てて、こうして作品に出会えるというのはとてもよいことだなと思う。おれもそういうスパンで対話を成立させたい。