さつきちゃんが帰ってこない

 フライトの時間が迫っていた。ちょっとお手洗い、といいのこしてさつきちゃんはかれこれ1時間ももどってこない。これもってて、と手わたされた濃いめのホットチョコレートは液体から固体への形態変化をじわじわと進行させており、わたしはすでに飲みほしてしまったカフェラテをダストボックスにそっと入れ、さつきちゃんのストローの先をくちびるの先であさく噛んでちゅちゅうと吸った。もったりとストローのおしりからもちあがってくる半液体のチョコレートは、わたしの口のなかで甘みをねっとりとちらしてチュッパチャプスの記憶を呼び起こす。わたしの叔父はチュッパチャプスを日本に輸入する会社に勤めており、ときたま実家を経由して、わたしのもとにも業務用の袋づめにされた色とりどりのロリポップが送られてくるのだった。目の前をローラースケートを履いた女児が通り過ぎていく。
 その黄色く光るローラースケートがエントランスホールの方にすべっていくのを見ていると、その奥──つまりはエントランスの方から見知った顔が歩いてくることに気がついた。
「ナツ?」
「あっこ!」
 わたしの手ににぎられていたカップは重力に従って落下し、つやつやに磨かれた床面に茶色のズッタラモッタラが、スローモーションのようにでろでろと散った。きつく抱きしめる両腕が、パッとはじける。
「わーーあっこ! あっこだ!」
「ナツ、ひさしぶり、ほんとうにひさしぶり!」
 わたしたちの抱擁は世界の中心だった。はなされた両手がこんどは先端でむすびあい、わたしたちは天体のようにくるくるとまわった。ナツの三つ編みがぴょんぴょこと跳ね、わたしのピアスがきらめくように踊る。知らず識らずのうちに欠けていた微細な、それでいて深い空洞に、幸せとよろこびがあふれるまで充たされていき、そうしてはじめて自分の欠落していた部分の大きさに気づくような、そんな幸福な再会だった。
「なに、これからどっか行くの? もしかして、男かー?」
 つめたい指でほっぺをぐいぐいと押しつぶされながら、この「昨日ぶりのたわむれ」のようなナツの陽気さに救われる思いがした。わたしは足元に転がるカップに一瞬目をやって、彼女の指をはがしながらカナダに行くのだと伝えた。
「え、嘘、どこどこバンクーバー? トロント? わたし去年までモントリオールに居たんだよ。ワーホリ使ってさ。なんか遊んで一年終わっちゃって、たいして英語もできるようになんなかったけどさー、あはは」
 わたし牧場主になる、と突然大学を辞めて北海道に発った彼女とは、ほぼ10年ぶりの邂逅だった。ナツとは学生寮の同部屋で、当時とびきり仲の良かった二人組として友人たちのあいだでは認知されていた。にもかかわらず、すぐにわたしたちは連絡がとれなくなってしまったのだった。最近に至るまで、何人もの共通の友人に「ナツどうしてる?」とよく尋ねられ、そのたびに「よく知らないんだ」と答えるわたしは、その言葉を口にするたびにナツが自分のもとを離れていくような感覚におそわれて、ふたりのあいだにむすばれていた絆のようなもののはかなさを思うのだった。
 そのはかなさは、いまべつの輪郭を得ようとしている。他愛のない会話は、相手が誰に代わろうとも変容することがない。そうした会話にわたしはもうよろこびを見つけることができなくなってしまっている。ひさしぶりという感覚によっていちど麻痺したわたしの感情は、ナツとの会話のなかに血の通うようなすじをひとつも見いだすことができず、だんだんともとの状態にもどりつつあった。
「じゃあ、連絡してね!」
 おおきく手を振りながら去っていく彼女の後方から、さつきちゃんが走ってくるのが見えた。わたしの右手のさよならは、何ひとつ変わることなくおかえりに変貌する。これから恋人とハネムーンなのだというわたしに、ナツはいったいどんな相手を想像しただろうか。いきおいよく駆けこんできたさつきちゃんのスニーカーが、半硬直したチョコレートをしっかりと踏みつける。構わず「gogo!」と彼女は叫び、茶色の点々を床にのこしていきながら、そのまま搭乗口へとすべりこんでいく。わたしもその軌跡をたどって、さつきちゃんを追いかけてゆく。