ひとつの階段といくつかの扉で

 階段を降ったところに便所があり、昇ったところに屋上があった。そのちょうど真ん中の踊り場には、わたしがたったいまでてきたばかりの半開きのドアがある。この真緑のドアに付いたからし色のドアノブにかけている手を放せば、分厚い長方形(施工者が手を抜いた所為で下辺の塗装が開閉の度に擦れてまだらになっている)は鈍い音を立てながら弧を描いていき、ちょうど昨晩食べたチーズケーキの角度を少し超えたあたりでオートロックがかかってわたしは孤絶することになる。閉まりかけのドアに再度手を伸ばして内と外との断絶が起こるまでの時間を引き伸ばしたのはそれを回避するためだ。だが、悠長なことはいっていられない。わたしがいないことに気付いた、いつも顔に薄ら笑いを張り付かせた目敏く狡猾な人々が大声でわたしの名前を呼びながらここにやってくるのは時間の問題である。わたしがどれだけ接続の持続に精を尽くしても、他者による介入――つまりは物理的切断が行われれば一度つながった空間と空間は元のように途切れてしまい(というより、空間は元々そこに唯一のものとしてあって、人間の介入によって複数に分けられたのではなかったか?)、わたしはその片方へと連れ戻されてしまうだろう。それは孤絶よりもおそろしいことだ。からだの向きを変え、次の踊り場まで一段飛ばしでゆっくりと昇っていく。ところでいま何時だろうか?
 屋上までたどり着くには三つの踊り場を経由しなければならなかった。その二つ目に差し掛かろうかというとき、急に右下腹部に激痛が走り、その場にうずくまろうとする意識の伝達が起こった。あまりの激しさに思わず口からうめきがこぼれた。同時にひとつ上の踊り場の窓が開いた。わたしの神経は腹痛に集中しており、なおかつ窓を開ける動作が、開けてはいけないと事前にきつくいい渡されていたカーテンをこっそりとめくるときのような慎重さと繊細さをもって行われたために、そのことに気付くのは以下のような声――まだなの? わたしもう待ちくたびれたわ――が頭上から聞こえてきてからだった。
 そこから逃れようにも、わたしは発熱する鉛を腹のなかに何匹も飼っているような状態で、一切身動きをとることができなかった。窓から身を乗りだし、煙草をくゆらせながら一人の女が階段の段差の数を数えている。幸いなことに彼女の視線は下ではなく、屋上の方へと動きだした。一段一段、頭に描いた架空の細長い四角形を足場と足場の隙間に当て嵌めながら、ていねいに数えていく。架空の四角形には奥行きがあり、ちょうどジェンガのピースのようなかたちをしていて、視線が段差をとらえる度に新しいものがその場に置かれてゆくのだった。たまに小豆色をした手すりに角が当たり、そのときに鳴る甲高い音でわたしは全身を震わせた。時おり女の口から放たれるあきらめが兆したさびしげな声が、壁に反響してしばらくこの空間をさまよっていく。誰かと通話をしている。この場にいない誰かが、この場に思いを馳せながら。この場にいるわたしが、この場から思いを飛ばすように。
 十三段目まで数えおわった瞬間、わたしの後ろの方で新聞紙を踏みつぶしたような音が聞こえた。振り返ると、あわい橙の光に照らされて一人の男が立っていた。ベンだった。
 ベンはパブを開くためにアメリカから一人でやってきたんだと会う人会う人にふれまわっていたが、実のところはもともとこの町の生まれで、現在に至るまで実家をでたことはなかったし、本気で店を構えようと思ったことも一度もなかった。父親はジムのインストラクター、母親は国語教師をやっており、彼らがとくに金の掛かる趣味も持たず、ベンのほかに食わせなくてはならない家族もいなかったこともあって、ベンはこれまでずっと働いたことがなかった。そして今後も働こうなどとは露にも思ってはいなかった。
「なあ、いつまでそうしてるんだ?」
 湯煎したてのチョコレートのような肌には似つかわしくない、流暢な発音だった。いまのいままで国から一歩も外へでたことがないのだから当たり前だった。返事は返ってこなかった。代わりに女は窓の方へと向き直り、それじゃ、といって電話を鞄にしまった。それからヒールを脱ぎ、窓から外へと投げ捨てた。右足を窓枠に引っかけて、いままさにそこから飛び降りようとする。
 
 便器に尻が着地したとたん、俺の括約筋は弛緩しきって大量のスカムをひりだした。勢いよく飛び散ったそれは何時間ものあいだ均衡が保たれていた水面を荒立たせ、そのうちのいくつかは垂れ下がった尻肉へと跳ね返ってきた。数滴のつめたさに一瞬からだがどよめいたあと、ようやく解放された安堵に息をつきながら、ゆっくりと残りのかすを直腸から絞りだしていく。給仕のやろう、腐ったケーキなんぞだしやがって。ぶつくさと文句を吐きながら、クソを垂らす。びちびちびちと。おい、紙がねえじゃねえか! クソ。クソ。クソ!

※2015.3-2016.2にこれまたリハビリとして書いていたものです(未完)