チョロQ駆けてけ

「落ちた方が負け」
 辻本はそういってぼくの目を真正面からきっ、と見た。ぼくはすぐに視線を逸らす。いきなりなんなんだよこいつ。むかつくな。ここはオンナの来る場所じゃないってわからせてやる。
「いや、意味わかんないし。なんでそんなことしなくちゃいけないわけ。だいたい、おれ辻本と話したことすらないじゃん」
「いま話してる」
「や、それはそうだけど、そういうことじゃなくて……」
「そんなの関係ないでしょ。さ、はやく準備して」
 辻本は左のポッケからチョロQを取りだし、ぼくの方に迫ってくる。いや、ちょっとマジでやめてくれ。
「ほら、持ってるんでしょ?」
「も、持ってるけどさ」
 ちかい、ちかいよ辻本。こんなにオンナとちかづいたのなんて小4の合唱コンクールのときに貧血でたおれてきた藤崎の下敷きになった以来だよ……。
「もう、じれったい」
「あっ」
 辻本は躊躇なしにぼくのズボンのポッケに手をつっこんだ。おい、まって、ちょっと、
「だめだって、」
 辻本の手が布切れ数枚の薄さを通してぼくの太ももに触れる。もぞもぞとうごくゆびさきがやがてぼくのキケンな場所にかすってしまう。
「や、ちょ、」
 ぼくはとっさにからだをよじって両ひじをわき腹にぴったりとくっつける。手のひらはパーにして、おしりのあなもきゅっとしめる。日々の兄貴とのもめごとのなかであみだした、絶対防御のかまえ。そんじょそこらのクソガキどもがつかう「バーリアっ」とは格がちがうのだ。ぼくはその体勢のまま腰を勢いよくひねって辻本をふりほどこうとする。が、手はポッケから抜けてくれない。
「いった……」
 ポッケの開口部で手首が擦れてしまった辻本がぼやく。お返しだといわんばかりにゆびのうごきは過激になっていく。あ、辻本、そこは、
「ほら、あるじゃない」
「だ、」
 辻本はそれをぐっとつかむと、一気にひっぱりだそうとする。あ、ああ!!
「さんだーーーーーーーーーーーーーー!!」
「な!」
 8月の稲妻のようなぼくの絶叫と、思っていたよりもやわらかいその感触によってすべてを理解した辻本はザリガニが逃げるスピードなみの瞬発力で手をひっこめる。
「何さわらせるのよ!」
「こっちの台詞だよ!」
 茹であがったようになった顔を見合いながら、ぼくたちは屋上に立ち尽くす。ぼくはこのとき生まれてはじめて、女の子の目をまっすぐに見た。10年後も、20年後も、50年後も。ぼくはこのときのことをなんどもふりかえった。
「それにチョロQはこっちのポッケだよ!」
 ぼくは上着の右ポッケからチョロQをとりだす。西陽にかがやく真っ赤なボディ。ベントレーコンチネンタルGT XXX フライングカスタム 2001年式。お父さんの友達から退院祝いにもらった、レア中のレア、激レア中の激レアだ。
 辻本はそのスゴさには目もくれず、だまって手すりの上にチョロQを乗せる。わかったわかった、これでちゃーんとわからせてやるよ。ぼくもゆっくりとへりの方に歩みより、フライングゼロワンを右手にかまえる。
 こうしてぼくらは、夕陽に染まる校舎の屋上で、なぜだか雌雄を決することになってしまった。赤錆びてボロボロになった高欄の横に立ち、チョロQをセットする。ぼくらの間隔は約3メートル。勝負は一瞬だ。野球部のまわれまわれという声がグラウンドの方からきこえてくる。
「3、2、1、でスタートね」
 ぼくは無言でうなずく。
「3、」
「2、」
「1、」
 それぞれの手から解き放たれたチョロQが、欄干の上を走っていく。はげた鉄にタイヤを取られながら、2台のチョロQが疾走する。爆走する。激突する。金属バットがボールの芯を打ち抜いた音。片方は落下し、片方はそのまま走りつづける。
 ぼくは見ていた。落ちつづけながらも、中空を滑走していく真紅のスポーツカーを。辻本はにわかに歓声をあげる。ぼくの視線は空飛ぶベントレーからうごかない。飛んでる。フライングゼロワン、飛んでるよ! 欄干に置かれたままだったぼくの手のなかに、減速してだらだらと走ってきたチョロQすぽっとおさまる。それと同時に、ゼロワンは砂利のただなかにあたまをのめりこませた。火花のようにパーツがはじけとび、赤の塗装が無惨に散開する。おまえ、やったよ。よくやったよ!
 顔をあげると、辻本が満面の笑みでVサインをしていた。勝利のサイン。ヴィクトリーのサイン。ぼくは自身の高鳴る鼓動に気がついた。夕焼けのはげしさに負けないくらいの、まぶしいかがやきがぼくの目に映っていた。