もう一回光ってもいい?

アガンベンの話を同人会議でしているので、ちゃんと読むべえと枕もとに所持している本をあつめる。訳者の書いた概説書1冊含め、5冊ある。それぞれバラバラに読んではいるが、会議の最中、容易に話せるほど自分のなかに彼が存在していないので、まずは書くことでそこに近づく算段だ。ここでやる。

そんなことを思いつつ、ながらく積んでいた上妻世海『制作へ』のシュリンクをやぶり、収録されているテキストをバラバラと読んでいく。芸術、あるいはオブジェクト(道具)の自律性の話は、ペソアの澄みきったやり方で咲く花の話と似ていると思った。廣瀬純が彼の詩を引用しながら、著作のなかで以下のように書いていた。

「澄みきったやり方で存在する」とは、他人についても自分についてもいっさい表象を持つことなく、世界のまったき現前性のただなかにおのれの身体と脳とを書き込むということだ。(…)「我々が目にするどんな事物も我々の眼前につねに初めて出現するものでなければならない。実際、どの事物も我々がそれを目にするのは初めてだからだ。したがって、たとえ我々がそれをかつてのそれと同じ名で呼ぼうとも、すべての黄色の花はその一つひとつが新たな黄色の花なのだ(…)」(廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる』より)

カッコ内の文章は、ペソアがアルヴァロ・デ・カンポスとして書いたものである。たとえばわたしたちがタンポポを見るとき、「タンポポだ」とその種の名をもってその存在を認識する。だが、そこに咲いている花は、「種」であるまえに「個」である。その時その場にしか存在しない、唯一無二の形状をした一輪の花である。こうした世界の見かたをひとびとに回復させるものが「革命」であるとペソア-廣瀬は語る。そして上妻は「芸術作品」にその役目を担わせる。

現代社会は日常で五感を用いる必要性をなるべく排除し、抽象的な操作で生活することができるようシステムを整えている。しかし、マルティン・ハイデガーによると、それは現代において特有のことではない。彼の有名な道具分析は、僕たちが日常において物事を意識のうえで現象として扱っていないことを教えてくれる。僕たちはモノが壊れるまで意識/現象にほとんど頼っていない。ハンマーは壊れるか、棘が出ているなどして掌に痛みを生じさせたり、重すぎて持てなかったりしない限り、知覚されることはない。僕たちは地震や氷の上を歩かない限り地面を意識することはない。内臓は病に罹り機能不全にならない限り意識されない。(上妻世海『制作へ』より)

わたしたちは牛丼を食べるときに「この牛」を意識しない。だが、「具体的に牛の狩猟から調理までを見ている(内臓の匂いを嗅ぎ、肉を裂き骨を砕く音を聞いている)なら、「牛」も「血」も「肉」も、それ以外のものではあり得ぬ生々しい「実体」をもって、僕の情動と身体と結びついてしまうだろう」と上妻は書く。そうした回路をつくりだすものが「芸術作品」であるとも。あまり内容をおぼえていないが、ネグリの『芸術とマルチチュード』もそういう話をしていたのか? 気力があったら読みかえそうと思った。

ほか、引用されている宮川淳の文体の異様さにしびれる。

昼、食パンにハムとチーズとマヨを載せ、こしょうをふったもの、それから昨晩つくった鰯とじゃが芋のトマト煮をもういちまいに載せ、トースト。うまい。

夜、肉野菜炒め。豚肉・しめじ・舞茸・キャベツ・玉ねぎ。にんにくと塩胡椒・鶏がらスープの素・醤油。

プリキュア食玩カードにはウエハース、キラキラカードグミ、クリアカードコレクション、キラキラトレーディングコレクション……といくつも種類があって、それらをフルコンプしようと思えばそれなりの金額がかかる。わたしの胸のうちにあるプリキュア愛を注ぐために、何かに手をだそうとは思っているのだが、こうして複数の選択肢をまえにしていると何もできず、「最新ビデオの棚の前で 2時間以上も立ちつくして 何も借りれない」(syrup16g「神のカルマ」)になっている。

トロプリ40話。みのりん回。「あたまでっかち」で「穴があったら入りたい」という台詞があるシーンの画。小石に蹴躓いて地面にたおれたみのりん先輩をアップで映し、彼女がさらにうつ伏せになるうごきも取り入れて、言葉を補強していた。画を意味に応対させる、正統派のうつくしい演出だった。ほか、まっさきに「気を利かせる」ローラの成長ぶりにほほえましいきもちになった。つねにわたしがわたしがというきもちが先走っていた彼女が、かけがえのない友人たちと過ごすことによって、明確に変化を見せている。これは、今回フィーチャーされていた「伝説のパパイア」にも通ずる構造である。

ほか、胸を張るローラとまなつの芝居がよかった。出勤前の妹が、原稿用紙に書かれた『マーメイド物語』の表紙を見て、「みのりちゃんは升目からはみださずに字を書く人だと思ってた」とつっこんでいたのが印象的だった。みかえしてみたら、たしかに字がはみだしていた。

バイス14話。クルクルといろんなものがひっくりかえっていてたのしい。フェニックス内でも、デッドマンズ内でもこれまでAだったはずのものがBとなるさまが描かれ、さらにはいっきにいの「おせっかい」を「エゴイスト」に反転させるようなツッコミもあり、そのくつがえりのドラマが今回の見どころとなっていた。次回は敵基地に突入する展開だそうだが、はやくもクライマックス感があり、たのしみ。毎話毎話おもしろいおもしろいと観ているが、ほんとうにおもしろい。これまでの人生で「仮面ライダー」を全話通して観たことないのだが、そのはじめての作品になるかもしれない。


f:id:seimeikatsudou:20211230174056p:plain
453


さむくて気分がおちている。そうするとどうなるか。ふとんにくるまってブログを読むことになる。会ったことのないひとの無数の生活を読み、自身の位置をたしかめるのだ。ずいぶんとうしろむきの動機だが、読んでいるうちに多少は回復が起こり、起き上がれるようになる。

夜、とろろ山葵入り。豚バラ・ゴボウ・長芋・人参・長ネギの味噌炒め。うまい。

祖母に最後に映画館に行ったのはいつかと問うと、10代の頃ではないかと答えるので、その歴史のあつみに衝撃を受ける。ゆうに半世紀は経っている。何年か前に『二十四の瞳』が好きだという話をきいたおぼえがあり、観る機会なくいまに至ったので、こんどいっしょに観ようと誘うとよろこんでいた。小学生の頃に教師に引率されて観に行き、それからしばらくして「いい映画だったな」という思い出を頼りに自ら映画館に観に行ったと言っていた。

カナシーは沈着する(ではあなたは?)

部分的なハードワークはいいが、全体的なハードワークはしたくないなと思った。個別的ないそがしさは望むところだが、総体的ないそがしさは勘弁してほしい。結果的に細部に時間がかかるのはどんとこいだが、慢性的に時間が費やされるのはお帰り願いたい。苦のない生活の輪郭を描くための、自身の感情の腑分け作業。わたしが何を思っているかは、言葉にならなければわからない。

夜、ポークソテーとブロッコリとニンジンのつけあわせ。肉は塩胡椒+にんにくと醤油、野菜は同様の調味料に加えてハリッサとマヨ。うまい。

尾田栄一郎『ワンピース』101巻読む。情報量がむちゃくちゃ多くて疲労した。ゾロふっかつのシーンとかきっと爽快感があるはずなのに、ない。びっくりする。盛り上がっている巻のはずなのに、コロナ罹患中に100巻までを読んでいたときの興奮みたいなものが、ない。びっくりする。

ぼんやりした億劫さがある。きもちがくもっている。自己主導ではどうにもならない予定の存在がおもりになっている。

ながらくかかっていたワークを先方に送る。全体の5分の2くらいはおわったのだろうか。今冬中に刊行できるとよいと思う。

夜、鶏とえのきと白菜の生姜鍋。塩麹と顆粒あごだし。うまい。

幾原邦彦少女革命ウテナ』8-10話。まじめにギャグをやること。調理実習の折、辛さ9000億倍スパイス入りのカレーの爆発によって倒れたウテナとアンシーについて、その非現実的な事象にもかかわらずおちゃらけることなく語る生徒会の面々のおもしろさ。8話ではシリーズではじめて「くずれ」を感じる作画もあらわれ、そこもおもしろく観る。交換日記をめぐってウテナとやりとりを交わすアンシーの「はい?」「はい!」の芝居ももうれつによかった。同じ台詞を意図的に連続させることで浮き上がる意味合いの差異。

9話、西園寺と冬芽の決闘シーンにおいて、それを見守る女生徒たちの歓声に竹刀と箒の画を合わせるという、見立ての演出がよかった。この心情(?)をモノへと託す技は、冬芽からウテナに手渡され、やがて地面に落ちて横倒しになる缶ジュースにも流れていた。10話は七実回。これまでコメディエンヌとして活躍していた彼女の、シリアスなエピソードが披露されていて、そのギャップに魅せられた。


f:id:seimeikatsudou:20211212001132p:plain
452


同人会議。次号のテーマが決まる。オルタナ右翼、冬野梅子『まじめな会社員』、安藤ゆき『地図にない場所』、アガンベンノア・バームバック天皇などについて話す。インテリではない左翼(アンダークラスに属するわたしたち、といってもよい)の受け皿の話、つまりは「党」の話だとわたしは了解したが、それはいかようなかたちで到来するのか。テロリズムの群発でも、だめ連でも、共産党でも、デタッチメントな文化的ひきこもりでもない「群れ」が成立するとすれば、それはどのような条件によってか。どのような形態を成すのか。相互扶助やケアといった語の範疇ではそれはおさまらないと直観的に思う。だが、そこには必ず「身体」があるはずだ。トマス・ヴィンターベア『偽りなき者』でのホモソーシャル空間のことがあたまによぎる。

ニコラス・ウィンディング・レフン『プッシャー』(1996)。上記のような問題意識でいたので、弱者男性の話として観た。いや、弱者と呼びあらわすことが適当とは思えない暴力性をたたえた人物ばかりが画面を埋めつくす映画ではあるのだが、隘路へ隘路へと突きすすんでいかざるを得ない男の悲哀がそこには刻まれており、友も金も女も失っていく転落ぶりには「わたしたち」の映画だと思わずにはいられなかった。手持ちカメラによる近接スタイルの撮影手法が、「ちかさ」を感じさせてくれるのも理由になっているかもしれない。血とドラッグが彩る暗い映画だが、けっしてひとを突き放さないやさしさがある。悪友との品のない会話のなかでふと顔をだす主人公フランクの倫理がおもしろく、母を馬鹿にされて気をわるくしたり、黒人は猿だという主張にキレたりするところにも、にんげんへの愛あるまなざしを感じることができる。「ビデオばかりだと馬鹿になる」「もっと映画を観ろ!」みたいな台詞がはさまれるのも愉快だ。いくつかある逃走シーンの爽快感もいい。そこに被さる爆音BGMがいい味をだしている。

BGMといえば、ドッドコドラムとともに登場人物の名前と顔を深い陰影のワンショットで魅せていくオープニングがとにかくカッコいい。この顔の「黒み」は作中、ビビッドな夜景との対比のなかで幾度も再登場し、その表情が塗りつぶされることによって浮き上がる「伝達性」の高さにつよい印象を抱くことになる。ハネケが「暴力」を描写する手つきを思いだすまでもなく、ものごとは隠蔽されることによってひときわ強力なそれ自体として画面に刻印されるのである。そのことは、「決定的な結末」を描かない幕切れによって念押しされる。三部作ということで、2、3も連続して観るつもりだったが、時間がなく先送り。

幾原邦彦少女革命ウテナ』11話。はじめてウテナやぶるる。生徒会会議の背景で風船が飛んでいくのはなにをあらわしているのか。何のメタファーかはわからなかったが、好きな演出だ。こういう自由さを難なくやれるのがアニメのよさだと思う。

夜、鰯とじゃが芋のチーズトマト煮。にんじんとそせじ入りスクランブルエッグ。右手の小指をやけどする。氷でよく冷やし、ことなきを得る。

人生はすごくさびしい

生きかたの理想がある。将来は何になりたい?と大人たちは子供に聞くが、いまのわたしは「何」よりも「どう」のほうに関心が向いている。自己啓発本みたいでいやな言葉の用いかただ。whatよりもhow。書いていてうるせえ、しゃらくせえとなる。だが、10代の頃に抱いていた「夢」の職業に就き、その「何」になった身からすると、それが「どのように」生きられるかこそが「何」の中身でもあるのだといまさらながら思っている。

こんな風に生きたい、の「こんな」に含まれるものが、以前よりも具体的なかたちを得てきたと実感している。さいしょの緊急事態宣言のころ、在宅勤務の時期に滝口悠生『やがて忘れる過程の途中』を読んだことが、その下地をつくっていると思う。杉田俊介が読みたい。おそらく絶版となっている『無能力批評』、文庫化されないだろうか。

国保の払込票の期をひとつまちがえていたことに気づき、祖母の不要契約の解約手続きがてら支払いそこねたほうを入金しに行く。先に払ったものもどうせ徴収される金ではあるが、なんとなく損した気分になる。税のことを考えると心底憂鬱になる。

何かに追われている感覚とはつまり、世間のつくりだす「規範」がもたらすものであって、そんなところからはできれば外れていたい。だが、はみだしてばかりいれば「社会生活」はたちいかなくなるのが現状である。こぼれ落ちながらも、野垂れ死なない技術を身につけたい。

夜、鶏の唐揚げネギ塩ダレ付き、白菜と大根葉の味噌汁。鶏はにんにくしょうが酒醤油かつお節に漬け、たれはねぎに塩酒片栗粉鶏ガラ粉末を加えて熱し、錬成。うまい。口内をがっつりと火傷する。

ノア・バームバック『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(2014)。原題は『While We're Young』。直訳すれば「若いうちに」。ドキュメンタリー映画製作の周辺に身を置く40代半ばの夫婦と20代半ばの夫婦の「交流」が描かれるわけだが、そのあいだの年齢であるわたしにとってはあまりピンとくる内容ではなかった。いや、わかる!となるシーンはふんだんにあって、クスクスわらいながら観ていたのだが、実感としてどちらの側にもうまく入りこめなかった。ここでしているのは共感ベースの話で、べつに共感などなくとも好きになったりすぐれていると思ったりする映画はたくさんあるのだから、そんな話はしなくてもいいのだが、とにかくあまりよくなかったという印象がのこった。『フランシス・ハ』や『マリッジ・ストーリー』の刺さりかたに比べて、雲泥の差を感じた。レコードを収集する20代とサブスクを利用する40代、あるいはタイプライターを用いる20代とスマホに文字を打ちこむ40代など、世代間でアナログとデジタルへの志向が逆転しているさまを素早いカット割りで魅せていくシーンや、「子供」の有無が引き起こす同世代間の亀裂、かといって若さにもついていけない中年の悲哀といった見どころはあった。野心に燃える20代のジェイミー(アダム・ドライバー、大好き!)の、つねにカメラを回そうとするドキュメンタリストとしてのふるまいもよかった。

では、何がだめだったのか。主人公であるジョシュが自身も参画するジェイミーの撮っている映画の「やらせ」を暴き、それに対する批判をおこなうドラマが後半に展開されるが、その主張が受け入れられなかったのだった。「ドキュメンタリーは嘘をつく」という前提が共有化されていないドキュメンタリー映画作家を、「老いた」存在として見るよりも先に、「信じがたい」と思ってしまった。この拒絶感が、作品全体の印象にも作用して、「よくなかった」という感覚をわたしに植えつけた。いや、いちばんの問題は回線だか鯖の不調で途切れ途切れの再生になったことかもしれない。映画とは関係がない! 周縁的な話ばかりしている。

映画のなかで若さが悪魔として見なされるのは、バックホーンの「思春歌」における以下の歌詞を思いだした。

TVのニュース 大人が嘆いてた
近頃若者の犯罪が多いと

俺は知ってた 大人達は
嫉妬してる 凶暴な若さに

今後は「若者」のくくりからどんどん外れていくしかない自分の身を思うともっと身に迫ってくる映画だったのかもしれないが、どこか他人事として見つめてしまった。この映画における「まっとうさ」に興味をもてないことが、よくなかった印象のいちばんの理由なのかもしれない。


f:id:seimeikatsudou:20211208162311p:plain
451


カラーコンタクトをしているひとの顔が怖くてしかたがない。もう10年ちかくまえになるが、間近でカラコンをつけたひとと相対して以来、ずっとその恐怖が消えない。いまはそのときよりも数多くのひとがメイクの一種としてそれを用いており、SNSにきらめく無数の瞳は人為的に着色され、巨大化の一途をたどっている。そのことが、装着者が想定しているであろう、かわいさとむすびついてくれない。わたしと世界との乖離を感じる。この怖さはなんなんだろうか? ひとでないものへのあこがれをそこに感じる。これはカラコンを否定する言説ではない。

朝から夕までよくはたらく。今後やっていくもののなかに、わたしの郷土に関係するワークがあるのだが、ふしぎな縁を感じる。

固有名のはげしさ

ちほちほ『みやこまちクロニクル』18話、毎話そうだが、とてもいい。介護が必要となった老父の大便を拭くシーンが描かれていて、わたしも自身の祖母に対する経験をかさねて、しんみりと(?)したきもちになった。「正社員からドロップアウトした東北の実家暮らし」という境遇が、年齢がふたまわりほどちがうといってもわたしのこころによく刺さるのだった(この読むことで慰撫される感覚は、冬野梅子『まじめな会社員』にもあり、そのことはよく同人会議で話題になる。しかしこの構造はよくないのでは?という向きで話題に上る。それについてはまた機会をあらためて書く。誤解のないように書くが、同人のメンバーは『まじめ〜』も『みやこまち〜』もおもしろいおもしろいと読んでいる)。風景を描くことのつよさも感じる。おれはこのところ、風景を見ていない。雪の積もる光景に感動したが、それも家のなかから窓越しに見たに過ぎない。よくないことだと思う。

東京ショートステイの計画を考える。行くとなったらいろいろと詰めこみたくなってしまう。展示、映画、ショップとどう考えても想定している日程にはおさまらない予定を書きだす。あふれるものは、あふれればよい精神。主眼はべつのところにあるので。

雑務を片づけていると急激に眠気がおそってきて、そのまま身を横たえる。朝までよく眠る。

朝、鶏そぼろ丼両面目玉焼き添え。出勤前の妹にもつくる。しばらくして起きてきた祖母にもつくる。日々の夕食はわたしがつくっているが、朝食をつくることはあまりない。起きる時間がバラバラだからである。

ロバート・ベントンクレイマー、クレイマー』(1979)。原題は『Kramer vs. Kramer』。子供をどちらが引き取るかをめぐる離婚劇なので、夫と妻の苗字がたたかっているというわけだが、邦題ではたたかっておらず、あいだに読点を置いて並列させられているに過ぎない。いい変えかただと思った。クレイマーというひびきが「クレーマー」みたいなのもいい味をだしている。本作のなかで描かれている「仕事か家庭か」という問題は、2021年現在においてもおおきな問題であって、やれ働き方改革だのなんだのとお上が喧々諤々やっているが、「働き方」を変えようが「賃金」が上がらなければ「生活」は成り立たないのだからマジでしょうもないなと思っている。そもそも会社勤めだった頃、そんな「改革」は自分のもとには降りてこなかった。

話を映画にもどすと、家をでていった母親がもうここにはもどらないと書いた手紙を読み上げる父親に対して、それを聞いている子供がテレビ(カートゥーン)のボリュームを上げるシーンがめちゃくちゃによかった。自己防衛のための否認。この男の子が、父と同衾していた素っ裸の女に自宅の廊下で出会し、真っ先に「フライドチキンは好き?」と尋ねるのもかわいかった。「とても好きよ」という返答に対して、「僕もだよ」と同意することで、そこには共通のものが好きなひと同士のきずなが生まれる。関係性をつくっていくほほえましさとたくましさが描かれた名シーンだ。所作でいえば、父クレイマーが別離した母クレイマーと再会して息子を引き取りたいと切り出されるシーンで、テーブルの上でワイングラスをすばやく置きなおす芝居がひじょうによかった。数秒後には怒りのままに壁に叩きつけられる運命にあるグラスの、その位置の変動が、いらだちと動揺を的確にアクション化していた。はじめとおわりに配された、エレベータという上下運動および開閉運動をする機械の存在も、本作における重要な舞台装置である。


f:id:seimeikatsudou:20211208164356p:plain
450


夜、角煮。煮卵、大根、豆腐入り。いつにも増して下焼き、下茹でをしっかりやる。よく染みてうまい。家族全員の分量を考えると、肉はブロックひとつでは足りない。

祖母の不要契約の解約をすすめる。クソのような手数料はとられるが、多重加入していただけあってけっこうな額が返金されるようで、手続きをしてよかったねと顔を見合わせる。こうやって悪徳業者に騙されている全国の老人たちのことを思うとひじょうにかなしいきもちになる。老夫が法外な金額で物干し竿を買わされているニュースをせんじつ目にしたが、滅入る。老若間による階級闘争だ!という主張もわからなくもないが、そこで食い物になっているのはつねに弱者なのであって(あたまがまわればそんな契約などしない、しかしオレオレ詐欺における「数千万円」という額はまさに「階級」を指し示すものではないか?)、疑似科学・オカルト・スピリチュアルの世界における金のうごきと似ていると思った。非道だ。だれしもが抱く「救われたいきもち」を、都合のよいように利用するのはほんとうにサイテーのことだ。しかしこの感情のさざなみは、さまざまなスケールで経済をうごかす。ひとのコンプレックスにつけこむ電車内にはりだされた広告の数々を見れば、それがわかる。ひとは毛が生えたり抜けたりするだけでぜつぼうに陥り、あるいは救われてしまう。

作業をすすめている最中、祖母の誤りがあまりに頻出するのにいらだってしまい、大声を上げてしまう。ひどいことだと思う。ねむるまえ、ふとんのなかで反省する。冒頭の介護の話にもどるが、「他者へのやさしさ」は家族という社会のなかで育まれるものだと思う。ここでいう「家族」はべつに血がつながっていなくともよい。寝食をともにする彼や彼女が、わたしのこころやからだのつかいかたを教え、諭し、矯正するのだ。『クレイマー、クレイマー』で、おたがい新聞/雑誌を読みながら、ふたりテーブルを囲んでドーナツを食べる父と子のすがたを思いだす。

衣服の中絶

しらぬまに寝不足になると脚に蕁麻疹がでるようになっている。腫れが身体のバロメータとなって体調がわかる。ポジティブ。かゆい。

友人の晴れの舞台に行きそびれる。武道館。地理的な遠さは、そのへだたりぶんの時間と金銭のおもさをうちに含ませている。そんなものにひきずられない生活をしたい。願望ばかり、願望ばかり。体調はよくない。不甲斐もない。

わたしは整然とした議論よりも、雑な議論のほうが好きだと思った。理知によってかぎりなく詰められたもののうつくしさやそれを読むよろこびも否定しないが、大味でぐちゃぐちゃであることが生む隙のようなものにおもしろさを感じている。

メディウム・スペシフィックについていくつかのweb上のテキストを読む。このブログにかぎらず、「そのメディアを選ぶのであればそのメディア固有のなにものかが制作/作品のなかで格闘されているべきである」みたいな話をわたしはなんどもくりかえしており、信じているが、はたしてそうなのか?という立ち止まり。とりあえずグリーンバーグの本をほしい本リストに追加する。積んでいるクラウスの本を棚からだしておく。わたしは「モダニズム」の語をおおまかに「機能主義(-用の美)」としてとらえていて、いまさらながらそれはこの「メディウム・スペシフィック」の話とも通ずるのかと思い至った。

夜、鮭と鱈とちゃんちゃん焼き風。白菜とじゃがで味噌バター味。

夜から昼前頃まで、よくはたらく。昼寝後、夕飯をつくりに降りると、めずらしく妹が包丁をにぎっていた。感謝の言葉をかけて、ふたたび寝室に上がった。

深夜に目がさめ、窓の外を見ると雪が積もっている。今季はつの積雪シーン。文化的ではないほうの雪かきの日々がはじまるだろう。妹のつくった大根と鶏の煮物で胃をみたす。うまい。

宮沢賢治ツェねずみ」を読む。おもしろい。「プイッ」だの「むちゃむちゃむちゃっ」だの「リュウリュウ」だの、漫画ちっくな擬音がいい味をだしている。そうした仕草のディティールから形成されるキャラクターの造形に、寓話のつよいちからを感じる。このようなにんげんはいるよな、と思わされる。


f:id:seimeikatsudou:20211205111345p:plain
449


明け方から夕ごろまでよくはたらきつつ、祖母が加入している無駄な契約の破棄に奔走する。悪徳業者の電話応対に腹が立つ。書類のやりとりで完結するものを、やめずにのこってもらいたいがために対面でおしすすめようとする強引さ。ひとまず今日できることがおわれば、こんどはテレビが映らないと嘆くのでその回復に努める。

夜、トマトチゲ鍋。白菜、豚バラ、ねぎ、豆腐。豆板醤、トマト缶、味噌、醤油、カイエンペパー、にんにく、生姜、ごま油、塩、和風だし。うまい。リクエストした妹は「わたしの分もとっといてね」といいのこして手をつけるまえに家をでた。わたしも食べてすぐに寝た。

生活における雑務が積みかさなっていて、思考がにぶっている。長期的なスケジュールが増えてきたのも、精神の負荷になっている。どんなものでもプロジェクトがうごきだしてしまえばきもちもうごいていくのだが、うごきだすまえの時間は何かが覆い被さっているような気がして、けっこう苦手である。きもちをうまく切り替えられるひとを尊敬する。ちいさなものから取り払っていく。

オフの日にするはずだったが、けっきょくワークする。難儀していたものの解決策につきあたり、安堵する。予定よりもはやく先方に投げられそう。

夜、鶏じゃが玉ねぎのコンソメチーズ炒め。うまい。

トロプリ39話。キラキラした海辺の背景。波打ち際の砂浜を踏みしめる素足。キャラクターの心情がそこに画として立ち上がっており、よかった。絵コンテ・西田正義。演出・岩井隆央。さんごのキャラの薄さが、そのままキャラの濃さ(他立から自立へ)につながっていくような作劇が感動的だった。ただ、「髪の毛サラサラ」「目はぱっちり」「お肌つるつる」といったルッキズムを強化するようなまなつからさんごへのエールはどうだろうか。「モデル」のオーディションを受けるということは、いくら時代が変容してきているといってもいまだに「見た目」が評価のおおきな尺度となった場に身を晒すことであるが、ヒープリの敵を助けないという選択みのりん先輩の「俳優ツッコミ」回などを描いてきたプリキュアだからこそ、そこからいかに自由になるかを描いてほしかった。とはいえ、髪の毛も、目も、肌も、トロプリのキーとなる「メイク」によってかがやきを増すポイントであり、「メイクアップアーティスト」を目指すことを決意するさんごの滑走路として機能しているのもたしかなので、その塩梅がむつかしいのだった。母がさんごの髪の毛を梳かしているシーンを前半にもってきていることがよくきいている。他人のかわいいをかがやかすこと。うごくエンドカードがまたも新規で製作されていて、声がでた。

バイス13話。回を増すごとにヒロミさんが好きになっていく。ラブコフを背にしての、「我が命を賭けて、この子を守る!」。熱血ギャグキャラの愉快さ。退場が噂されているが、しないでほしい。展開のたたみかけがすごいので、「心配」と「信頼」の説明的な演出や、兄弟の視線交わし後のバイスの補足などがあまり気にならずに観ることができている(ひとつの場所にとどまることをゆるさないスピード感)。洋画を観ていてけっこうあることなのだが、敵方のゲストキャラの区別がそこまでついていない程度の認識でもたのしんで観れるのがすごい。表層と深層が乖離せずにビューッと走っている感覚がある。

題名

アンパンマンのキャラクターデザインが好きだ。名前が形象そのままなのもいい。こどものこころをゆさぶるちから。

www.anpanman.jp
gifがかわいい

小雨降るなか買いだしへ。とにかく救われたい、許されたいと願いながら、ひき肉のパックをカゴのなかへ入れる。

夜、和風カレー。ひき肉・大根(葉も)・れんこん。かつぶしと和風だしと赤缶。塩胡椒、にんにくしょうが、酒醤油。生トマトがなかったので代わりにケチャップをしぼる。玉ねぎが切れていたので、チーズと豆乳とバターでコクをだす。白菜も入れようと思ったが、具が鍋からあふれたのでやめておく。

同人会議。みなやさしく、みなすごい。いちの話がじゅうにふくらむ。抱えていた虚無が薄れる。アガンベン京アニ、リンチ、今後のわたしたちの活動などについて談笑する。20時半から深夜2時頃まで。

会ったことのあるひとの訃報をついったで見た。エチオピア料理をおごってもらった。

税を払いに行く。税を払うとお金がなくなる。税は公共のために徴収される。公共とはわたしたちのものである。わたしたちを支えるためにわたしがくずおれていく。寓話を感じる。こころもさいふもからだもさむい。

夕から深夜にかけて、よくしごとをする。明け方から昼過ぎまで、よくねむる。

夜、白菜と豚の豆乳ミルフィーユ鍋。舞茸と厚揚げ入り。生姜とごまをふんだんにつかう。

きもちのふさがりをどうにかしたいがどうにもならない。早起きの生活をとりもどしたい。

これまでやってきたしごとが、新しいしごとを生む、ということが今年はいくつかあり、というか、フリーランスでやっていく以上その連続でしかわたしの今後はあり得ないのだが、またそのような出来事があって、うれしいきもちになる。へたらずにやっていくしかない、と思わせられる。どこかに作品を見てくれているひとがいることの感動。過去のわたしに支えられながら、未来のわたしに寄りかかっていく、現在のわたし。


f:id:seimeikatsudou:20211130194523p:plain
448


トロプリ38話。百合あす回。かつてダブルスのペアとして隣り合って全身全霊を注いできたテニスを、こんどは対面でプレーしながら、忘れることのなかった思い出を語るふたり。ラリーがつづくなか、やがて明かされる目の前の「あなた」への秘めたる想い。その切っても切れない友愛のつよさに、いわゆる「尊さ」を感じざるを得なかった。これまでずっと反発しあっていたふたりの和解にフォーカスを当てた、シリアスにぐっと重心を寄せた回だったが、そのさなかにあらわれるまなつの軽さがおもしろかった。あすか先輩をトロピカる部のみんなで送りだすアイデアをしらべようと図書館に着いたのもつかの間、フェニックス学院の生徒を見かけて急遽学校見学に行こう!と切り替えるその速度。みのりん先輩が「(送別の)イベントは?」とつっこむのに対して、当のあすか先輩を前にして「いいでしょ!」と言い放つ態度がウケる。

作監が見たことのないひとだったが、遊戯王を手がけているスタッフとのこと。同じ作品内で絵柄がいろいろ許容されているのは、あらためてめちゃくちゃおもしろいことだと思う。うごくエンドカードがかわいい。

バイス12話。仮面ライダージャンヌ登場回。変身前に差しこまれたヒロミさんの唐突な自分語りにわらう。バイスの「親方、女の子が降ってきましたよ!」といい、ぶっこみの暴力がたのしい。また、デッドマンズとフェニックスのカットを交互につなぐ編集の語り口が見事だった。アギレラが「家族」という語をだすことで、作品にレイヤーがいちまい増えたような感じ。ギフは「義父」だといっているひとを見かけて「!」となった。

夜、ひき肉とねぎと大根葉のオムレツ。

左足の小指を家具の角につよく叩きつけ、おわる。日が明けても痛みが引かず、打撃はおそらく骨まで達している。爪が変色し、肉が腫れている。

夜、大根と豚の豆板醤炒め。茶碗の飯を半分ほどまでたいらげたあたりで嚥下への抵抗を感じはじめ、自身の胃の縮小を感じる。おどろくほど食が細くなっている。ものが入らない。小学生から中学生にかけて、あるいは中学生から高校生にかけてでもいいが、歳をかさねることで起こる「成長」よりも、「老化」の占める割合がずいぶんと増えた気がする。来年には新たな10年期に入る。精神は20代の半ばぐらいで止まっている気がする。

エネワンという電力自由化にまつわるサービスのcmのカメラワークと演出が、女の身体を性的に見る視線につらぬかれたつくりになっており、きもちがわるかった。宣伝する対象とはまったく関係ないにもかかわらず、このようにひとびとの目を惹かせるものとして「若く美しい女性の身体」を前面にだす宣伝の手つきはもう「おわっている」のではないか。

なんだかもうおひらきのムードで

アップルミュージックで流れてきた双葉双一の「割れもの」がめちゃくちゃいい。

デヴィッド・リンチツイン・ピークス』(1990-1991)1stシーズン最終7話をおわりまで。いや、おわらんやん!!というツッコミ。ええー!って声がでるほどのつぎへとひっぱるおわりかた。射撃がヘタクソのアンディがここぞというところでキメるところがよかった。シーズン2はそれなりにながいのでもっとのんびり観たい。

アジカンの25周年ライブ@Zepp Tokyoの配信。開幕フラッシュバック→未来の破片の流れだけで昇天した。ゴッチのワクワクした感じの手のうごきがかわいい。マイベストアジカンソングである無限グライダーの途中で配信が止まっておれの精神もおわった(アーカイブを観なおしてもなおっていなかった、、)。ていうかセトリがヤバすぎる。君という花のアウトロに大洋航路の歌詞を載せるアレンジヤバないか? 新世紀のラブソング→UCLA→或る街の群青の流れ、ヤバすぎる。ヤバイしか言えなくなるヤバさ。今を生きてでおわるかと思われた矢先に流れだす遥か彼方のベース、ヤバじゃん。ヤバじゃんの炸裂。とにかくヤバだった。マジサイコーアジカンラブジェネレイション。長年バンドをつづけてきて、いまがいちばんいいと言える状態をずっと更新しているのがすごい。今回のライヴもそうだが、直近の触れたい 確かめたいやエンパシー、フラワーズを聴いていてそう思う。

上記のアーカイブをbgmにしながら、インターネット上のテキストをめぐる。文学フリマに同人誌をだすようなオタク・サブカル・思想・批評のごっちゃになった大学生モラトリアム期間から生まれたよどみみたいなものを転々と読んでいく。そもそもわたしもいまだにそのぬかるみに半身を浸からせているようなにんげんなので、おもろいなあと思う。大学時代のサークルの感じをひとつの幻想郷として胸に抱いている節があるので、そうした営みを見ているとこみあげるものがある。おわってるなと思う。過去を懐かしみだしたらもうおわりである(というクリシェ自体もくずおれてボロボロになっているだろう)。「もうおわっている」この状態を、「立てなおす」のではなく、「組み替えて」どうにかしたいとぼんやり考える。時間だけはあるのだから、なんかやれよというきもちがすこし増える。カスのような奮起。

読んでいたもののなかでは、アニメやラノベカルチャーのなかで00年代は所属(スクールカースト)が問題とされ、10年代では能力(ネオリベラリズム-自己実現)が問題とされた、という見立てに興味を惹かれた。これはサークル文化が廃れていることとも呼応しているのではないか。わたしのカルチャー的ゆりかごとなった大学時代のサークルはわたしたちの代が卒業後ほどなくしてほろんだと伝え聞くし、その気配は在学中からすでにあった)。コロナがそのうごきに拍車をかけ、孤立化したひとびとはその孤独感を埋めるためにでかいインターネット=SNSに身をゆだねる。ただでさえ衰退の一途にあったちいさな中間共同体の居場所は、リアルからインターネットへ? しかしそれは代替物になり得ない

乗代雄介『十七八より』文庫化の報を見てよろこぶ。『皆のあらばしり』も早々に単行本となるようだ。と、わくわくしていたら『掠れうる星たちの実験』などというまったく予想だにしていなかった新刊までも出版されるとのこと。『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』につづいて主にブログの記事をまとめた本のようで、阿佐美景子サーガの新作も入っているというのだから買わざるを得ない。表題作のテキストは東京行きのバスを待つあいだに書店で立ち読んだ気がする。


f:id:seimeikatsudou:20211127215916p:plain
447


フライヤーの告知ついでについつい見てしまっていたインスタの、おすすめ投稿のなかにたまにあらわれる文字列が「彼が好きなおつまみ」だの「夫がウンタラカンタラ(くわしい文言は忘れた)」だの「私作る人、僕食べる人」を地でいくもので、マジできもちわるいなと思った。家父長制を首肯する奴隷根性を内面化させるこうした言説を排出する「インスタグラマー」も、なんの疑問も持たずに、むしろ「彼」や「夫」によろこんでもらえるかもと思いながらそれらの投稿に「いいね」する主観性も、イカれている。そしてそのイカれた言語空間・イメージ空間を下支えするのがネオリベ的な価値観である。この世のすべてを資本の論理のもとに数値化し、数こそが絶対として「バズる」文法がメディアだけではなく、市政のひとびとの「つぶやき」にまで懐胎する。自己責任の時代において、それぞれが放つ言説は、自身に責任を負う割合が減っているのではないか? 「Twitter(「オタク」でも「おじさん」でもコード化されたものならなんでもいい)構文」に明け渡された個人の絶対感情……。わたしがかつて詩は本質的に全体主義を拒絶すると書いたのは、その抵抗として「詩」を考えているからである。

夜、クラムチャウダー。ベーコン、あさり、人参、じゃがいも、玉ねぎ。うまい。あさり入りのホワイトシチューだな、と思った。何がちがうのか、と調べると以下のような記事がでてきた。

housefoods.jp
へえと思った。

発作的なかなしみに発狂しそうになる。生活がズルズルしている。そのぬめったところで焦燥の火がチリチリする。

WEBアニメスタイル佐藤順一のロングインタビューを読む。話に上がるタイトルのほとんどを観たことがないが、それでもおもしろい。とくに魔法使いTai!を観てみたいと思った。ユンカース・カム・ヒアや、プリンセスチュチュカレイドスターもおもしろそう。同時代のもの≒新しいものを観たり読んだりすることにひどく情熱を燃やしていたわたしが、いつの間にかひと昔まえのものばかりに目を向けるようになっている。富野マラソンも、プリキュア映画マラソンも、リンチもウテナもこれもそうである。