わたしの横でねむるあなたの歌が、隣のキッチンから聴こえはじめる(中)

(前)

 ツナと茄子の揚げ玉入りスパゲティで朝餉。蕎麦屋の揚げ玉はうまいうまいといいあいながらひとつのフライパンを三人で囲んだあとは、クーラーのきいた部屋のなかで思いっきりゴロゴロする。ひとしきりころがって、自分たちが猫なのか、そうでないのかを延々と問いかけあったならば、Hさんの呼びかけで、Qさんとわたしは印字されてある文字を交互に読む遊びにしゃれこむことにする。たとえば、こんな風に。「おい、ちょっと」「何だね?」「あいつのチンポコは瓶のように長くて太いってのは本当か?」「それほどはっきりと断言はできないがね。俺はただ小便の時に一回見たきりだから。そりゃあ、ユダヤ人だって小便はするからね。その時に俺が見たものは、さほどでもなかったかな」「さほどでもない?」「だがね、何たってチンポコは奇跡を起こすからね。そんなもんさ」…… もしくは、こんなやりとり。「ウェイ、ウェー……」「ウェー、ウェ」「ウェェェイ」「ウェー、エ」…… あるいは、こんな感じの応酬。「私はね、ペイをもらったら火山を見に行くわ。貯金してあるのよ」「火山を見に?」「火山はおかしいなあ」「君はあまり笑わないね」「ええ、私のような性格だと笑うことはあまりなのよ。子供の時だって笑わなかったわ。それで、時々、笑いかたを忘れたような気がするとね、火山のことを考えて涙を流して笑ったわ。巨きい山のまん中に穴があいていてそこからむくむく煙が出ているなんて、おかしいなあ」「君はお金をもらったらすぐ行くの?」「ええ、とんで行くわ。山に登りながらおかしくて死にそうだと思うわ」……

 そうこうしているといま制作をすすめているZINEのミーティングの時間が迫り、わたしはふたりを置き去りにして上裸のまま家を飛びだす。駅の方に向かいながらTシャツのなかにからだをくぐらせ、ガード下や行き交うひとびとの股座をくぐってジャパニーズ・モスト・リーズナブル・イタリアン・レストラン・サイゼリヤ(JMRIRS)に入店する。都内ではありふれたこのファミレスも、わたしのいま住む街にはひとつも存在しない。粉チーズをこんもりと振りかけたミラノ風ドリアの味を口中いっぱいに思いかえしながら店内を見渡すと、マスクすがたのTさんが手を挙げてこちらに居場所をしらせてくれる。ところで、このTさんの名前をめぐって、わたしたちは昨晩さんざんにもめたのだった。発音する際のアクセントの置き場がわたしとわたし以外でちがっており、わたしが彼の名前を発声するたびに、「***さんね」とイントネーションに訂正が入るのだ。そんなやりとりをした翌日に当の本人と会うものだから、自ずと名前を呼ぶ際にへんな意識が表出してしまうのがにんげんというもの。とはいえ発音の答え合わせはこのあとの飲み会にとっておいて、ドリンクバーをなめなめ、冊子の全体の流れや、タイトルなどについてまじめに話を詰めていく。生身で話すってすばらしい。

 「吐きそうさ、ニシオギクボ」と金子鉄夫が歌った(?)街を彷徨してはや30分が経とうとしていた。グーグルマップに表示される営業時間は当てにならず、シャッターの降りた真っ暗な店の前で落胆をくりかえし、駅の北と南をグルグルとさまよっているうちに、Yさんが電車に乗ってやってくる。再会に頬をほころばせながらも、店がまだ決まってないんですよとだらだらと涙と鼻水をこぼし、顔面をグショグショの雑巾にするわたしのスマホが光って、「四文屋は?」というメッセージがQさんから届く。Qさんの放ったクエスチョンマークに沿ってせせこましい小道をすすんでゆけば、見覚えのある路地に突き当たり、長い長いカーヴを踏破して、最後に打たれた点までジャンプしてみれば、そこにはわたしたち全員が着座することのできる四つ足をのばした、巨大なディナーテーブルがワンワンと吠え立てている。わたしはいまこそひみつ道具の出番だとお腹に空いた切れこみのなかに左手を突っこみ、「桃太郎印のきびだんご」を取りだしてよく吠える大口にその一粒をほおりこむ。「夜が消えてしまったら、愛はいったいどこで育まれるんだい?」何ともロマンチックなテーブルの上で、わたしたちは宇宙の法則と生命の神秘について語らい、ビールを飲んで、焼き鳥と浅漬けともつ煮込みを食べた。「星の瞬きを感じとることができなかったら、きみの瞬きにだって気づけるはずがないだろう?」小雨が降りだすなか、わたしたちは家路を急いでいる。「にどと点くことのない電燈をひとつ残らずあつめて、ぼくらの一番星をつくろうぜ」駅前からはいつまでも遠吠えがきこえてきて、しずかに耳を澄ませながら、夜が明けるまで酒を飲み交わす。

    *

 池袋の西方、デイリーで買ったサンドイッチをペットボトルのお茶で胃のなかに流しこんで、わたしはRくんのもとに向かう。10ヶ月ものばし放題だった髪を切るのだ。彼はここ数年来髪を切ってくれている友人で、東京に来てようやく通えるヘアサロンができたとわたしは彼の独立をよろこんだものだった。ものの1時間で肩までのびていた髪を一気に切断し、フレンチクロップ風の刈り上げショートに変身する。これまたべつの友人Kの楽曲提供の話を土産話にもらいつつ、ニューヘアーで颯爽と向かうのはでかい建物のあつまる場所・六本木ヒルズ。ひさびさの美術館だ。先にミッドタウンの無印とユニクロでしばらく切らしていた化粧水と、滞在後期のためのパンツを購入し、ピカピカキレーなトイレで用を足して、ママンの下で友人たちの到着を待つ。あれ、記憶をたどってみるとわたしはここでも何かを食べている。そうだ、今朝コンビニでおにぎりも買っていたのだった。せっかく都内にきたのだから、などと貧乏根性を発揮して外食すればよいのかもしれないが、どうしたって気軽なほうに流れてしまうのがひとのサガ。今宵もふたたびJMRIRSに行って、せめて外っぽい感じでとラムのラグースパゲティ大盛りを食べるのだった。ちなみにわたしはいま、この文章を辛味噌に漬けた馬刺しで黒パンを食べながら書いている。はじめて取りあわせたが、パンと馬肉は意外とマッチするという気づき。

 森美の展示は「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」。×である。「71歳から105歳まで」の「女性アーティスト」を並べたて、それに「アナザーエナジー」と言葉を当ててまとめあげるのはどうなの?と腹を立てる。何かにアナザーと冠した名前をつけることは、アナザーではないものの存在を温存し、増長させる行為でもある。

本展では、絵画、映像、彫刻、大規模インスタレーションにパフォーマンスなどの多彩で力強い作品約130点を通して、彼女たちを突き動かす特別な力、「アナザーエナジー」とは何かを考えます。

と、展示概要には表記があり、アーティスト自身や作品そのものを「アナザーエナジー」としてはいないことが窺えるが、同時に、彼女たちには「本流とはべつの」ちからが流れていることを示してもおり、何をもってこのタイトルにしたにせよ、看過できないコンセプトであることには変わりない。一見、アートワールドにおいて(も)軽視されがちな女性たち──しかもそれぞれ「50年以上のキャリア」をもつ高齢の!──を称揚するかに見える本展だが、ここには、「周縁」を「周縁」のまま再認し、さらには「異端」としてまなざす意識が見出せるのである。

 と文句を言いつつ、ミリアム・カーンのペインティング(滞在中にHQ邸へ来訪したうちのひとりであるMさんは、彼女の絵がプリントされたトートバッグを携えていた!)や、マムスクリーンのシプリアン・ガイヤーンの作品群をおもしろく見た。浅い人工湖にふたりの若者が飛びこんで血まみれになる1分半の映像作品《湖のアーチ》のファニーさや、《海から海へ(オーシャン2オーシャン)》の水洗便所からアンモナイト、駅、電車、深海に沈んだ車両……とイメージと事物があざやかに連接していくさま、《デスニャンスキー地区》におけるスケールのでかさとなぞの大乱闘などが印象的なイメージとして記憶にのこっている。また、座席のずらっと並ぶ展示室に慣れているわたしには、ソーシャル・ディスタンス仕様の空間設計も新鮮だった。

 そんな展示の感想も話しつつ、わたしたちはサイゼリアをでて、代々木公園に向かって夜の散歩をはじめていた。彼らとはいま文芸誌の発行を画策していて、道中その打ち合わせもしつつ、雨がパラっと降りだした青山霊園を突っ切って、表参道から明治神宮へ、お参りをするような精神とはまったく逆の気の持ちようで、東京の地を踏みしめていく。ひさしぶりの散歩だ!とはじめは高揚していたわたしだったが、ふた駅かさん駅ぶん歩く頃には足腰が悲鳴を上げはじめ、日頃の運動不足がたたってからだじゅうが軋んでどうしようもなくなり、目的地まであとひと駅というところでわたしは離脱の叫びを漏らしたのだった。改札前までOとAさんに見送ってもらい、代々木公園駅までビュンと移動し、代々木八幡駅まで向かう。ここまでやってきたのは、この旅のいくつかあるうちの目的のひとつ、自作のグラフィック作品集をK先生に渡すミッションを果たすためだ。

 さて、本日も明かりの灯った腰を落ち着けることのできる場所を探して夜の街をあちこちとさまようのだが、中央線とちがってこちらはお行儀のよい店ばかり。ガラスに貼られたA4用紙に門前払いをポコポコ喰らったので、コンビニで飲み物を買って、東京オリンピックのために設置されたバリケードの見学がてら代々木公園内を散歩しつつ、噴水広場で野外カフェの流れに。水辺のベンチには愛しあう恋人たちのすがたもあり、暗い夜をこのようにして過ごす彼女たち・彼らに、わたしはほんのひとすくいの光を見る。そのちいさな明るさに照らされながら、わたしたちは文化の話に花咲かせ、ここにはいないT氏のかつての色恋話をお土産に、公園を後にするのだった。わたしのゆりかごでもある小田急線にひさしぶりにゆられたのち、どこでもドアをつかって家に帰ると、眼前には陽気に微笑むSさんが座っており、さらなるテンション爆上げミッドナイトに突入する。Hさんの特製カクテル「命の前借り」を飲みつつ、すでにできあがった3人のあいだに座ると、やたらとこれまでのデザインワークが褒められ、とにかく愛のきもちになる。先に作品を通して出会っているって、もはや奇跡みたいなものじゃないか? 滞在時のメモによれば、スペースやツイキャスもしたらしいけれど、あまりおぼえていない。もしやわたしは参加していない? スペースをやっているのを忘れて好き勝手にお喋りしている時間がどこかにあったことはおぼえているが、それは昼間じゃなかったっけ? あ、映画の宣伝ヴィジュアルにおける手書き文字の流行について喋ったんだった! そんな混濁する記憶の海のなかを、エラ・チューブを鼻に詰めこんでわたしたちはどこまでもどこまでも潜っていく。

(続)

なにかをうまくやろうとする(不完全)

料理をとりわけるためのスプーンを、自分が食べるためにつかうことのできるにんげん。

寝たふりをしていれば、勝手に食事のじゅんびがなされると思っているにんげん。

自身が忘れていたことをとがめられ、謝ることもせずにおれだけがわるいの?とすぐさまひらきなおるにんげん。

これらをひとまとめに父の名のもとに集約しなければならない子のかなしみを、わたしは共苦することができる。

どにち、親と顔を合わせても気が滅入るだけなので、わたしは部屋にひきこもっていることが多い。そこで本を読んだり、音楽を聞いたり、ゆーちゅーぶを見たり、寝ころんでいたりする。深夜にリビングまで降りて食事を摂り、プリキュアや映画を観て、また自室にもどる。そんなことをくりかえしているから昼夜はめちゃめちゃになり、まあべつにめちゃめちゃになったところでさして問題はないのだが、1週間かけて時間軸をぐるぐるとずらしている。

週にいちど、ラジオをやっていたころは、それがひとつの安全弁のようなものになって生活に秩序をつくっていたが、取り払われてしまったいまとなっては、抑えるものなく、もうどうしようもなく破綻してゆくだけであった。このくずれのなかで、ものをつくることにきちんと意識が向けていられることを、わたしは健康だと思った。東京に行って、その経験が1篇の詩を書かせた。あるいは、そこから離れた2篇目だって書きはじめている。かつて手をつけて未完のまま放置していた詩篇の数々にも、目をやり、いくつかの文字や行を足したり引いたりしている。作品集の通販のじゅんびをおこない、同人誌のデザインと執筆をすすめ、帰ってきてからあらたに受けたイメージヴィジュアルの制作に勤しんでいる。昼夜が逆転しようが、いちにち1食であろうが、まったく外にでなかろうが、ものがつくれているかぎりは健康だ。このすこやかさを失ったとき、わたしは崩壊するのだろう。


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わたしの手料理が食べたいということで、いとこふたりが来訪し、妹も含めて4人、食卓を囲んだ。宇宙一うまい餃子と、ニラシソ餃子、スープじゃない炒めたトムヤムクン、舞茸とチーズのレタスサラダというラインナップ。あまりにもいとこたちの口数が少なすぎて、大丈夫か?と思った。餃子は妹がつつんでくれた。むかしのホームビデオをみなでながめ、そこに映る十何年もまえのわたしたちや家族のすがたにおおわらいした。祖母と母と父は、べつのテーブルで食事を摂った。複数人での食事中にテレビはないほうがいいとあらためて思った。ふだんまったくそんなことを思わないが、ひょっとするとわたしは自分が思うよりも、おしゃべりが好きなのかもしれない。

食事のまえ、妹に運転してもらって、すこし遠くまで買いだしにでかけた。わたしは妹を溺愛しているので、たのしいなと思ったが、空腹ででかけた所為ですぐに車酔いし、不快な気分を抱えて巨大なディスカウントストアをゾンビのようにウロウロとさまようこととなった。

わたしの横でねむるあなたの歌が、隣のキッチンから聴こえはじめる(上)

 旅に読書はつきものだ。高速バスの出発まで、2時間半。わたしはターミナル横のちいさな書店のなかに、これから始まる夢の日々に向けて準備したひみつ道具がたくさんつまったキャリーバッグをひきひき立ち入り、目についた雑誌をかたっぱしからめくりはじめる。もうほとんど見えない指のうごきによってめくられた頁は宙を舞って、印字された文字までもがちりぢりにほどけていき、さまざまなタッチのイラストは、思い思いのうごきをしながら紙の上から飛びだしてゆく。その光景を天井ちかくに設置された監視カメラは黙って見つめ、店の奥では「じ」の字を鼻の奥に吸いこんだ店員が店中にひびきわたる音量で威勢のいいくしゃみをする。パラパラパラと超高速で羽撃く『群像』がいまわたしの手中にはあり、柳田國男サリンジャーをむすびつけるテキストがそこでダンスを踊っている。そうこうしていると時針はぐるりと回転技を決めており、わたしはもときた道を引き返して待合室のソファに腰を落ち着ける。マスクすがたの愛想のいい店員が座るチケットカウンターで千円札をくずし、すぐそばの自販機で600ml入りの麦茶を一本買う。ゴボゴボと喉を潤し、戯曲『珍しくよく喋ったり哀しいことも起こってないよ』を読む。今夜初演を迎える公演の、今夜会うひとが書き綴ったテキスト。その前景に、まぼろしのゴッチが「Arlight, Arlight」と叫ぶすがたが見えたところで、バス到着のアナウンスが鳴り、まばらな客たちとともに、わたしは乗車口へと歩みをすすめる。

 高速バスに乗るのは何年ぶりだろう。出発直後の交差点、座席から路肩に生えた草を見ていると、風にあおられて穂先が波打つさまが魚群のように目に映り、これは書き残しておこうとメモ帳に走り書きするわたしがいる。こうして外の風景を長々と見るのも、ひきこもり生活をしている身にとってはめずらしいことで、柄にもなく心がはずみまわっているのがわかる。しばらくすすんだのちに車窓に大写しになった丘では、遠景に白いビニルが鳥のようにたたずんでおり、その手前のなみなみと水をたたえた田圃では、整然と並んだ若苗が陽を受けて青いきらめきを放っている。わたしの目をとらえるこうした景観は、べつにだれの目にも必ずしも留まるものではないが、閉所で完結するほそぼそとした生活を送る身にとっては、その外にも、当然のことながらさまざまな営みがあるのだと雄弁に語ってくれる。かつての職場のある新宿に降り立って、フラッシュバックとPTSDのじっさいを身を以てしり、ターミナルの床を疾走するチャバネゴキブリに華々しくお出迎えされたところで、わたしは切れることなくつづいている自らの生の持続を感じ取り、甲州街道でコロナなんて嘘っぱちだと演説するヒスじみた女の声を、やけにやさしいものとして受け入れていた。

 いまのところ、生涯でわたしがもっとも通った書店であろう紀伊國屋書店新宿本店に数ヶ月ぶりに立ち寄り、モンスナックの閉店に思いを馳せながら、岸田将幸『風の領分』を買う。白い産毛の生えた表紙に穿たれた矩形のうつくしい、自身の棚に飾って置きたくなる装丁。いまいましき宣言による時短営業の所為で海外文学と詩歌の棚くらいしかまわれなかったが、滞在中に思想と文庫の棚を見にまた来るぞとかたく決意し、模索舎へと足をのばす。こんな状況でも(だからこそ)店をひらいてくれている、インディペンデントであることのつよさ。東京を去るすこし前、ここで大失敗と津村喬の本を買ったことを思いだす。棚のいちいちをなめるように見回りながら、ジョナス・メカス論集を手に取ったところでポケットが振動し、公演がおわった旨が同時にふたりの人物から通知される。このふたりに会うことこそ、本滞在のおおきな目的のひとつであり、このふたりのいる場には、べつの会いたいひとらも連れ立って待っている。手早く会計を済ませ、わたしは歌舞伎町へとキャリーを引きずって直進する。明かりの消えた店も多いが、行き交うひとびとの数は遥かに多く、みな口々になにかの歌を口ずさんでいる。聴いたことのないメロディーだが、もしや革命歌だろうか。マスクの下、わたしも鼻歌でユニゾンを決め、いかついねーちゃんやにーちゃんのあいだをくぐり抜けていく。

 わたしたちはめだかの前で再会した。抱擁のひとつやふたつでもくりひろげられるかと思っていたがそうはならず、友人たちはみな同様に疲れ切った顔で紫煙を細々と吐きだしている。どうもわたしがチケットを取りそこねた演劇がとてつもなくだめだったらしい。何を隠そう、暗い顔で煙草を十本も二十本もいちどに吸っている目の前の人物は、今日からはじまる公演のためにテキストを書き下ろした当の劇作家であり、べつの演出家の手によって自らの書いた台詞を目も当てられないほどギタギタにされてしまっては、誰しもこんな風になってしまうのだろうと納得させられる落胆ぶりだった。目の前に立ち並ぶ三人の男は、唇の隙間からだけではなく、鼻や耳や眼孔からすらももくもくと煙をはきだし、あたりはバルサンを焚いたあとのような白煙につつまれていたが、こんなご時世でもひらいている居酒屋はそんな煙幕を物ともせず、ゴキブリホイホイのように黒衣の男女を招き寄せては「3時間待チデス」と壊れたロボットのようにくりかえすだけだった。そう言えば、このちかくの通りにあったロボットレストランはさいきん閉業してしまったらしい。そのような「跡地」となってしまったビルがこの一角には無数にあり、ネオンの当たらないその狭間から、映写機が放つ一筋の光のようにしてあらわれたのがSさんだった。やがて彼の全身が誘導灯のように発光して、わたしたちの行先は照らしだされる。ゲバラのTシャツを着た気分で、わたしたちは路上のゴミを蹴っ飛ばしてすすんでいく。

 気づけばわたしたちはあん肝を口にはこんでいた。こいつが突き出しだと言わんばかりに、だし巻き卵も、ポテトフライも、刺身も一気にやってきたのにもかかわらず、酒は一向にやってこなかった。構わずわたしたちは空きっ腹につまみを放りこんだ。十の箸先が薄っぺらな皿の底をたたき、先ほどの芝居の話が矢のようにして煙といっしょに飛び交う。すでにわたしは酔っ払っていた。生身で友人たちとひとつのテーブルを囲み、文化の話をする。それをどれだけこの「田舎の生活」のなかで渇望したことだろうか? 「なめらかに澄んだ沢の水をためらうこともなく流し込」むことよりも、わたしはこうして何ひとつ澄んじゃいないカルチャーの話を両耳で感受することを望んでいる。200日にも渡ってつづけてきたラジオだって、言ってみればその代替物だろう。わたしは皆の話に耳を傾け、数時間前に想像したゴッチの幻影が打ち消されていくのを感覚する。あるいは、テキスト上に立ち上がっていたよくみしったAの身体が、まったく別様のものとして書き換えられていくのを自分のうちにみとめる。ふしぎだ、と思う。やがて、卓上を埋めていたつまみの皿がどれも空っぽになる頃、わたしにとっては約100日ぶりの酒がようやく配膳される。ワニの生き死によりもドラマチックな再会かはしらないが、待ってましたとわたしたちは200%のちからで乾杯し、破裂するジョッキとあたりいちめんに飛び散るお酒を見て、のどから血が噴きだすまでおおわらいする。血塗れの右手と、びしょびしょのTシャツ。ゴミを見る目のまわりの客と店員たち。これからわたしの、まばゆいばかりの東京ショートステイがはじまる。

     *

 新宿駅でAさんと別れ、それから高円寺に降り立って、ライヴおわりのMとTさんと改札前で遭遇して、駅近のてきとうな店に入り、ウーロンハイを頼んだところまではおぼえている。そこから記憶はタクシーの車窓から横断歩道に立つ友人たちをながめている光景になって、気づけば夜が明けていた。キスマークがどうとか、断片的な会話がこだましつづけているぼんやりあたまをもたげ、せっかく東京に来たのだから映画でも観に行こうかとスマホで上映作品をサーチし、ブレッソンの『田舎司祭の日記』が新宿でかかっているねと高揚するも、あいにく客席は満席だ。半分の座席しかつかえないって、なんてかなしいのかしら。高円寺で合流したYも含めて布団の上でグダグダしていると、すぐに昼下がりになって、わたしたちは小粋にそばを啜りに家をでる。てやんでえ、べらぼうめえと口々に濁音を泳がせながら、薬味といっしょに麺をたぐる。袋詰めされたサービス品の揚げ玉を片手に帰還し、またうだうだやっていると、我らがバンドのフロントマンNも坊主頭になってやってくる。ちいさな物件を借りてカレー屋をひらくのだと息巻く彼の手にはギターピックの代わりにカルダモンがにぎられ、スパイシーなフォークソングが空間をみたしていく。QさんやYもそこに混じりはじめて、2021年のラブソングが産声を上げそうになる。彼らの楽曲クリエイションに傍から茶々を入れ、家主の片割れHさんがバイトにでかけるのを見送れば、もう太陽は俯いている。ヨッシャヨッシャと涼しくなった風を浴びながら、みんなで銭湯に行って、汗を流したあとは近所のスーパーに買い出しに行く。なんて贅沢な旅のはじまりだろう。ここには予定を詰めないよろこびがある。つるすべお肌でカウンターの猫にあいさつし、軒先に貼りだされたポスターを見てみれば、そこには「自民党」の三文字。ノンポリ混じりの怒れる左翼四人衆がすぐさま誕生し、のれんの隙間から爆弾を放りこんで、木っ端微塵となった廃墟を背に、わたしたちは世界でいちばんすばらしい名前のつけられたスーパーマーケット「OKストア」まで向かう。

「爆弾魔まで肯定してくれるなんてゲキアツじゃないですか!」湯上りのビールで気分のよくなったわたしは店の前で絶叫し、左右から友人たちに諌められる。「この檸檬と爆弾交換しておきましょうよ!」ギャーギャーさわぐわたしを横目に、彼らは買い物かごを片手に店内をずんずんすすんでいく。わたしと目のあった店員はみな一様に顔の横でOKマークをつくってウインクを飛ばし、ああ、ここは本当になんでも肯定してくれる場所なんだと胸がいっぱいになる。「そういや、OKもArlightも同じような意味ですよね?」わたしの戯言にもはや友人たちは無視を決めこんでいるが、代わりにパックに詰められたオニタケがうなずくようにして陳列棚から落下するのが目に入った。「おまえ……」わたしの感動を横目に、買い物をおえたYとQさんは食材のつまったエコバックをふりまわし、あまりにも手持ち無沙汰なのでサッカー台の上で一対一のカバディをしようとしている。「これも買いましょうよ!」わたしがいくら叫んでもふたりは首を縦に振ってくれず、何度でもAlrightと歌うおじさんもすがたを見せず、たいていのことはOKサインで返してくれる店員でさえもが、指でバッテンをつくって眉間にしわを寄せるばかりで、わたしは駄々っ子のように床に横たわり、ふたりに引きずられて店をでるのだった。

 献立、ニラと豚肉のチヂミ、味噌マヨきゅうり、キスの南蛮漬け。夜にMさんも来訪し、山梨について思いを馳せる。


(続)

復活のイデオン

まいにち更新するかはさておき、今日からぼちぼち再開してゆきます。書かないあいだに気づいたのは、ブログを書かないぶん、べつのところに何かを書こうとする意識が芽生えたことと、日々のささいな生活のなかに「これはブログに書こう」と思い立つ時間があることでした。書く意識をどのようにして、どこに向けるか、うまい比重を探ってゆきたいです。

富野由悠季『The IDEON 接触篇』『The IDEON 発動篇』をつづけて観ます。夜の4時過ぎから、シャワーを挟み、朝の7時半頃まで。接触篇。まず、「敵」から映すことに感動します。テレビ版ではオーソドクスに「味方」サイドの会話からスタートしていましたが、再編集され、映画となった本作では、ロゴ・ダウの移民星に到来したバッフ・クランの面々の会話から物語がはじまります。敵/味方の安易な二元性にゆさぶりをかける、効果的なしかけだと思いました。誤解に次ぐ誤解で瞬く間に戦闘がはじまり、そのままずっとたたかいつづけながら話を展開させていく冒頭19分とすこしのたたみかけは圧巻です。過度な圧縮のために説明台詞が目立ってしまう節もあるのですが、とはいえこのころがしぶりは目をみはってしまいます。

テレビシリーズとの相違としてとくに目を引いたのは、わたしのお気に入りのエピソードのひとつでもある「異星人を撃て」でのロッタとカララの対峙シーンの意味合いの変化でした。コスモの成長というアクロバティックな着地を見せたテレビ版に対して、映画では「あれが異星人の女なのか……立派じゃないか。おれたちと同じぐらいさ」とコスモに語らせ、異星人であるカララも俺たちと同じじゃないかと感銘を受ける場面に仕立て上げられています。ストーリー全体からコスモの成長譚的な一面はほどよく脱色され、異星人との「CONTACT」に重心を移したと言えるでしょう。ゆえに、カララがコスモに輸血するシーンや、カララがシェリルをはじめとするソロシップのクルーを庇うシーンなどが重要なものとして残され、コスモの乳離れ的な意味合いを含むであろうカミューラ・ランバンとの離別シーンなどは不要として削除されています。


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発動篇はとにかくアバンのヤバさに度肝を抜かれました。本作の印象的なヒロインのひとりであるキッチ・キッチンがなんの前触れもなく登場し、わずか数十秒でその首が画面を飛んでゆくのです。コスモはそれを見て叫びます。「バッフ・クランめ!!!」。少女とのはかない邂逅と離別をもとに、復讐心を滾らせる、なんともラディカルな導入です。そのままクレジット付きのオープニングに入り、そこでこれまた印象的な敵役であり、後半ではコスモたちの仲間にもなるギジェがあっけなく死んでいきます。この狂った速度が、劇場版のおもしろさのひとつであることはまちがいないでしょう。とはいえ、テレビシリーズでは描かれることのなかった結末を物語る本作は、前作に比してていねいにあゆみをすすめています。

イデオンに搭乗する際に、サンドイッチを食べながらデクがつぶやく「死ぬかもしれないのになんで食べてんだろ、おれ」や、バタバタと死んでいくクルーたちを目の当たりにし、自分よりも幼いアーシュラがその死を「お星さま」になったこととして納得するさまを見てカーシャの叫ぶ「みんな星になってしまえ!」といった、ここぞというときに放たれる台詞の数々にもしびれます。そう、彼ら彼女らはまだ少年少女なのです。年若いひとびとが戦火に身を投じ、傷つきながらも成長していく「ロボットアニメ」というフォーマットのよさは、こうした瞬間のかがやきに見いだせるのかもしれません。

決着のつけかたもきょうれつでした。やっぱり「海は物語の墓場」(もう何年も前の福間健二の詩のワークショップで、ある歌人[名前を失念してしまいました]が書いた詩句です)だということがよくわかります。げんじつに回帰させる方法も、物語と相まってひじょうに効果を成していると思いました。バッドエンドという前評判で観ていましたが、とっても開放的なハッピーエンドだと思います。かなしさという点でいえば、同じ富野作品でもダンバインやザンボットのほうがキツいように感じました。この系譜でいくならば、つぎはVガンダムを観たいのですがざんねんながらユーネクストにない!

ちなみに、テレビ版のほうがわたしは好きかもと思いました。いびつな映画は大好きですが、あつみには敵わないよね、みたいな、そんな考えがわたしのあたまに浮かび、ふわふわとただよっているのでした。

賛美の中心

乗代雄介『旅する練習』を読みおえます。物語のおわり、その突き放しかたにきょうれつな一撃を喰らうのですが、つまりこれは生と死のあいだに「忍耐」の場所があることをはっきりと伝えているわけです。これは書く/読むの断絶を象徴的にあらわすものともいいうるかもしれません。本書に書いてあることを十全に読めたとは思えない読みぶりで読んでいたので、くわしくはもういちど読んでから考えたいと思います。

もういつからかわからないほど前からウンウンうなっていたテキストがようやく書き上がります。フィー、と息を継ぎつつ、すぐさま印刷のフェイズに移ります。ぶじに刷り上がるでしょうか。ぶじ製本できるでしょうか。

献立、手羽先と大根の煮こみ。酒みりん醤油昆布茶。よいお味です。大根が好評でした。

ラジオ。今回、ひさしぶりにアニメや映画についての話題が0で、鑑賞中のメモがまったくない状態で話していたのですが、それが功をなしたのか話題のフィードバックループ感(言葉のつかいかたあっているか?)がよいグルーヴを生みだしていて、話している側としてはよかったです。「編集的連接」の話をしましたが、まさに放送中もそれが生じているような、そんなムードがありました。取り上げた作品を読んでいるひとがリスナーにいてくれたのも好影響を与えてくれました。感謝です。もう30回になるので、何かしら区切りを入れたい気分もあります。


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10回以上チャイムを連打する音でめざめ、なんぞやと起きると祖母の友人(?)たちがその元凶として玄関の前におり、半ば安部公房の『友達』のようにして家のなかへ上がり込んできて、サイテーのいちにちのはじまりかたを迎えました。総勢4人、うちひとりは幼少期のわたしと面識があるようでしたがむろんわたしはおぼえておらず、口をひらけば「そろそろ嫁さんをもらう歳だな」とズカズカとろくでもない言を発し、しまいには禁煙の室内で煙草を吸いはじめる始末。「お父さんお母さんには内緒な」などとひとを子供扱いしながらスパスパやっていますが、あまりのことに何も言うことができませんでした。よくついったでも話題になる話ですが、即座にキレる技術が必要だとつよく思いました。いまのわたしにはキレ味が足りない。彼らが帰ったあとに、祖母の話をよくよく聞いてみると、闖入者のうち半数は面識のないひとびとで、マジで安部公房じゃんと思いました。フィクションもおそろしいですが、げんじつはよりおそろしいです。「次やったら殴る」の精神をふるいおこしてゆきましょう。

印刷製本作業でいちにちがおわり、料理はできませんでした。どちらもトラブルつづきで、おまけに左手の親指にカッターで深く切りこみを入れてしまいます。明日から東京ショートステイだというのに最悪です。画面のなかであればなんともない(というのはいいすぎですが)のに、自分のからだから血が流れているのを見ると卒倒しそうになります。

ブログをめぐっていると、わたしよりも北に住むひとと、西に住むひととが、マリトッツォという単語をそれぞれ記事のなかに書き入れていて、なんだなんだとググると、わたしもせんじつテレビで目にしたクリームのつまったパンがあらわれました。

記事のストックが現在に追いつき、なおかつ疲労の蓄積がダラスバイヤーズクラブなので、連続更新は本記事をもってひとまず終えようかと思います。407日間つづきました。しばらく休みます。

湿度のゲンガー/not u

深夜に小泉義之政治論集成がでると月曜社のついを見かけ、高揚します。口頭でも、ブログでも、ラジオでも(ほんとか?)なんども述べていることですが、わたしはこの廣瀬純×小泉義之対談のおかげで、自らを左翼と規定することができるようになったので、刊行がひじょうにたのしみです。

文字起こしをした記事があっぷされていたので、読みます。お話を聞いている最中も相当におもしろかったですが、記事化されたものもおもしろいです。特集である「21世紀のアート/アクティヴズム/ジェンダー」を考える上で、多様な論点がちりばめられたたいへん示唆に富むインタビューだと思います。中学時代に伊藤野枝に熱を上げていたという話、めちゃくちゃはげまされませんか? 《最初の晩餐》の射程とユーモアにも刺激を受けます。というか、そもそもこの特集の立てかた自体がめちゃよいし、執筆陣や、それぞれの記事のタイトル、リード文を見るだけでテンションがアガりますよね。わたしはほんとうにちょろっとお手伝いしただけですが、他の記事もあわせて、ぜひ読んでいただけるとうれしいです。

このところすすめていたテキストはいったん保留にし、渋滞していたもろもろの告知のじゅんびを半日かけてすすめます。PCディスプレイ直撮りで告知ヴィジュアルをつくるスタイル、いいかもしれせん。これはいんすたのストーリーを用いた告知を通して学んだ方法です。のこりの半日をつかって、どんどんSNSに流していきます。

献立、茄子と大葉の豚肉巻き、酒みりん醤油生姜の甘じょっぱ味と、豆板醤コチュジャンラー油酒醤油のピリ辛味。チーズ山椒巻きもつくります。それぞれ美味です。山椒はチーズがつよすぎて死にました。


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一家のうちでは、わたしたち兄妹の幼少期のホームビデオを観るブームがまだつづいていて、夕食のあと、わざわざ新しいケーブルを買ってきてまでテレビのおおきな画面に映ることとなったにくたらしいわたしのクソガキぶりに嫌気が差すのはもちろんですが、現在のわたしをそこに併置させたときに、なぜこんな風に育ったのだろうとふしぎなきもちになります。いったいどこでカルチャーにこじれ、何をきっかけにしてこんなにも屈折したにんげんになったのでしょうか? 高校受験失敗と大学受験失敗がおおきな傷として横たわっているのはたしかなことですが、はたしてそれだけでこうなるのでしょうか? とはいえ、画面上の妹のふるまいを見ていると、現在の妹のすがたも浮かび上がってくるからふしぎです。わたしも同様に、そこにいるのでしょう。

ぷっつん劇場-初夏の陣

昨夜のサンラータン風スープにひき肉を入れ、うどんで食べます。ラー油も加えてパンチを与えます。食べおえ、シャワーを浴びようかというところで祖母も起きてきたので、同じものをつくり、食べてもらいます。夕飯はシャケと大葉の炊き込みごはんをつくろうと決めます。

ピロウズの横アリ公演のセトリプレイリストを聴きながらテキストに向かいあいます。ピロウズのワンマン、行きたいなと大学生の頃からずっと言っていますが、いまだ叶えられていない願望のひとつです。屈折しながらも前を向いている、その姿勢は聴く者を慰撫しながら、勇気を与えてくれます。わたしの「オルタナ」観はピロウズをもとに形成されていったとも言えるかもしれません。

さいきんはスマホを自室に置きっぱなしにし、PCの前に座ることが増えています。すぐにいじってしまうからです。今日もしばらくはその体制で作業をおこない、意識を目の前のテキストに集中させます。まあまあ効果があり、それなりに筆がすすみます。ようやくおわりが見えてきました。ベボベの『cypress girls』と『detective boys』を聴きながらやっていたのですが、マジでいいアルバムですね。リリース当時『C』だけをくりかえし聴き、ほかのアルバムには手をのばさぬままちがうバンドに興味関心が移っていったのでリアルタイムには通らずに大学生になってからはじめて聴いたアルバムで、ああ、わたしが追っていないあいだにこんないい曲たちを生みだしていたのだなと感慨深くなった記憶がよみがえってきます。こういう冒険のしかたができるのはつよいなと思います。わたしの脳裏にたまに浮かぶフレーズ「会いたいときに君はいない/寂しいときに君はいない」が、『detective〜』のほうに収録されている「歌ってるんだBaby.(1+1=new1 ver.)」だということもおぼえました。


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献立、シャケと大葉の炊き込みごはん、ピーマンと豆麩の味噌汁、ひき肉と玉ねぎ入りじゃがバター、梅ときゅうりのたたきwithおかか。よいラインナップです。こういう食卓がコンスタントにつくれる精神的および肉体的な健康状態をたもってゆきたいです。生活のサイクルは、ひとつでも躓けば次々に支障があらわれはじめてしまいます。そうならないように生きるためには、金銭と時間のふたつに余裕がなければやっていけません。これって、めちゃくちゃ俗っぽく、身も蓋もない言いかたをすれば「ヒモになりたい」ってことじゃないのと、草野マサムネの「猫になりたい」を思い浮かべながらこの文章を打っています。単にパトロンに囲われたいと言ってもいいのですが。

背中の割れそうな痛み、原因は猫背のままPCに向かっているからで、まずはここから生活を正すべきでは、とわたしがわたしに問うています。