品鹵各呂にはみだすベジェ

わけのわからん時間に起きてしまう。かなしい。

技術を買い叩くひと。かなしい。

無知。かなしい。


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祖母の運動がてらいっしょに買い物へ。スーパーとドラッグストアに立ち寄って戻ってきただけだが、疲労困憊という風体で帰宅した。運動の成果かしらないが、しばらく経って椅子から立ち上がるのが楽になったとよろこんでおり、よかった。まいにち行こうかというと、顔をぎゅうとしかめ、無理だと祖母は答えた。彼女は83歳で、いくつかの朝と夜を迎えたのち、84歳になる。

献立、ネギと卵の中華スープ、パセリ入りポークチャップ。米を研ぎながら、家事労働に介護的な要素が加わり、いよいよしごととの両立が難路に入りはじめたなと考えていた。炊事や洗濯や祖母の世話らの合間にメールを打ち、校正をながめ、デザインの提案をする。ハードすぎないか? 抱えているしごとの量としては、「鬼」状態ではないにもかかわらず、心が疲労する。わたしがばあちゃんラブでなかったらはやくもおわっていたことだろう。

食事どき、香りのつよい野菜が苦手な妹は、パセリが入っているから食べれないと文句をいい、代わりにスープを2杯飲んでいた。ピーマンの肉詰めをリクエストされているが、ナツメグを入れるのは控えようと思った。すこし遅れて食事を摂ったが、メールを打つのが苦手すぎて胃が痛く、あまりのどを通らず。

食後は台割案の検討をしつつ、リトルプレスの制作に用いる道具を注文する。カッターマットやホッチくる、ステンレスの定規など。今年はフリーペーパーではなく、値段のついた冊子をアートブック系のイベントに出品しようと考えている。自己の制作と生活の一致に向けたステップか。プリンタ代をペイするのだけで年単位の時間がかかりそうである。1_WALLのときに刷ったポスターを売る機会をどこかで設けたいのよな。

夜が深まった頃、祖母がトランプをやろうというので、しばらく母と妹に任せたあと、わたしも参加する。ページワン、ババ抜き、ジジ抜き、ブラックジャックをやる。トランプなんて高校時代ぶりではないかと思うくらいのひさしさにつつまれながら、おおわらいしているうちに日付が変わって山札は手札と混ざってひとかたまりになり、やがて時代劇を観たいと申し出る声にネットフリックスをひらくと、『大奥』が映ってこれがいいと再生するも、おもしろくないと文句を放たれ、『愛の不時着』に不時着する。

図体と結界

今月にわたしたちの住む家に越してくる祖母のアパートの掃除に、両親とともに早くからでかける。先にごみ処理施設に立ち寄り、重機がゴミ山の鉄屑をゴゴガガ移動させるさまをながめ、わたしは「はたらくくるま」のことを想起する。深夜にそのことを思いだし、ねむたいまなこでゆーちゅーぶでMVを見る。メロが変わる前にさしこまれる、早口ぎみの少年少女たちのコーラスが耳をくすぐる。窓の外ではアームの先がクルクルとまわって、こんがらがった鉄線がその爪のあいだに丸めこまれている。わたしたちはテレビを処分しに来たのだ。リサイクル料を支払い、コンビニで飲み物を買って、いざ祖母の住まう部屋へ。ドアをひらく。マスク越しでもつたわる「ムード」が、鼻腔をすぐさま占領し、視界にも影響を与える。

ゴミ屋敷である。かなしいが、げんじつだ。足腰が弱り、視力や聴覚といった感覚も衰えた老体にとっては、しかたのないことだとも思う。床に敷かれた褪色したゴザには、得体のしれない滲みがあって、思わず孤独死という言葉が脳裏を過ぎる。窓辺には黴が繁茂し、冷蔵庫には年代物のボトルが不動のまま居座っている。中身はしれない。軍手を装備したわたしたちの手によって口を縛られた45ℓのゴミ袋は、いとも簡単に天井に達し、六畳一間の空間を縦横にわたって占有していく。積み重なったモノの山を見て、ひとの末路はこのようなものなのだ、と直感する。自身の終焉も幻視されるようだ。4時間ほど片づけたところで体力が尽き、当初はまだ居残るといいはっていた祖母を説得してとともに帰宅。シャワーを浴び、即寝。わたしは家族からの心ない言葉のいちいちに傷ついている。


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本日も3人で祖母宅の片づけ。においがおわってんだよな(これも心ない言葉かもしれない)。窓と玄関を開放し、グワッと2時間足らずでおわらせ、帰宅シャワー外食コンボをキメる。作業中、あたまのなかで流れていたのはバックホーンの「ハッピーエンドに憧れて」。「こんがらがってる日々のように 聳え立つ部屋はゴミ屋敷」「割と陽の当たるこの部屋を 黙々とただ片付けてゆく そしていつかは!」。

100均一で精密ドライバと、メタリックカラーのクリップを購入。前者でゆるゆるのメガネをなおし、後者は何かしらのZINEの材料にすることを決める。家に帰って2-30分ほど仮眠したのち、炊飯、きゅうりのごま油だし醤油かつおぶし和え、チャーシューとキャベツと寒天のスープをつくる。へんな時間に食事を摂ったので腹が減らず、家族それぞれバラバラに夕食をする。

メールを見ると、入金の連絡とあたらしいしごとの話がきており、ありがたいきもちになる。捨てる神あれば拾う神あり、めっちゃ信じてるんだおれは。

形而の図書室

「シコウシテ、って言葉あるじゃん?」
「しこうして?」
「そう」
「考えろって?」
「ちがうちがう」
「志すみたいな?」
「いやいや一文字の」
「一文字?」
「ケージジョーガクのジの字のさ」
「じのじのさ?」
「じのじのさ!」
「ちょっと」
「あ、アンズっち」
「うるさいよ、ふたりとも」
「ごめんごめん」
「みんな静かに本読んでるんだからさ」
「はーい」
「でもそんなでしょ?」
「そんなだよ!」
「ちょっと」
「あ、ごめんごめん」
始皇帝
「え?」
「思考停止の始皇帝
「は?」
「いや、シコウシテとかいうからさ」
「思考停止の始皇帝、シコシコ実行令を施行」
「ちょっと!」
「ごめんごめん」
「で、いったいなんなのさ」
「なにが?」
「その、シコシコシテとかいう」
「ちょっとったら! もう、やめなよ、こんなところで」
「あらあら」
「アンズっちったら」
「なに、」
「こんなとこじゃあなかったら」
「よかったのかしらってわけでしょう?」
「は、」
「そういうことでしょ、こんなところで、って」
「そそそそ。んもう、えっちっち!」
「あー、もう、いい加減にして!」
「すみません、お静かに願います……」
「あ、ごめんなさい……」
「へっへ、怒られてやんの」
「あんたらの所為でしょ!」
「アンズっち、カワイイねえ」
「うるさい!」
「そうやってどなるときも小声になるところとか、じつに愛らしいよね」
「わかる」
「わかんなくていい! そもそもいったい何の話してたのよ」
「シコ帝でしょ」
「略さずにいうと、シコシコしてえ始皇帝の話」
「だから!」
「いやほんと、からかいがいがあるよねえ、アンズっちって」
「まっすぐなんだよね、あたしたちとちがってさ。屈折してないの。折れ曲ったり捻じ曲がったりしてないの。稀有だわ、稀有よねえ、マレマレのマレ、レロレロのレロ」
「ちょっと、ばかにしてるでしょ」
「ほめてるの」
「はい、ご褒美のチョコレート」
「…………」
「あは、かわいい」
「そうやって差し出されたものを躊躇なく受け取っちゃうところもラブリーだよねえ」
「………」
「だってさあ、文句があっても行儀正しくさあ、口にもの入れたまましゃべらないんだよ?」
「お手本よ。お手本。人生のお手本。生命の模範生。生きとし生けるもののスペシャルスタンダー、」
「うるさい!」
「おお、怖」
「はい、ふたつめのチョ、」
「いらない!」
「あら、むくれちゃって」
「そんなにぷりぷりしないでよ」
「……」
「ほら、アンズっちの好きなラムレーズン入りのもあるよ」
「……」
「へへ」
「おいしいでしょ」
「……」
「で、へのへのもへじがどうしたって?」
「や、とくにどうってわけでもないんだけど、ヘンな言葉だなって」
「そう?」
「だってかたちもヘンだし」
「うん」
「まぎらわしいよね、さっき伝わなかったみたいにさ」
「たしかに。ひとつながりじゃなく思っちゃったもんね」
「しこうして、じゃなくて、シコウしてになっちゃうんだなこれが」
「……あなたたち、文字の話をしてたの?」
「そう」
「しこうして、についてシコウしてたのよ。シゴクまっとうに。シコシコと」
「マジメなガクセーだからね」
「どこがよ」
「ほら、ここに書いてあって」
「ん」
「ああ」
「へえ、こんな分厚い本読むんだ」
「マジメなガクセーだからね」
「はいはい」
「ところでアンズっちがもってるのは?」
「え、これ?」
「あ、それ始皇帝でてくるやつじゃん」
「え、そうなの?」
「や、テキトー」
「だから!」

ギャラクシっていこうぜ!!!

トマス・ヴィンターベア『偽りなき者』(2012)。ヴィンターベアは、ラース・フォン・トリアーらとともにドグマ95を展開していた監督のうちのひとり。制作会社はもちろんツェントローパである。冒頭からトリアー式の手持ちカメラスタイルが画面上に発露しており、それだけでたのしいきもちになる。真っ暗闇で子供が「告白」するシーンの不穏さもたまらない。ひとまず、ついした感想をば。

偽りなき者、狩猟倶楽部/幼稚園という性別の異なるホモソ空間の同質性と排他性を背景に、幼女の何気ない嘘によってペドフィリアとして仕立て上げられた男。北欧の寒空の下、拒絶の手と救済の手は同じ胴体から差しのべられ、神の名のもとに合一化したかに思えるが、遺恨の弾丸は容赦なく獲物を狙撃する

本作は子供の嘘によって憂き目にあう男の受難譚という物語の裏手に、ふたつのホモソーシャルな空間が存在しており、論われがちなこの同性的な結びつきが、ひとつのセーフティネットとしても機能することを描いている。この関係性に重きを置いていることは、主人公も属する狩猟倶楽部の面々が裸になって湖で戯れているさまが最初のシーンに選ばれていることからも明らかだろう。そのつよい結束は、少女の一声によって破られ、拒絶のベクトルに反転してしまうのだが。

一方、女性の園である幼稚園においても、幼女の証言を耳にした女性園長によって、有無を言わさず「変態」のレッテルが男に張りつけられ、彼の元妻にまでそのことを触れこんで息子との仲までもを引き裂き、彼女のもとではたらく保育士たちも、彼の恋人であるナディヤを除いて排除の姿勢に同調する。ひとり主人公に寄り添うかに見えた彼女も、周囲の声に感化され、一抹の疑念を口にしてしまったが最後、孤立した彼の方からでていけと家を追いだされてしまう。

そうしてひとりぼっちになった男を救うのもまた、ホモソーシャルな狩猟倶楽部の一部の友人たちなのだった。その関係性がもたらす弊害はまちがなくあるとしても、そこに属する個々人はべつべつの独立した人間であり、手を払うひともいれば、手を差し伸べるひともいるという、至極当たり前のことが、ここでは描かれている。ひとは属性のみで判断されうるものではないのだ。

キリストの生誕を祝うクリスマスを機に「誤解」は解かれるが、しかしてここでもまた「当たり前のこと」が変奏される。「誤解」を「誤解」だったと受け止めなおすひともいれば、「誤解」を「正解」と信じたままのひともいるということだ。「正解」を唯一しっているわたしたち観客だけが、それをただしく「正解」として判を押すことができる。

原題は『Jagten』。英語でHuntの意である。狩りにおいて何よりも優先されるのは個々の生命存在ではなく、種としての存在、つまりは属性こそが標的になる。個体に由来する「大きさ」や「いろかたち」が問題になるのは、獲物を得てからの問題だ。「狩り」に参入するための、大人/子供を隔てるイニシエーションが本作のラストに配されていることの意味を、わたしたちはエンドロールをながめながらつよく噛み締めるだろう。


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夜、エリンギ、椎茸、なめこ、鶏ももをみりんと醤油で炒めたもの。なめこおろし的な感じ。大根はないが。緊急事態宣言がでた所為で、フライヤーのしごとが延期の危機。こちとら生活は実家パワーでなんとかなっているが、じっさいに公演を打つ劇団や役者やスタッフの苦労や心痛を思うとウーンと唸ってしまう。いわゆるライブ・エンタテインメント業界はこの1年でずいぶんと疲弊してしまっているよな。配信という手法もあるけれど、それじゃけっしてつたわらないものがあることは、いちどでも「現場」にでむいたことのあるひとは理解しているだろう。

『レイズド・バイ・ウルブス』5話。ここまで見てきてようやくお、と思ったのは、自身の人格を形成した人間=創造主の記憶をとりもどしたアンドロイドが、自らの否定する有神論的な態度に接近してしまうことだった。マザーと呼ばれる彼女は「母」として子供を育てることに尽力するわけだが、この出産-育児のプロセスにおいて機能しているものこそが「創造主」としてのふるまいであり、まなざしだ。「神」概念と、「母」概念のむすびつきの強固さ。

午後、画面上でだいたいつくりこんだので、原寸でフライヤーを試しに刷ってみる。いい感じ。これまでにやっていないスタイルで、歩んできた道のりの延長に到達できた感覚があり、達成感がある。緊急事態宣言の影響もあって公演延期が決定し、お披露目まではずいぶん時間がかかりそうだが、期待されたし。

フライヤーのいきおいで自己の制作のブラッシュアップにも手をだす。ものをつくるたびに、新たな「語」を獲得する。この蓄積が、すぐれた「文」をつくる。初期オウガを聴きながら、頼りない部分の密度の調整をおこなう。

夜、ひき肉、茄子、キャベツ、干し海老を豆板醤、豆豉で炒めたもの。

スマホが重くていらいらする。ネットの速度もあるが、物理的な重量のことである。わたしの手はひとよりちいさく、それも影響しているのだろう。下部を支えるゆびが耐えきれなくなって、ポトリと床に落ちていった。

手をとるまでのわずかな火柱

妹の歌声でめざめる。もともと年間休日が少ない職場なので、感動もひとしおなのだろう。都市も大概だが、田舎の労働環境はひとにやさしくない。

富野由悠季機動戦士Zガンダム』21話。いよいよZガンダムが登場する。21話になるまでタイトルにもなっているロボットがでてこないってすごい話じゃないか? サラやマウアーなど新キャラもポンポンあらわれ、目にたのしい。アポリーさんがさいしょにZに搭乗してやってくることもおもしろく思った。カミーユを救う存在としてともにあらわれるファが、フォウ喪失の埋草になっている気がして、残酷だなと思った。そんなふたりの抱擁を、ブライトやエマが目撃するカットを入れているのがいい。台詞としては表出されないが、そこに生まれる思いが、ドラマをつくる。

オラシオ・カステジャーノス・モヤ『吐き気』のうち「フランシスコ・オルメド殺害をめぐる変奏」を読む。息のながい一文が蛇のようにうごめく文体によって、何年も前に死んだある男の、死に至るまでのストーリーを、売春婦と酒とゲリラをカクテルしながら幾度も想像しなおす汗ばんだ短編。特徴的なその文は、たとえば以下のようなスタイルで筆記される。

まったく、私自身も暇の極みでその仮説を嫌というほどいじくり回し、躍起になって政治色に染め上げ、病んだように話を作り込み、おそらくそうして自分がずるずると国を留守にしていたのを正当化しようとしていたのに、今になって別の真実が、全てのカギを握るというのに私がすっかり見過ごしていたその女よろしく、大股開きで決然と立ちはだかるとは。

複数の動詞(いじくり回し、染め上げ、作り込み……)をともなう修飾語の連打が、意味の確定の先送りを展開し、くりのべられたその先端に、またべつの長いひとかたまりの文が接続され、擬人法までもが登場する。この読みにくさの波にたゆたっているうちに、二転三転する「死の真相」が主人公の過剰な妄想力によって幾度も語りなおされ、気づけば物語の結末に漂着しているという塩梅だ。

本書は推理小説ではないので、フランシスコ・オルメドがはたしてどう死んだのかは重要ではなく、性と暴力の匂い立つその真夏の中米の空気を文の端端から吸いこみながら、文体のうねりに身を任せるのが最適の愉しみかただろう。後半の二篇はまたべつの機会に読む。


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ラジオ。話題にならないような話題をてきとう雑談につっこむのはやめようと思いました。それはてきとうではなく、安易と呼ぶべきでしょう。話題の数の多さに押されて、それらをつなぐ意識がおろそかになっていたなと一夜明けて考えています。

機動戦士Zガンダム』22-24話。とにもかくにも「久しぶりね、カミーユ」と体当たりしてくるレコアさんの魅力よ(22話「シロッコの眼」)。こういうコミュニケーションの取り方をしてくる少し年上の女性には、そりゃあやられてしまうだろうとにやついてしまう。23話「ムーン・アタック」で、ファが「アストナージさん、怒ってたわよ」とカミーユに話しかけてしまうのとは雲泥の差である。だが、その天邪鬼ぶりにもわたしの心はときめくのであった。愛をめぐって、人間、そうそう素直には生きることはできないのだから。

同回でカミーユが「考えてみれば、男の戦場にこんなにまで女性が前に出てくることは異常だ。世界が変わってきている」と心のうちでつぶやいていたが、富野アニメの特質としてつよい女性たちの存在は欠くことのできない要素であり、エルガイムのいつだかの次回予告でキャオが「いま、女性パワーがおもしろい!」と叫んでいたが、そのことも思いだした。

デラックス・ラテックス

富野由悠季機動戦士Zガンダム』を観ながら朝食。15-20話まで。相変わらずずっとおもしろい。ベルトーチカって川村万梨阿なんだ!としる。彼女がアムロにとつぜんのキスをしたあとに言い放つ「女の愛撫で男を奮い立たせることができるのなら、女はそれをする時もあるのよ」(16話「白い闇を抜けて」)。なんちゅう台詞だろうか。子供向けロボットアニメで放たれていることは信じがたい内容とその言い回し。そしてそれに対応するような、ベルトーチカに対するカミーユの「それは女のわがままですよ。そんなことで男を殺すってこともあるって覚えておいてください!」(20話「灼熱の脱出」)。こうした濃度の台詞がバンバン飛びだすのが、Zガンダムの魅力のひとつである。19話「シンデレラ・フォウ」の「知っている人がいてくれるから、生きていけるんだろ!」というカミーユからフォウに対する激励もアツい。

フォウ・ムラサメといえば、どうも自分のなかでロザミア・バダムと印象が被っていたのだが、こうやって本編を観ることによって存在が分離されていく感覚もあった。それにしてもサイコガンダムのでかさよ。同じくややでかめのMSにアッシマーがあるが、それを駆るブラン・ブルタークパイロット能力めちゃ高くないか? アムロカミーユというニュータイプの超級パイロットふたり相手に互角に渡り合っていて衝撃を受けた。早々に退場してしまうのはかなしいね。

ほか、これまで最年少のパイロットであり、大人たちからの「修正」の対象であったカミーユが、カツというさらに年若い人間があらわれるにつれて「大人」としてもふるまうようになっているさまに感動したり(15話「カツの出撃」)、なんだかんだいって死を前にしたときにカミーユの脳裏に浮かぶのがファである(16話「白い闇を抜けて」)ところに胸を打たれたりする。前々から登場していたが、目だけがプルプルする演出もたのしい。これはラジオで話す。

麦茶のポットが空になったので、新たなものをつくろうとティーパックに手をかけると、ささいなちからでやぶれてしまい、なかの粉末があたりに飛び散った。今回の製品はパックの繊維が薄く、駄目にしてしまうのはこれで2度目だ。シンクや床にばらまかれた焦茶色の粉を地道に片づけながら、窓から差す日差しのつよさに春の陽気を感じる。

午後はレスポンスがかえってきたテキストの再考。案を考えることよりも、それをどう伝えるかに時間と労力がかかる。ニュータイプであったなら一瞬で伝えあうことができるのだろうと羨ましくなるが、それはそれでトラブルも起きまくるのだろうなと苦笑いを顔に浮かべる。なんとか完成させて送りおえ、夜、チャーシューとピーマン炒め。塩胡椒のみ。カレーや油味噌などとともに食べる。いくら塩分があるとはいえ、油味噌も今月中に平らげなくちゃな気がする。


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夜はフライヤーデザイン。制作初日にパッと配置した図版をいろいろと差し替えていたのだが、けっきょく元のやつがいちばんいい感じで、直感も馬鹿にならないなと思った。その直感もこれまでいろいろ観たり読んだりしたものの集積としてあるわけなので、そりゃそうだろうと隣に座るわたくしが茶々を入れ、わたしもウンウンと頷きながら文字のサイズなどをチロチロといじくる。週末にでも第1案を投げられればよい。

同人誌についても思案。3人の執筆者に対して8p。どうつかうか。などと考えているとテキストについてまたやりとりがはじまり、といういちにち。こうやってクライアントワークが増えてゆけばもちろん自分の制作がおろそかになるのだが、かといってしごとがなくったってどうせのろのろちんたらの体たらくなのだから、「忙しい状態」であるほうが作品にもいい影響を与えるのはこれまでの経験で得た学びである。苛烈な感じでノープレッシャーにしごとと制作を両立させたいし、もっといえばそれが一体化すればよい。

よろこばしい吸殻をひとつのこらずバラバラにする

昨日のあまりで朝食。妹が社会人になって以来の長い連休に突入しており、よろこんでいる。わたしもいっしょによろこんでいると、あなたはいつも休みみたいなものでしょうと指摘され、さらによろこんでおく。よろこんでいる場合ではない。

テキストの編集のしごと、フライヤーデザインのしごと、洗濯などをやり、ビレ・アウグスト『愛と精霊の家』(1993)を観る。スケールのでかさをまず感じ、わたしの観ている傾向ももちろんあるだろうが、最近の風潮としてはちいさいサイズの作品が多いのかもなと思ったりする。どっちがよい、という話ではないが。3世代にわたる家族の物語と、激動するチリの歴史の絡みあいを、よく146分に圧縮したなと、上下巻に分かれるほどの大著である原作を思い浮かべながら観た。この映像化は映画として独立した作品にしようという意識が感じられ、それ自体はよい手つきだと思った。

役者がとにかく豪華な点も気になるポイントだろう。メリル・ストリープウィノナ・ライダーヴィンセント・ギャロアントニオ・バンデラス……。クララの子供時代を演じる子役グレイス・ガマーの芝居もすぐれており、調べてみるとメリルの実の娘だという。ノア・バームバック『フランシス・ハ』にでていたとあったが、そっちはまったく印象に残っていない。そんな彼女が演じるクララが大人になると、役者は実母であるメリル・ストリープになるのだが、これが妙におもしろかった。彼女のもつ超常能力と、見た目における年齢の不明瞭さがかたちづくる不気味さが絶妙な交点をむすんでいて、得体がしれないのである。年齢を重ねると年相応のヴィジュアルになるのだが、青年期のクララはヴェールで顔を覆っているシーンが多いとはいえ、けっして設定にそぐうすがたをしておらず、その違和が存在として立ち上がっていた。ウィノナ・ライダーははちゃめちゃにかわいく、ヴィンセント・ギャロはキレキレのするどさだった。わたしの好きなフランツ・ロゴフスキもこのタイプの顔立ちだなと気づいた。

原作をしらないひとは本作をどう観るのだろうというな正直なところで、わたしはあまりよい映画と思えなかったのだが、つくりの実直さは好ましく思った。そもそもなんでデンマークの監督が撮っているのだ? ドイツ・デンマークポルトガルの合作になっているのを見、チリでチリ・クーデターを題材とした作品を撮ることのむつかしさを思った。『コロニア』を撮ったフローリアン・ガレンベルガーもドイツの映画監督ではなかったか。

米を炊き、鮭とブロッコリと大根のカレーをつくる。インデラカレー缶、クミン、コリアンダー、カルダモン、ブラックペパー、ホワイトペパー、カイエンペパー。塩、醤油、昆布茶。はちみつも入れる。うまい。シャバシャバタイプ。鮭カレーの発想は、東京を引き払うまえに下北のムーナで食べたのに起因する。玉ねぎがひと玉しかなくても、にんにく・生姜なしでも、まあまあいけるじゃんと思った。


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夜はOとAさんとの通話。それぞれのさいきん観たり読んだりしたものの話をしているうちに、同人誌をつくろうという話がふくらみ、うごきだす。べつの冊子についての連絡もきており、さらにはテキストについてのレスポンスまでとどいてウオオ、とてんてこ舞いをおどる。同時にやろうとしてはいけない。教訓です。

そういえば、テキストを先方に送りおえたころ、かつて手がけたフライヤーがメルカリに500円で出品されているのを発見したのだった。しかも出品者は群馬に住んでいるとある。そんなところまでとどいていたのかと、おどろいたりうれしがったりふしぎがったりして、わらってみたりもする。

本はせめて明日さいしょの1編を読もうと決める。