短毛に寝そべる背中

妹の車でハロワへゆく。もう慣れたものである。あとぜんぶで4回ほど行くことになるのか? 職員たちはやさしい。帰りに古書店にも寄ってもらうが、閉まっていた。今日は定休日でないはずなのに、、としらべると、どうやら営業時間が4時間程度しかないようで、はやくに行かないと立ち入れないようだ。店の壁に巣を張っていたかわいいジョロウグモを写真におさめ、帰宅する。


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かわよかろ、子供のころ平気でさわってあそんでいた、いまもふれられるだろか、


今日は豚キャベツソース焼きそばと、里芋の竜田揚げ。里芋をつかうということは、わたしのきらいな皮むきがもりもりにあるということでもあり、料理中じわじわとヘイトがたまる。しかしうまいんだな里芋は。水気を切るのを横着したのでからっとでなくもちっとタイプになった。

テレビで大塚芳忠がラバーラバーいうてるのをきいているとダバダバいっているようにきこえ、エルガイムを観ている気分になる。今週は1話も見ることができなかった。

サラエヴォ・ノートを何頁か読んだのち、寝際のゆーちゅーぶ。栄純の推し曲が「世界の果てで」であることと、カラオケでいちばんはじめに歌う曲がスピッツの「楓」であることをしる。実演の模様をみて、ミックスボイスのだしかた講座的な側面ももっているなと思った。いつの間にか旧ドラ関連の動画を観ており、大山のぶ代のことを考えるとなみだがでてくるなあと思いながら寝た。ぼくたちわたしたちが幼い頃にあれだけ慣れ親しんでいたドラえもんの声の持ち主が、いまではドラえもんのことすら忘れてしまっているというのは、もう漫画である。ZZもびっくりのアニメである。ドラえもんといえば大長編ドラえもんの映画が観たいのだけれど、いま入っているサービスではどれもやっていないのだよな。定期的に配信されるようなのでその機を待ちたい。

missile missing missions

今日も今日とて紙と印刷について学んでいく。

きのうの鍋があまっているので、そせじをボイルし、祖母の味を思いだしてスクランブルエッグのマヨ和えをつくる程度にしておく。母の漬けたカブや、なめたけや、韓国のりも食卓の上にあがり、品数が多い。パクパク食べる。

深夜にかけても制作。みっつめのグラフィックシリーズのひとつめがしあがる。シリーズのアイデアばかり浮かんで、それぞれのシリーズのふたつめまでたどりつかない。ばかだねえという気がするし、それでええんやという気もする。いまではむっつのシリーズの予定がある。曜日ごとにあっぷしていこうなどと思っていたが、さいてい週にいっかいあげられればよいかというところに着地した。

無職の立場にあると、ものを買うことに躊躇するようになる。そんなブレーキ装置をえいやとたたきこわして、町屋良平の『ふたりでちょうど200%』を注文した。ネットで本を買うのは生まれてはじめてかもしれない。と、2回くらいここで書いているはずなのでそんなわけはない。が、それでもその総数は片手で数えられるほどだ。ひとりのアンチアマゾン勢としてインディ系の書店で購入した。こんなことをラジオでも意気揚々とのたまっていたが、プリンタだのなんだのを買う際にアマゾンに頼る可能性がある。なんとよわい決意、、


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ぜんぜん更新されないブログがしばらく見ないあいだに立てつづけに更新されていてうれしい。このブログもいつのまにか400日ぶんの記録がたまっており、紙に印刷してまとめたらそれなりにぶあつくなるだろうと想像する。日記ZINEはフリーペーパーで2号発行したが、つぎは冊子のかたちにまとめてみようか? それとももう1号フリーペーパーでやるか? ネットプリント? こっちにいるあいだにいちどは印刷物をつくって郵送するという行為をしたいと思う。

フアン・ゴイティソーロサラエヴォ・ノート』を4章ほど読む。悲惨だ。歴史的な背景を深くしらないので、断片的にその記述をとらえることになる。著者によって最も心の痛む光景として引かれ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ政府広報官によって「第二次世界大戦後にヨーロッパ文化に対して犯された最も野蛮な破壊行為」と評された、セルビア民族主義過激派によるサラエヴォ図書館への焼夷弾爆撃。旧東方学研究所として名を馳せていたこの場所に所蔵されていた貴重な文化財は、たったの数時間で灰燼に帰した。ゴイティソーロはこの蛮行を「記憶殺し」と名づけることに同意する。

ヴィシェグラード虐殺から逃げ延びた未亡人の、このような証言もある。セルビア武装集団である《大鷲隊》が家に押し入ってきたときのエピソードである。

夜一〇時、あいつらは今度は案内人なしにやってきました。まず、私と下の息子のことを殴り、それから、私たちは銃を突きつけられて、床に横にならされました。私は弾丸〈たま〉の入ったピストルを持たされて、その銃口を息子の口にくわえさせて、私のことを殴ったり蹴ったり……。

どの頁を読んでも、地獄のような描写がつづき、その行のひとつひとつに自己の無知ぶり、生きる姿勢を問われているような気分になる。

桁をあわせる/遠いところから乗ったことのないものに運ばれて

なめられがすごい。

目覚めると腹が痛く、両親はラーメンを食べに行くというのについていくことができなかった。昨晩ひさびさに酒をガブガブ飲んだからだろうか。プリキュア仮面ライダー戦隊もののニチアサセットを鑑賞したのち布団でぐったりし、夕方ころに起きだして妹のリクエストでミルフィーユ鍋をつくる。豆乳と味噌ベース。昆布茶、酒、醤油、ごまも入れる。具材は豚バラ、白菜、長ネギ、舞茸、しめじ。水気がすくないので味が濃い。肝心の妹は今日は外で食べてくるというので、ひとくちふたくちつまんででかけていった。いち土鍋を平らげてしまったので、余った野菜と肉でもうワンセットつくっておく。ラフランスのうち、ひとつを切って剥く。よく熟していてうまい。

だらだらしてしまったときの罪悪感について。だらだらすることがわるいと思わされているこの認識の枠組みをぶちこわそう。だらだらしながらたのしく生きのびていく方法を自らの生をもって実践しよう。ときおりやってくる不安は、不安でない。フアン、フアン、フアン・ゴイティソーロフアン・ルルフォ。フアン・フエンテス

深夜から朝方にかけて制作。書きだしたpdfの山を見ながら、作品はこのようにできあがっていくのだなという、まるで他人のような目線と思考が生じた。いくつかのシリーズを並行してつくっていくつもりだが、それぞれ別様のワードを付し、判型においても異なるおおきさのなかで造形と構成をおこなう。逆に判型をまいかいずらしていくシリーズも考えてみるか?と書きながら思った。判型への感覚を養うことはレイアウトにおいてひじょうにたいせつなことである。

前回の無化報あたりからインからアウトへのスイッチが入ったようで、読んだり観たりがおろそかになっている。うまいバランスを探りたい、などと思うが、そんな均衡を保つ必要なんてあるのだろうか。読みたいときに読み、観たいときに観、書きたいときに書き、つくりたいときにつくる。これがいちばん健康的ではないか。そのようにして生きることの至難を思う。


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肉とじゃがが入っておれば肉じゃがなのじゃ


数量化と属性化への抵抗的な姿勢をもつこと。昨日のマッチングアプリの話もそうであるが、そうしたネオリベ的なマインドへの警戒心がないために、noteで炎上しているホームレスに対する記事のようなものいいが見逃されることになる。クリック率だのコンバージョン率だのプレビュー数だのクソのような数字にかこまれて生きていれば誰しもそんな脳みそになってしまうのだろうし、SNSのいいねも同様だ。だが、いまの社会で生きていこうとする以上、その効力のおおきさを無視して生きることはむつかしい。ワニウエイブと高島鈴が立ちあげた「ALTSULM」というwebサイトの記事が示唆に富む。

3時間仮眠するつもりが6時間寝てしまった。

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文化庁を崇める未来が見える。行為を憎んで組織を憎まず?とあいちトリエンナーレへの助成金撤回に対するデモへと足を運んで、デモのためのネットプリントをつくったり、抗議のためのイベントを開催したりしたことを思いだす。「感情で記号だけ攻撃しろ!」?

というわけで助成金を得るためのじゅんびに時間を費やす。こうした手続きをぴゃっとできるような身軽さと慣れがひつようだ。

夜は鶏肉と玉ねぎと蕪の和風カレー。ハウス食品のカレー粉、クミンシード、ニンニク。塩は気合を入れて入れろ。かつおぶしと玉ねぎドレッシングが隠し味。好評を得る。団欒にはまざらず、わたしは+1(ぷらわん)という大学時代の浪人組同期とビデオ通話をしながらそれを食す。定期的にあつまっていた盟友たちだが、こうして3人で顔を突き合わせるのはかなりひさびさである。がぶがぶ梅酒を飲み、近況を話しあい、これまたひさしぶりにきもちよく酔う。みな元気そうでなにより。おたがいがんばっぺえと気合を注入しあい、3時間弱くらいで解散。わたし以外のふたりはともに通話中に恋人が帰ってきて、我が身のかそけさを思った。眠気にまかせてそのまま沈没。


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ラブthe春巻き


3時すこし前くらいにめざめ、水をがぶがぶ飲む。あまりにのどが乾いているので、コップになみなみ注いだ水2杯を、時間をあけてにどにわたって飲み干した。水を一気に飲む快楽。わたしの体内の中心部に穿たれた管のなかを大量の液体が通っていく快楽。そんな快楽があることをあなたはご存知ですか。

ぼんやりまなこでdpzを読みながら感動したのは、ユーネクストのバナー広告がその上をゆびでおさえてスクロールしてもリンク先に飛ばされないことで、ぜひともあらゆる広告はこういう設計にしてほしいと思った。いらいらする広告について以前触れたことがあったが、クリック数を上げることしか考えていない本末転倒の広告をのさばらせていてはいけない。

dpzで食う記事があったが、アカマンボウがどうのという炎上ついを経由して「今日から恋人」「OZEN」というマッチングサービスの存在をしる。前者をじっさいにつかってみたひとの体験談を読んだが、運営サイドの人間が「○○才○○卒○○似の方」というような提案のしかたをしていて、そのルッキズム全開かつ新自由主義的(ひとに対して臆面もなく「スペック」とかいいだすような下劣な心性がそこには透けて見える)な品評的な目線にオエーとなったのだった。どちらのサービスも既存のマッチングアプリでは「非モテ」が見向きもされないという点を強調していたが、「恋愛市場(おそろしく、いまいましい言葉!)」における、よりおおきな枠組みについてはどうでもいいのだなということがよくわかる。ベル・フックスが『フェミニズムはみんなのもの』でいっていた改良派フェミニズム/革命派フェミニズムのアナロジーがそこには見いだせる。前述のオンライン飲み会でもわたしの境遇を慮ってタップルがどうのという話が友人のくちからでたが、わたしのマッチングアプリに対する不信や不快のありかはどうやらそのあたりにありそうだ。まったくちがう文脈の、異なる用法ではあるが、「俺達は機械じゃねぇ!!」と嵐山歩鳥もいっていた。わたしたちは市場の魚でも、目利きの銀次でもない。クソのような時代を生きるわたしたちには、恋愛を語るためのあたらしい語り口が必要だ。

夜会巻き

深夜は制作のモードの深みへとずぶずぶ潜っていく時間。アドビをゴリゴリやりながら、同世代の売れてる作家(といっても、制作じゃ食っていけていないとそこには書いてあった)のインタビューなぞを読みだしてしまって、いろいろ納得いかねーという思いがふつふつと煮えたぎってくる。むろん、矛先は己である。こんな状態にある自身に腹が立ってしょうがない。いったいなにをしょっぱい日々を送っているのか、、ポエム書くかというひさびさのきもちが萌芽して、おうおうと威勢がよくなるが、文字を打つまでにはいたらず、代わりにここで燃え立ったかと思えばきゅうに冷えていく感情の遷移を書きのこしている。安心安全な生活を過ごしていくなかで、感情の振れ幅がずいぶんちいさくなっていたことが、一気に極に振れたことでわかる。その傾きのなかには、ひとつのことに集中していられるか!という怒りの叫びがあった。無数のやりたいことに対して自分の手足や耳目が間に合っていないことのいらだちである。ぜんぶ制作に投げこもう。3時をまわったので自室に退散し、布団にくるまる。昨日はこの時間、金属バットのラジオを聴いたことを思いだす。

階段のぼりおり。心肺がつらい。初日にびっくりするほど筋肉痛になり、からだのおとろえを感じていた。いずれ痛まなくなるのだろうか。1日インターバルを置いて、今日が3回目。

今日もいちにち制作。明日は劇場版をプリキュアをもりもり観るぞと意気ごみながら、アドビをやっていく。いいものをつくり、なおかつそれがいいものとして他者に受け入れられることはとてもうれしい。家にあったインクジェットプリンタの刷り性能がしょぼしょぼなので、レーザープリンタを導入しようとインターネットを徘徊する。フルカラーかつ、A3まで刷れるとたのしいのでそんな性能をもったものを調べていると、なんと40キロもするそうである。重すぎでは?? しかし制作のためのデバイスを探すというのはワクワクする。いつそうなるのかはしれないが、「完全なる」制作者として生きていくための準備というやつだ。スキャナもついてるといいがそうなると予算をオーバーしてしまう。別途買うべきか。スタンドスキャナーってどうなんでしょう。

夜は昨日ののこりが余っていたので、カブの葉と卵とそせじで中華スープだけつくる。わたしは食事に汁物がなくても大丈夫なにんげんだが、両親はわりともとめるタイプで、こちらへ帰ってきてからよくつくるようになった。汁物の代わりにわたしは茶か水がないと食事ができないが、逆に両親は食事中にあまりそれらを飲むことがない。おもしろいちがいである。


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鶏肉ししとうオイマヨ炒め


深夜は機材を見繕いながら印刷についての学び。紙の知識をつけるために、竹尾のミニサンプルをある程度の数をまとめて買うか?ときもちを昂らせている。いまあるものをすべて、一括で買うと27060円になるそうだ。さすがにそれはきついので、買うとしたらその三分の一(それでも多いが)くらいかなと思っている。どうでしょうね。

めくりあった日除けのくぼみ(赤くなった突起もある)

妹がおたけびをあげているのでめざめる。レンジで温めた容器があついあついと叫んでいた。わたしも食事をし、髭を刈ってシャワーを浴びる。ひさしぶりにカラーシャンプーを投入して髪の色を多少もどす。『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』のつづきを読む。ほんとうにおもしろい。メインとなっているギャグものも、思弁を展開するものも、児童文学ものも、どれもこちらにのりしろ印でひびいてくる。「川辺」が収録されていないことだけがかなしいが、そのかなしみを吹き飛ばすほどの珠玉の掌編がつまっている。「ワインディング・ノート」と「虫麻呂雑記」はまたべつの機会に読む。

ラジオ前の予習としてバスティアン・ヴィヴェス『ポリーナ』を読みかえす。やっぱりこっちだなあというきもちになる。すぐれた漫画を読みおえたときの、なんともいえない余韻がある。内容についてはこちらで書いたので省く。コマ割りという点だけでいえば、日本の漫画に分があるが、それでもここにはある種の詩情が宿っている。

夕飯は、鶏モモとししとうのオイマヨ炒めと、キャベツの塩昆布和え。昨日の白菜トマト煮にはチーズを足してより欧風にする。赤とんがスープにしみわたって辛い。肉じゃがの残りも、母の漬けたかぶのつけものもあり、食卓が豪華だ。調子に乗って食べすぎてしまった。

ラジオ。食べすぎの所為かお腹が張って発語に支障がでた。こんどから放送の日はひかえめにしようと誓った。今回はわりと濃いめの話ができたのではと満足している。のどをつかったことによる錯覚か?


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今朝も妹がさわいでいるのでめざめる。友人が遊びにきているのだ。無職の兄がぬうっとリビングにやってくるのを見て彼女たちは何を思ったろうか。茶を飲みつつ、妹らはでかけていったので昨日ののこりで食事を済ませ、鬼(?)のいぬまにPCにむかって制作をはじめる。ふたりの会話をきいていて、声音というか、しゃべりかたというか、発声が似ているなと思った。『コンビニ人間』で、そのときに身のまわりにいるひとたちの趣味や語法によって自らもそれに擬態する、というような話があったが、そんなことを思った。影響受けつつ与えつつ、わたしもこれからしばらく家族のなかで純粋培養されてにんげんが変化していくのかもしれない。

夜、豚肉と白菜の味噌柚子胡椒炒め煮。柚子胡椒は香りが飛ぶのでしあげに入れるのがポイントです。味噌も飛ぶ調味料ですが、今回は柚子胡椒のほうに主張してほしかったので構わず先入れします。

食後も制作のつづき。霊感がビリビリ到来し、いい具合の案ができあがる。いちにち寝かせて様子をみますが、これで決まりかな感がある。ところで、デザイナが案件を引き受けてデザインを提案するタイミングで、いったい何案がそこにあるべきなのだろう。誰だかのインタビューで、わたしは一案しかだしませんというデザイナがいて、そのやりかたはいいなと思ったのだが、そうするだけの説得力がはたしていまの自分にあるのかと身を振りかえる/加筆:おれたちの菊地敦己だった。「最初から何案も出して分散させていくより、ひとつの「これだ!」という案を作り込んでいくほうがいい。だって「一応、明朝とゴシックと両パターンご用意しました」とか、バカみたいじゃないですか(笑)。そのどちらが良いか決めるために、僕らは呼ばれてるわけで」「定食屋で天丼とカツ丼と両方出してもらってから、どっちを食べるか決めよう、みたいな話はあり得ないじゃないですか」(CINRAのインタビューより)。首がとれるほど同意する。「バカみたい」なことをやってしまいがちだが、おれもひよっていられねえぞ!

洋梨に語りかける前に

みっつ、ならんでいる。コルクボードの上で、それぞれが、それぞれの時間を通して、熟すのを待っている。深夜、だれもいなくなったキッチンで、わたしは谷川俊太郎の名づけたすばらしい書名「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」を思いだす。

お昼前に目覚め、昨日ののこりの春巻きをおかずに食事を摂る。乗代雄介の『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を150頁ぐらい読む。おもしろすぎる。Hさんのユーモアと通ずるところがあると感じるのは、ふたりの源流に松本人志がいるからなのだろうか。彼の全盛期をあまりしらないので、その波にいつか打たれてみたいと思う。わたしにはお笑いに対する興味の薄さがある。それでも去年だかはゆーちゅーぶ経由でちょっと観るようになって、金属バットとシンクロニシティ東京ホテイソン、インディアンスあたりが好きになった。追ってはいない。

ゆで卵をパクつきながら冷蔵庫の中身をながめ、今日は芋と牛肉をどうこうしたやつと、白菜でもトマトで煮てみるかという考えをあみだす。夕方まで読書を継続し、創作をのこり70頁ほどというところで本を閉じ、洗いものをして調理にとりかかる。そういえば今日も階段ののぼりおりをした。昨日よりふた往復増やして、ぜえぜえはあはあと荒い息でリビングをみたした。まいにち微増させて100往復まで増やしていく。部屋の冷えこみがきびしくなってきて、髭を剃るのはもうやめよかなの境地に達しはじめる。芋のほうは玉ねぎを足して肉じゃがもどきになり、白菜のほうはそせじも入れて。前者は胡麻と黒胡椒を、後者はオレガノとローレルも投入している。どっちも美味だが、とくに肉じゃがは花まるの出来。肉じゃがはあまりつくった記憶がなく、ちいさな頃にも食卓にのぼることが少なかったような気がする。


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食後は制作のための素材あつめ。けっこうよさそうなのがいくつか見つかり、霊感もちらちら到来する。イメージがよりかたまってきたら実践に移る。手うごかし型と、事前イメージ型の何がそれをわけているのだろうと思った。すでにモチーフがかたまっているかどうかのちがいか? かたまっていないときは、手をうごかしてその輪郭をたしかめるのかもしれない。いまは自分の方法論を見つめなおす時期でもある。4つのグラフィックシリーズの制作を中心に、いろいろわかる&できるようになればいいですね。

日をまたいだ頃合には、気分転換に歌詞を和訳して英語の勉強。シネイド・オブライエンのときと同様に、バンド紹介とともにまた記事にします。この記事がでた翌週あたりにあっぷされるでしょう。これをくりかえしていればすこしは読み書きできるようになるかしら? なりたいわ。スラックでやりとりしている友人は有料アプリまで導入して英語の勉強をやっていて気合がちがうわねと思ったわよ!