なんどむすんでもほどける紐

通退勤のとき、自宅にいるとき、あるいは休みの日に持ち歩く本がそれぞれちがう。6-7年、シュリンクもやぶらずに積みっぱなしだったいがらしみきお『I』を寝るまえに1巻だけ読む。最愛の漫画雑誌『IKKI』で読んでいた話もふくまれており、ノスタルジーを感じながら頁をめくる。いい絵だなあと思う。

青山目黒で田中功起展、金柑画廊で伊澤絵里奈展を観る。その足で祐天寺を経由して渋谷へでる。パルコのギャラリーエックス(移転したのしらなかった、そこまでリニューアルとともなっていたんだ)を観たのちmodiへ。さまがわりしていたとはいえ思っていたよりも廃墟感はなく、1-2時間じっくり滞在しエポスポイントをばんばか使って文庫ばかりを6冊買う。洋書セール70%オフはアツかったが、アート関連のめぼしいものはすべてセール対象外で萎える。詩歌の棚に最果タヒ✕青柳いづみの詩のレコードがあったのでちょっと迷ったがやめておいた。どういうときにかけるのだろうかと躊躇してしまったのだった。

映画を観てかえってもよいが、本が読みたいのでそのまま帰宅。ちなみにこのごろの土日はグレイソン・ペリー『男らしさの終焉』を持ち歩いている。読みながら考えているのは会話における「マウント/マウンティング」のことで、書中では男性性の表出例として扱われているが、いったいどこからどこまでがその範囲に含まれるのかがよくわからない。たとえば、好きなものの話ーー映画でも漫画でも小説でもなんでもよいがーーをしているとき、少なからずそこに張られた見えない縄を、わたしたちは跨いだり踏みつけたりせざるを得ないのではないか。その前提をおたがいが踏まえた上で、相手のことを思いやりながら対話していく。さもなくば、つまらない会話だけが支配する世になってしまう……というのはいいすぎかもしれないがカルチャーの話なんてのは(意識的か無意識的かにかかわらず)マウントありきでしか発語できないのではと思ってしまう。これはジェンダーに直結した話としてではなく、「マウント/マウンティング」概念にまつわる話として書いている。

さむいさむいキッチンで寒ブリを照り焼く。うまい、うますぎる、感動的なうまさ、、つけあわせはえのきの生姜炒め、クラッカーとブリーチーズ、いぶりがっこタルタルもつまみとして。カルディで買ったこのいぶりがっこタルタル、マジであたりだよ。同じくカルディのベルギービールをひと缶あけたのち、これまたカルディで入手したフランケン ミュラー・トゥルガウ・カビネットというかわいいボトルの白ワインをあける。うまい。トゲのない飲み口でがぶがぶいけてしまう。


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日々の節々でふりかざされる「普通」や「常識」や「当たり前」につぶされないために、わたしたちはあらがいの作法を身に着けなければならない。みんながみんな、好きなものを好き好きラブラブやってるだけで人生なんとかなるような世のなかにしていきたいよな、、

散歩しにゆきたいというきもちがふくらんでいる。長い散歩、2時間くらい、しらない街を、しらない公園や森まで。