厳密さをくいしばる

ふとはずみのようにでてきた浅はかなーー浅はかである、と発話者が一糸も思い至ることのないようなーー発言に対して、その一言一句を厳密に思考し、適切な「返事」をあみだそうとする際の「コスト」は、何らかの「便益」を生みうるのだろうか。コストだの便益だの功利主義的な考え方で、書いていてくそくらえというきもちになってくるが、相手に負担を強いるコミュニケーションにさらされていてとても疲労している。なにかを伝えることも、受けとることも、ともに労力のいることである。そのたいへんさをわたしたちはしっているのにもかかわらず、意識的か無意識的かを問わず、重荷を相手に押しつけてしまいがちである。同じような陥穽に蹴つまづくたびに、わたしは自己嫌悪におちいる。

そもそも上述のような会話においては、話者のコードのちがい自体がたがいにとっての負担になる。言葉を扱う際の厳密さと疎漏さは相容れない。かといってその厳密さを手放してしまうことの欺瞞にわたしは耐えられない。何よりもまず自らをあざむきたくない。己に忠実でありたい。そのことが、労働中の、このようなことに加担していていいのだろうかという疑念や、いったいおれは何をしているのかという呆れにつながってくる。先日書きつけた自らがデザインしたパンフが配布される映画祭に行きそびれたことと同様に、先月マニヘブのチケットを紙くずにしてしまったことは、心臓が止まるまで脳裏にきざまれるだろう。「働け男達よ 戦う病んだ魂」。正直なところ、もうやめたいという思いが肥大化している。薄給激務、やりがい搾取。男尊女卑、日本万歳。つらいことだけではないが、あまりにも、と思ってしまう。

ただ、そうのたまうだけで、げんじつにはこの足枷を解くことはできない。金がないからである。乗りきるだけのたくわえが、いっさいないからである。なぜ、こんなにも貨幣にしばられていなくてはならないのか。なぜ、このどうしようもなさを金でしか解決できないのか。あらゆることに対して、どのようにして回路をつくればよいのかわからない。あらゆる「あなた」に至ろうとする慎重な手つきが、疲れによって粗雑になっていくの感じている。積みかさなる労役が、対話のめんどうくささを引き受けることをひじょうに困難にさせる。この先、わたしは、どのようにして厳密さをくいしばることができるだろうか。


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読んだ本の記録を今年はつけようと思いたち、毎月読みおえた本の写真をインスタにあっぷしていたのだが、あたりまえのように頓挫した。三ヶ月。ようやったよ、おれ。ほめたたえるよ、おれ。継続するちからをください。直近でいうと、7月はフリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』を読むことができた。過疎化によって滅びた僻邑の、じわじわと朽ち果ててゆくさまが、さいごまで村にのこった男の独白で淡々と語られる。くりかえされるきびしい季節の猛襲と、次第に立ちこめるいくつもの死の記憶。とどまりつづける「私」をさしおいて、ひとり、またひとりと住人が去っていくさまに、息の詰まる思いがした。リャマサーレスはスペインの作家であるが、もしかするとわたしにとってはじめてのスペイン文学かもしれない。ずっとラテンアメリカの作家だと思いこんでいた節があるし、なんなら先日ほなみさんに読みましたよと伝えたときにラテンアメリカはサイコーだと口走った記憶さえよみがえってきた。つぎはペレーヴィン『恐怖の兜』ぶりにロシア文学読むぞと息を巻いているのだが、ドストエフスキーの『悪霊』にしても、ソローキンの『青い脂』にしても、そのぶあつさにおののいてばかりいる。

解決不可能性に突きあたったとき、そこに生じるのは〈文学〉である、と先日手帳に書きつけた。言葉は困難の上を走る。その速度に追いつけるか、きみは。