断てぬ愛

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はてなダイアリーを開設していちばん最初に書いた記事のタイトルは『じいちゃんが脱糞した』だった。2010年の12月に書いたのでもう8年半ほどになる。そんな祖父が今朝死んだ。先々週にお見舞いに帰ったばかりだった。父方の本家が実家と距離的にちかいこともあって、葬儀には幼い頃から多く参列してきたが、いっしょに暮らしていたひとが亡くなるのははじめての経験だ。まだめざめるまえの、父からの複数の着信履歴をみてわたしはすべてを悟り、起きたと同時にかかってきた母からの電話でそれを再認した。家をでるにはまだはやかったが、自宅にいてもどうにもならないのではやめに出社し、はやめに退社した。わたしよりも祖父の歳にちかい会社のひとたちは、わたしにとてもやさしかった。

斎場に横たわった祖父の顔は、歯の大半が抜け落ちてしまっているがために口もとが落ちくぼんだようになっており、戯画化された月の横顔を思わせた。あげたばかりの線香の、けむりのたゆたいのあいまからその顔をのぞきこみ、もう喋ることが叶わないのだと思ったときにはすでになみだがこぼれていた。わたしの背を抱く祖母のしめった声も、肩のふるえを増させるばかりで、しばらく声を殺して泣いた。家族のいる部屋にもどって昼食をとり、納棺のあとはほぼ10年ぶりに会う叔父とビールを注ぎあい、わらった。

祖父にとって、わたしは初孫である。2歳か3歳の頃、四国に住んでいた祖父に会いに行ったとき、わたしははじめて会うというのに祖父の胸もとに一直線に飛びこんでいったらしい。とても寡黙なひとで、生前言葉を交わしたことは少ないが、ふりかえってみれば、何かと目をかけてくれていたなと思う。そのようにして祖父がわたしに愛情を向けるのは、はじめて会ったときの抱擁がうれしかったからだろう、と祖母や母が話すのを聞いたことがある。わたし自身にその記憶はなく、幾度も聞かされたその話の情景が、ねつぞうされたものとしてあたまに焼きついているだけである。


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死者に素手で触れるのも、はじめてだったように思う。お見舞いに行ったとき、祖父は呼吸器や無数の管を身にまとい、ひとこともしゃべることができない身体となっていたが、それでもわたしがそばに座ると、布団をゆっくりと押しのけて、左手を差しだしてくれた。もう身体が弱りきっていることがわかる速度でのばされたその手は、管を外さないように厚手のミトンにくるまれ、手を触れあわせることができない。わたしはミトンを両手でつつみ、なだめるようにその繊維をさすった。布ごしに体温が伝わる。さいごに触れた、棺におさめられた祖父の手は、おそろしくなるほどにつめたかった。いっしょに来ていた祖母と母が「じいちゃんはだれが来たかちゃんとわかってんのかな?」とうしろで話すので、「わかってるよ」とムキになっていいかえす。「ねえ、じいちゃん」と呼びかけると、祖父はゆっくりとまばたきをくりかえし、わたしの声に応える。思わずなみだがおちそうになる。

祖父と祖母は長らく離れて暮らしていたこともあって、あまり仲がよくなかった。そんな祖父母といっしょに暮らしていたのは、祖父が四国の家をひきはらって福島に帰ってきてから、わたしが上京するまでの10年ほどである。わたしはその間、いいあらそうふたりの声をなんども耳にしているし、ささいなことでもめているすがたをよく目にしている。しまいに祖母は、なにごとにおいても相容れない祖父に愛想が尽きたのか、あまり家に帰ってこなくなってしまったほどである。

その祖母が号泣していた。おおきな声をあげて、「おとうさん、おとうさん」と呼びかけながら、なみだをながしている。棺のなかに花を詰めながら、声にならないさけびをあげている。火葬炉のまえで、わたしがいちども聞いたことのないような愛のあらわれを、別れの言葉を、ふるえながら伝えている。なによりも、そのすがたになみだがでた。祖父が死んでしまったこともかなしいが、祖母のその想い、そこに至るふたりの歴史、そしてのこされた祖母のきもちを考えると、やりきれない思いになる。ほんとうにかなしい。ほんとうに、かなしい。これを書いているいまもなみだがとまらない。みんな死んでほしくない。だれにも死んでほしくない。