海にゆけば物語は解決する

美術館やギャラリーで映像作品を鑑賞する際、ひとつの画面と複数のヘッドフォンが用意されている場合がある。その光景を観察していると、基本的に映像作品というのは鑑賞者に見向きされにくく、目を向けたとしても耳を向けるひとは少ないので音のない画面をちらとながめる程度で感受の時間がおわっている場面によくでくわす。わたしは映像というメディア自体が好きなのでヘッドフォンを手にとるが、わたしが取ったところでだれもあとにつづかないこともよくある(これはヘッドフォンの個数が少ないほどよく起こる)。わたしがいま興味をもっているのは、そのヘッドフォンを耳にあてた観客のあいだに生まれる、作品を通したひとつの関係性である。同じものを観ているという状態は映画館でも起こっていることではあるが、ヘッドフォンという個人のための道具と、劇場に比べたときの画面のちいささは、映画館での鑑賞体験とは異なるある種の親密さをかたちづくる。

かといって、そこに会話が生まれるなんてことは早々起こらない。わたしは電車で偶然隣り合ったひとと会話を始めたりしないし、街なかで見かけた好きなバンドTを着たひとに話しかけたりしないし、上演や上映後の質疑応答の場で手や声を挙げたりしない(たまにがんばってする)。こうした「ともにある」ということが前景化する場面で、何らかの弾みでわたしたちのあいだに新しい線が引かれるのならば、それほどたのしいことはないではないか。

過日kanzan galleryで観た「ふたりとふたり」展は、いま挙げたような線とはまたおもむきが異なるのだが、「作品を通した(幸福な)関係性」を見とることができ、よい心持ちを得た。倉谷卓・山崎雄策(いつだかの写真新世紀で発表されていた「(佐藤 愛)」シリーズの冊子が売っていたのだが買えばよかったな、、)のユニット「THE FAN CLUB」と、喜多村みか・渡邊有紀コンビによる、「ふたり」と「ふたり」からなる展示で、とくにわたしの目を引いたのは後者の作品だった。

ともに82年生まれの東京工芸大出身の作家で、「TWO SIGHTS PAST」と名づけられた作品は、おたがいがおたがいを撮りあうことによって生みだされたものである。今回の展示では、2003年から2019年までの記録が、各年一対のプリントと、現在から振り返った短いコメント、写真をまとめた小冊子によって概観できるようになっており、鑑賞者は主に観るというよりも読むという行為を通してその時間のなかを歩いていくことになる。冊子に印画されているのは、喜多村が渡邊を撮った写真と、渡邊が喜多村を撮った写真だけである。ページをめくるわたしたちは、20年ちかい年月をあっという間に追体験するわけだが、毎年毎年くりかえされる撮影という行為が浮かびあがらせる「カメラ-写真を通したふたりの関係性のあり方」がとてもうらやましいなと思った。そうした関係性をわたしももちたいのだと気づかされた。ひととひとがむすびうる関係性は、何も言葉や身体を通してだけではない(書いていて思ったのだが、はたして言葉や身体は「直接」なのか?)。何らかの媒介を通して、線をむすぶこと。先の例でいえば、映像作品という中継地点を通して、わたしの理想的なかたちで言えば、自らの詩書を通してまだ見ぬあなたとつながること。わたしという存在の外で、わたしの言葉がだれかと関係をむすべるというのはとても夢があるなと思う。ロマンティックだ。自らの埒外で、自らが作用しているという状況にわたしはあこがれがあるのかもしれない。思考はこのまま脱線しつづけるのでさいごに展示の話にもどっておくと、1年だけおたがいがおたがいを撮った写真がいちまいもなく、白紙の冊子が置かれている年があるのだが、そんな余白もまた関係性に風通しのよさを生んでいるようでいいなと思った。


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今週末です、よろしくね


GWはほぼまいにちシネマとギャラリをめぐった。観たなかでは、なんといってもフィリップ・ガレルの『救いの接吻』がほんとうにすばらしかった。予期せぬところでこうして生涯ベスト級の作品に出会えることがとてもうれしい。観おえた直後のツイッタから引用しておくと「救いの接吻、たしかめの映画だ。わたしたちは何かをつなぎとめるために、幾度もその糸をたぐりよせる。切れ味しかない言葉の応酬と、ささやかな音と光のみちひきによって語られる愛=物語の明滅。摩擦する夫婦の先を無邪気にすすむルイが天使すぎる。尊厳なんて愛の前では無意味でクソだ、サイコーか!」。

わたしのなかでガレルはさほどおおきい位置を占めている作家ではないのだけれども、本作に関して言えば相当な刺さり方だった。ツイートにも書いたが、モノクロームのフィルムに光のみちひきがすさまじい美しさで焼きつけられていて、それをおさめるカメラワークも徹底してドラマと併走するフレーミング(これについては、反物語派としてやすやすと賛辞を送るわけにはいかないのだが、画と語りのあざやかな一致とその効力を見逃すわけにはいかない)をたもち、なおかつその画に対して無駄な音はすべて省かれている。そうした周到さがまざまざとわかるファーストシーンの長回しからしてびりびりきたし、詩人であり小説家でもあるマルク・ショロデンコが手がけたダイアローグがまあキレキレなのである。だのに、映画が言葉に負けていない。自分の家族を撮影して、こうした映画が生みだせるっていうのはほんとうにすごいと思う。同様にガレル自らのプライヴェートが色濃く刻印された『ギターはもう聞こえない』もつづけて観たが、こちらはそうでもなかった。

イメフォで観逃していたロブ=グリエも観た。早稲田松竹はすごく久しぶりで、何以来だろう?(2014年の『オンリー・ゴッド』と『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』?(え、5年も行ってなかったの!?(ほんとうに? 立ち見券配っててびびったよ(なんとか座れた、となりのおっちゃんがクチャラー(ガムタイプ)でどうしようもなかったけれど、、)。『快楽の漸進的横滑り』(サイコーのタイトル!!!)と『エデン、その後』の2作品。先日のユーロスペースでの特集上映に行って以来、オープニングが鬼のカッコよさを放つ作家としてファスビンダーがわたしのなかで君臨しているのだが、彼もそれに比肩するクールさだった。話はぐちゃらちゃらでどっちも途中夢のなかに沈没してしまったのだが、海にゆけば物語は解決するんだよな。海は広いな大きいな。

はじめて行く場所もけっこうあった。イメフォの3階でフィルムの上映会(イメフォ自体はよく行くのに3階は初めて行った)、小岩ブッシュバッシュでE.S.Vのライヴ、つつじヶ丘アトリエで新聞家『屋上庭園』、恵比寿KATA(リキッドルームにこんなとこがあったなんて!)ですぎさんの展示(MIA2019)、634展示室で楢崎萌々恵展(わが故郷会津(と言ってもひろいので生家からはずいぶん遠くなのだが)で「バーバリアン・ブックス」というイカしたお店をやっている、まだ行ったことはない、というか1_wall出身の作家でもあるのだな、、)、美術愛住館でアンドリュー・ワイエス展、マリーエンケーファーで清水さんの展示……。この未知の場所に行くちからが衰えたときに、おれはおわりをむかえるだろう。新旧で迷ったらnewを選べが去年に引き続き今年のテーマのひとつです。

つつじヶ丘アトリエは、家から徒歩1時間弱くらいの距離だったので、散歩がてら歩いて行った。道中、いいぐあいの公園(祖師谷公園)や、宗教施設と見紛うようななぞの建物(マヨテラス)などに出会えてよかった。もっとよかったのは、どうぶつえんでしりあった山本さんが客席にいて、終演後に仙川でお茶とご飯をしたことだった(いかしたネオンのとんかつ屋!)。お会いするのが二回めだというのにめちゃくちゃ長いあいだおしゃべりをつづけて、高揚したきもちで帰りも歩いて帰ったのだった。街のなかで偶然に出会うこと、これもまたわたしの好きな関係性のむすびかたである。