ききのがした火花の潜熱

人生初のトークイベントをおえた。思っていたよりもべらべら話せるなとしゃべりながらも調子づいていたのだが、聴衆にはみしったひとが多く、場自体もかぎりなくみぢかな会場であったため、そんな状況であれば誰しもがすらすら言葉を口にするだろうし、せっかく登壇してもらったゲストを差し置いてひとりで語りつづけてしまって、反省しきりの翌日をむかえたのだった。

トークの姿勢としては、場のなかに問いを芽生えさせつつもエンターテインをこころがけたつもりでしたが、ちゃんとできていたのかはこころもとないですね、、ただこの話している際の話者-聴者の関係性におけるベクトルがすごくおもしろかった。観客の沈黙によってむかえうたれる孤独の話法が、そこに内在する何らかのre-action(わらい、おどろき、怒り、かなしみ……)をもとめるちからの作用によって変形を強いられ、話のすじみちが左右されていくのである。そんなのあたりまえだろといわれるかもしれないが、この1+1:多のトークという形式はそのことをつよく思い起こさせるのだった。だって観客に対して語りかけているのに言葉が返ってこないんだぜ? さびしいだろう? ひとは他者のまなざしなしにひたすら話しつづけることは可能なのだろうか? そんなことを考えてしまう。権力の機構、おそるべきパノプティコン……。

というか、もっとゲストとむきあってしゃべればよかったのかなといまこれを書きながら思い当たっている。内輪のもりあがりになってしまったらやだなと思って観客の方にせっせとはたらきかけをしていたのだけれど、それにしたって観客にばかり意識が向いていた気がするな、過去に見てきたトークなんかを思いだしてみると登壇者の会話だけでもけっこうおもしろかったものがあった気がしてきたな、こういうところにまで気がまわらないのがほんとうにだめですね、次回に活かしてゆきたい……、しかしまあだんだんとそんなことを悠長にいっていられる年齢じゃなくなってきたんだよな、いまだに自分の年齢が信じられないんだよ、おれがちいさいころに思っていた27歳はもっとおとなだったよ(おとなになんてなりたくはないのだが、


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終了後のパーティはけっきょく日が変わるくらいまでじんわりとつづいたのであった。あまり話せなかったひともいてざんねんだったけれども、すこぶる充実の一日。ゆえの翌日の空虚感がすごい。さいごの友人たちを送りだしたあと、疲労と高揚がないまぜになった感覚につつまれながらひとりになったときに空き缶の山を見ると「つわものどもがゆめのあと……」ってぜったいに脳に浮かんでくるんだよな。このさびしさが好きだ、どうしたって訪れるパーティのあとの憂鬱、post party depression...(いい言葉だなあ!(そんなメランコリーの布団のうえ、スピッツの1stが五臓六腑にしみわたってゆくぜ(ひさびさにかけたけど名盤すぎないか??