無言のくぼみに触れるゆび

痛い目をみないと学べない。これはあらゆることに対して言える。たとえば、「胆力をつけるためにはいちど痛い目みないとだめかなと思いながら、じっさいにそうした出来事にでくわせば萎縮してそのままやる気やら何やらが消滅するルートもあるよな、と逡巡しているうちはどうにもならんわけですわ、生きるのはむつかしい!」とか考えたりするなかで、でもやっぱり踏みださなきゃというところに至る思考の流れ、その筆跡を幾度もなぞっていく、足をだして後悔なんか大抵の場合はしないんだよ。愛すべきやったれいったれ根性。これまた実感の話になる。おれはいわゆる実存主義系の本を読んだことはないのだが、どんどんそっちの方面へと思考がかたむいていく気がする。先立つ我のきょうれつな輪郭。


f:id:seimeikatsudou:20190225234731j:plain
デザインをすすめています


毎年のことだが、春めいてくると心底憂鬱な気分になる。風景から殺伐が消えてしまうことにおれはたえられない。身を凍てる荒ぶ風にこそひらめきの機をわたしは感じている。すべてがくたばってほしい。瞬間瞬間の殺意をひとつひとつ抱きとめていたい。自暴自棄をきちんと飼い慣らすこと。そんなことでいいのだろうか?

町屋良平『青が破れる』がありがたいことに文庫化したので読んだ。「ボッキした?」という台詞によるシーンの切断-接続、ひじょうに感銘を受けた。こういうことなんだよ。ほんとに。

2月末、あらゆるやる気が削がれていく。こんな体たらくのまま27になってしまうことがおれはとてもつらい。気炎を、無駄口を、死ぬまで一生吐きつづけたい。