エフェクト処理の日

 その日は万歳をして終わった。あたまのおかしい上司といっしょにしごとをすることに慣れきっていたわたしは何の感慨も抱かずに万歳をした。三唱あまって四勝よとカツ代は自慢の前歯をケタケタさせながらみじかい両腕を高く掲げ、引っ張られたスーツのはげしい皺を全身に纏う。とくに目尻が過激だ。カツ代の万歳は高くといってもわたしの背丈に届くか届かないかくらいの高さで、そのちんちくりんな格好は、辺境の道の駅の土産物ショップの片隅などに置いてある貧乏くさい土人形のように思えてならない。わたしは顔面に張りついた笑顔を冬の空気のなかにとかしていきながら、待ち合わせの書店へと足を速める。
「えい」
 骨を軋ませたような嗄れ声とともに、GINZAを立ち読むわたしのあたまのうえに手が乗った。鋭慈だ。
「遅い」
「や、残業で」
 わたしたちは肘や手でたがいのからだを小突きあいながら店をでていく。愛情のこもったからかいが、ビシバシといきのいい音を立ててダウンに吸い込まれる。さほどつよくもない平手によろめく鋭慈がおかしい。横断歩道の手前で信号が赤に変わる。わたしたちは歩みを止める。今朝オフィスから初雪が降るのを見たが、いまは降っていない。
「今日ゆき降っとったよね」
 目の前の道路をはさんでそびえたつビルに備えつけられた、おおきな広告ディスプレイに映るスキー場の雪景色を見て鋭慈がいう。ゲレンデの上をカラフルな点々がすべっていく。
「そだね」
 自らの肺から発される白い息の律動が真新しく思えて、わたしは呼気をつつむように掌を口の前に寄せる。
「さむいね」
「うん」
「Paolo!」
 左隣から怒声が飛ぶ。マフラーとの摩擦をすこしわずらわしく思いながら首をひねると、白髪の西洋人が道路に飛びだすところだった。のびた手足がヘッドライトの光線を遮ってまぶしくなる。激突、ブレーキ音、硬いアスファルトにするどい亀裂が入るような。
「え」
 鋭慈の口からまぬけな音がこぼれる。わたしはそれをこの手でつかまえたいと思った。わたしがこれまで出会ったなかで、いちばん好きな声かもしれない。そう思ってわたしは鋭慈に惹かれていったのだが、いまこの場所で発された「え」は、凍った妖精の羽根で冬の湖を叩いたような、そんな質感をもった、ほんとうに、唯一の、ひびきだった。
「あー、ちょい離れよ」
 事故の現場のど真ん中に立っていたわたしたちは、やばい事故死んでるひと死んでる救急車救急車ヤバイヤバイいまひとが轢かれてるとこ見ちゃってさーうわーきっつつらやばおいじゃまだよすみません交通事故だってさという騒々しい雑音のなかを一歩一歩分け入りながらすすんでいく。起きた出来事よりも、その周辺に生じるいくつもの出来事が、もとの出来事のかたちを決めてしまうのだろうか。鋭慈に手を引かれながら人混みを抜ける頃、わたしはサイレンの音が近づいてくることに気がついた。この音もわたしの好きな音色の一つだった。
「あの人、パオロ! って叫んでたと思う」
「パオロ?」
「うん、ひとの名前か。もしくはペットか」
「パオロっていうと、イタリア?」
「たぶんね」
パゾリーニだ」
使徒パウロかも」
「ウになってるじゃん」
「ウにもなるんだよ。ていうかもともとがウ」
「へえ」
「ウニ食べたい」
「思った」
 わたしたちは目に止まった回転寿司屋に入店し、席に着くなりウニを八貫も注文した。ぜんぜん美味しくなかったのでわたしは一つの半分だけを食べ、残りは鋭慈にあげた。彼は渋々それをガリとあがりでベロに茶々を入れながらつまんでゆき、マグロ、マグロくださいと板前に声をかけている。その姿をわたしは隣で眺め、さっき「パゾリーニ」といったときの濁音のふるえにエフェクトをかけたいと考えていた。
「案奈、他には?」
「わたしはウニが食べたかったから」
「あ、そ」
 鋭慈はお茶をすすり、マグロを受け取る。
「じゃあ、何食べるよ?」
 赤身を一口で平らげながら、彼はこちらを見る。わたしは、流れてくる皿の裏側を一枚一枚めくるように自らの感情のありかを点検していく。わさびがきいていたのか、鋭慈は眉間に指をあて、ものすごい顔をしてわたしの返事を待っている。わたしは、待て、と口にはださずに念で伝える。伝えようとする。
 そこにエフェクトがかかって、わたしの思考がバーストする。皿が飛び、酢飯が舞う。入り口の自動ドアに穴が空き、白いものが吹き込んでくる。
「あ、雪」
 発声すると、ファズを踏んだような歪みが空間を満たして、鋭慈はけわしい顔をしたままドアの穴に吸い込まれていった。わたしの食べ残したウニがそれにつづき、酢飯まみれになった板前や、カピカピになったイカやエビやサーモンなども同じように闇に消えていった。うねうねでジャギジャギになった世界がわたしの視聴覚をグワグワに埋め尽くし、なんだかひとむかし前のドラッグムービーみたいだと思う。
 わたしは自分のほおにいつの間にかはりついていたイクラの粒をゆびでつまみ、こんなときに浮かんでくるのがカツ代の顔だというのが信じられないと殺意を込めて勢いよくそれをつぶした。途端、パッと世界が赤く染まり、わたしは昔本で見た半跏思惟像のような姿勢のまま中空をざらざらと漂っていた。しゃがれてつぶれきった念仏があたまのなかとそとをわけへだてなく流れている。わたしは涅槃にいるのかもしれない。