情感の適宜

実感の話をした。いざそこから歩みはじめるのはいいのだが、何がわたしを騙すのかと問われればまさにその実感が最大の黒幕なのである。かつてわたしは1_WALL展でのステートメントに「自らを信頼し、自らに忠実であろうとするわたしが、わたしの正しさを信じないままに」と書いたが、この立ち位置を維持しつづけることは相当な困難なのである。ひとは宙吊りに耐えつづけることができない。宙吊り状態とは換言すれば自由である。わたしのなかでアナキズムが強者の思想として位置づけられている(この認識においてはたらいているのもわたしの実感である)のは、その自由を求め(られ)ない人間が存在するからである。そこで問題となるのは資本主義下における「主観性の生産」(フェリックス・ガタリ-マウリツィオ・ラッツァラート)であろうか?

ラッツァラートの『出来事のポリティクス』を買ったのと、こんどコミティアにいっしょにでる(本記事末尾で告知します!)おなしと文化資本の話などをしたことが影響し思想脳がはたらきはじめた。関連して渋谷スクランブル交差点でのソフィ・カル上映にはほんとうに萎えてしまった。もちろんあの場であのような映像が流れ、それをみなが見上げているという状況はなかなかにドラマティックで感動的だったのだが、そこにあらわれている消費的な図式と、この上映企画のスポンサーが転職・求人サイトの運営を主たる業務としている「ビズリーチ」であること(きわめつけは映像の合間に流れる広告!)がどうしても受けつけられなかった。ソフィ・カル自身はこの資本に完全にとりこまれた状況についてどう考えているのだろうか。あまりそのあたりを気にしていない美術家なのだろうか。/と苦言をぶつくさしているわたしも「リクルート」運営のページに自らのプロフィールと作品が載っかっていることをよしとしているわけではあるが、、まあそれに対してはブルデューのメセナについての言葉でも引いておけばよい(引け目がないといえば嘘になるが(ただしまちがえてはいけない、敵は企業ではなく「資本の論理/資本主義」である。

個展がおわったら読書会をひらきたい、ともにたたかっていくために。そう、今回の展示は作品とはべつの次元でスペース自体の有効性が試されているのである。そんなわたしの思惑はさておき、展示は3/30までやってますのでぜひおいでください。詳細はこちら。毎週さまざまなひとと作品を手がかりにしながらじっくりと対話できるのはとても心身がうるおうことで、確実に次への思考をうながしてくれています。がんばります。


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2/17(日)、コミティア127にでます。109ぶりのサークル参加です。「夕立コンパイルとvvv計画」というなまえで、スペース「と25a」にて漫画の合同誌を頒布します。ぜひぜひ遊びにきてください! ちなみにわたしの漫画は、本ブログの『ブルー粘土煮るだけ』が原作になっています。小説の漫画化というプロセスが興味深かったのでまた次回参加するときも同様にやってみたいと思っています。