白湯を被る

 会社ではもっぱら白湯飲む係として名を馳せているオレだが今朝出社して自分の机の上に置いてある白の封筒の存在に気づいたときとうとうこの生活にも終止符が打たれ新しい時代の到来またはそこへの突入というようなものを己の人生の節目として考えなくてはならないのかと視線をうごかすことのないまま内心の起伏を上下左右に蠢きながら立ち尽くしていると普段はあいさつも返してこない田沼が後ろから両肩を二回叩いてきて手のひらをずっと乗せたままにしているので何ですかと大きくからだを動かしてその手を払いながら尋ねてみるに矢張りおまえはもうクビだというそのことのぶっといぶっとい輪郭線がはっきりとオレの眼前に立ち上がってきてああ最早これ迄かとうなだれを抑えきれないのだが人間というのは不思議なものでその憂鬱さに足を取られながらも進む先は給湯室でいつものように自分のマグカップを棚から取りだしてポットから湯を注ぐすがたに気づく頃にはきもちが多少なりとも回復していて信じられないと思いながらもこの単純さによってオレはここまで生き延びてきたんだなと感慨深く顎の骨を面の皮ごしに親指と人差し指でつまみ触ってみたりもするのだがそんなのは気休めでだんだんと失意の底知れぬ深みへと全身が沈んでいくのをどうにかして食い留めたいそうした念いはやがて実体を持ったちからとなってオレのかかとをぐいと持ち上げ始め浮足立つとはこのことかとしたり顔でその上昇運動に全身を沿わせていくのだが数々の誤読と誤解によってここまで歩みを進めてきたのだという実感のもとに何かを為すことが重要なのであってその認識のないままに何かを為してもそれは為したことにはならないのだとかつて社長が新年会のあいさつで言っていたなと記憶も浮き上がってきていよいよ走馬灯が光を灯して加速を始めやがったかと一発奮起オレはその場に立ち上がって自分の椅子の上に乗り湯を被る最早冷めてしまったそれは家で浴びるシャワーよりもつめたくてだがしかしこんなところで泣き言をわめいてはいられないこれから新しい旅立ちが待っているのだいくぞチクショーが走っていく悲鳴をあげながらチクショーたちが群れをなして走り去っていく故郷から遠く離れてなぜオレはこの場所に立っているのかと自問する瞬間が人生にはなんども訪れるだろうその度に同じ場所を幾度もほっつきまわって自分が立つ地盤をくりかえしくりかえし踏みかためていくんだよと孫に語る未来像も巨大な歴史のなかでは芥子粒みたいなものでしかなくせめて自分の生に何らかの意味があるのだと宣言するためにオレは自らのクビをここに斬り落とすのであるつまりこれは死に水介錯はいらぬオイ田沼おまえに会うのも今日が最後だ最後に何か言い残したことはないかと普通はオレの方が何かを言うのであろうがそんな問いかけに彼は答えず目の前のコンピュータに文字を打ち続ける文字は読む人に何かを伝える文字は誰かによって書かれたものである文字は空間を埋め時間を超えることができるそんな文字の集合でオレはオレの思考速度をエスカレートさせていくただ白湯を飲んできただけのオレにいまさら何ができるのかそうニヒリズムの縄の上でおどけてみせることだってできるがそんな道化よりもオレはチクショーでありたいただのチクショーではないオレは文字を携えたチクショー田沼の肩を踏み台にして飛んでいくチクショー白湯もいいがパイタンもいいオレは蹄を文明に叩きつけながらその利器をも濫用していく礫を握りしめる手を生やせ何本でも生やしまくれ新たな礫をつくりだす手先や口先を研いでおけオレは来る日も来る日も白湯を飲み干してゆくかつて滾ったことのあるものどもがオレの全身にしみわたっていく。