宙がえるわたしの手のそばに

lily shuのトークイベントにいった。1_WALLでしった作家で、2枚の写真を組み合わせて1枚の写真として提示するスタイルが編集的連接を感じさせて好きだったのだが、今回の展示は1枚で提示するものの割合が増え、そこまでおもしろみを感じることができなかった。プロジェクションをかさねたり、単独の写真内部におけるレイヤー(写真を構成する要素のひとつとして被写体として選ばれている「ジャギジャギに拡大プリントされた壁画」など)も散見されたり、隣り合った写真同士において意味性による接続を図っていたりもするのだが、対談相手である姫野がいう通り1枚の強度でたたかおうとしていないがゆえに物足りなさをおぼえた。

とはいえ、トーク自体はすこぶるおもしろかった。話の内容もちゃんと切り込んだものになっていてよかったのだが、何よりも語のでかた、あらわれかたにとても感銘を受けた。母語が日本語でないことから生じる怜悧かつ軋んだ統語法によって、作品の裏手にあるゆたかな厚みが語られていくさまは、どこか滑稽なのにひじょうに納得がいくものとしてわたしの心をとらえていた(なのになぜステートメントでは魅力が失われているのか、もったいない……)。

話をきいている最中、質感はまったくちがうのだが、多和田葉子のことがあたまによぎった。複数の言語を思考のなかで走らせること、わたしもどうにかして異国の言葉によって自らの言語を攪乱させたいと思った、カナダに対するあこがれがここで召喚される。

トークということでいえば、おもしろさをかたちづくるこの「切り込み」は切り込めるだけの余地があらかじめ話者に準備されているからであって、3月におそらくわたしもトークをするのでちゃんと脳をまわさなきゃと気をひきしめていくスタイル、年末、つまんねとならんようfight fight、


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いちねんのふりかえりの話のつづき、できなかったことをよくよくみてみると9割が金がないという事由によるものだった、この事態におれはぜつぼうするね……金がないことももちろんだが資本によって左右されてるおれの欲望にな、、

金曜日、酒を飲んでゲーしてしまった、しかも路上、友人たちのまえで、生まれてはじめて、、ショックを受けたよ、、翌朝畳のうえにぬぎすてられたスーツのしたに見覚えのない郵便物が出前のチラシなんかとまざって置いてあって、記憶が断片的になるほど酔っぱらっててもちゃんと郵便受けは確認するんだなと自分(というよりも慣習?)に感心した次第、、土曜日は反省して酒をひかえたけれども日曜はまた飲んでしまったよね、、もちろん今日も飲んでるよね、、かんたんにたのしいきもちになれるからといってあまりたよりすぎないようにしたい、来年は(ほんとうか?