ステーキ ヤングだんごむし

 夜の開店時間まではあと30分ほどあった。その日は定休日だったが店先にそのような看板などは見当たらず、よく目をこらしてみれば店内にはあかりが灯っており、ひとまずわたしは入り口のまえにあるベンチに腰をかけて待ってみることにした。この日はわたしの誕生日で、なんとしてもとくべつなごちそうを食べたい気分だったのである。
 しばらくすると、隣にひとりのおんながやってきて腰を下ろした。彼女は鞄から文庫本をとりだし、ぱらぱらと頁をめくったあと、わたしのことをまったく気にすることなく鼻をかみはじめた。脳髄までもがいっしょに飛び出してしまうのではないかといういきおいで、計4回、おんなは鼻をかんだ。わたしの存在がなきものとして扱われているような、そんな感覚に陥り、ときたま咳などをしてもみるのだが一向にこちらに意識を向けることはなく、おんなはまた本の世界へともどっていった。横目で丸められた鼻紙をみると、青緑のどろっとしたねばねばが皺皺になった紙のあいだにへばりついていた。
 思い返してみればわたしの人生におんなが登場したことはなかった。登場したことがなかった、とはいいすぎたかもしれない。堂々と登場したことがない、とでも言い換えようか。とにかく、これまでの人生にわたしの上を通過していったおんなの数はゼロだった。わたしが通過してこなかったともいえよう。そうしてわたしは49歳の誕生日を迎えたのだった。
 唯一通過したともいえる母は、わたしを産んですぐ死んでしまった。落石注意の看板を撮影していた際に手負いの熊に襲われるという不慮の事故に見舞われたのだった。看板専門の写真家だった母は、受胎する前も、妊娠中も、双子の弟とともにわたしを産み落とした後も、日夜看板を撮影するために世界中を飛びまわっていたそうだ。
 父はよく、わたしを膝の上にのせ、母の写真集をめくり、この写真はね、と一枚一枚ていねいに説明しながらその頃の話をしてくれた。母の写真にまつわる無数のエピソードは残念ながらわたしの記憶からこぼれおち、尻の下のとがった膝のかたさのことばかりがあたまのなかに焼きついている。
 父はたまに話をしながら涙を流すことがあった。その理由はふたつあった。わたしの母と、わたしの弟である。弟は生まれつきの肺の病気で、母を追うようにして夭逝した。ほんとうであれば左膝には彼が座り、右膝にはわたしが座って、その対面には母がいるはずだったのに、と父は歯をガチガチさせながら咽ぶのだった。
 そんなやさしい父も、先日老衰で息を引き取った。80歳だった。
 気がつくとわたしは店内の椅子に腰掛けていた。古びた様子がないでもないがなかなか凝った内装で、アール・デコ調の調度品の数々にわたしは顎に手をあててふむ、などといってみたりもした。
 店のなかには鼻をかんでいたおんなのすがたはなく、そもそも人っ子一人見つからない。わたしは立ちあがり、すみませんと声をあげる。
 すると奥の方で、しゃがみこんだとき特有の、小気味のよい関節の鳴る音がきこえた。わたしは唯一おぼえている「ここで大便をしないでください」の話があたまのなかで片膝立ちになるのを見守っていた。やがてそれは両膝を立て、うんこ座りの姿勢になり、当の看板のまえに立派な一本グソをするのだった。もちろん母は決定的瞬間を逃さない。3冊目の写真集の、ちょうど真ん中の見開きに、その写真は鎮座していた。わたしがそのページばかり見るので、本にはすっかり開き癖がついてしまい、もっと大事に読みなさいと父はやさしく諭すのだった。
 わたしはメニューの表紙にうっすらと透けてある〈ステーキヤングだんごむし〉というロゴマークの存在に気づいた。おもてにかかげられていたおしゃれな筆記体の店名とは似ても似つかない、どんくさくて、退色しきった、ダンゴムシをあしらったロゴ。メニューは塩化ビニールにパウチされておりきちんと確かめることはできないが、ここにはひとつの歴史のすがたが刻印されているにちがいない。わたしはその厚み――もの自体はたった一枚の紙に過ぎないがそこに含まれてある年月の厚み――に畏敬の念を抱き、さぞかしここのステーキは絶品なのだろうとよだれがどわどわとあふれだすのを止めることができなかった。ゴクンと音を立てて唾を飲みこみ、わたしはどっかりと椅子に腰かける。
 そのときだった。尻と接触した椅子の角が、父の膝と瓜二つだったのである。それが媒介となってわたしのあたまのなかにひとつの写真が浮かび上がる。そうだ、このロゴマークはあの写真の後ろに映っていたものじゃないか。わたしはだれもいない店内でおいおいと泣いた。帰り道、わたしは無性にさみしくなり、路上に車を乗り捨て、森へ入って首を括った。