葉のかげの、かげではないところだけ

〈葉のかげの、かげではないところだけをあつめたらどのくらい明るくなる?〉

 書かれていた、鉛筆はうすく、ゆびでひとなでしてしまえば消えてしまうような濃さの文字をわたしは見た、机の表面に、わたしの机のうえにそれを見つけた。
「なあ皆原もそう思うよな」
 身を乗りだして都築君が喋りかけてきて、そのゆびが文字に触れるのを、見た、鉛の粉がはだのうえにこなっぽい跡をのこすのを、見逃さなかった、見つめていた。
「え? きいてる?」
「あ、ごめん、」
 わたしは上の空、ではなく指の先、いやちがう、うまい喩えを考えだそうとするのだがあたまには何も浮かんでこず、いいよどんだくちのかたちをかすかに反復することしかできない。
 彼がもういちど「え?」と首をかしげるのをみて、からだの奥底から恥ずかしさがこみあげ、わたしはうつむき、両手をまえに突きだして、めったやたらにぶんぶんとさせる。
「ほら、みんな席に着けー。小テストはじめるぞー」
 ガンジーがプリントをかかえてもどってきた。ジャスト45度、こちら側にかたむいていた都築君の椅子はいちど直立状態にもどり、まえからきたプリントをわたしに手渡すためにまたかたむく。のびてきた手が紙の端に鉛のあとをうすくつけ、その部分がわたしたちだけの秘密のように鈍色にかがやく。
「じゃあ、始め」
 それぞれの名前が、それぞれの筆順、それぞれの筆記音、それぞれの筆記用具によって一斉に紙上に書かれていく。わたしもプリント上部に枠どられた空欄に、「皆原このみ」と人生で何百回目かの書き慣れた自分の名前を書きつける、このHBのシャープペンシルよりもうすい鉛筆で机の文字は書かれていたことに気づき、わたしはプリントをめくってそれをたしかめる。〈葉のか〉と〈たらどのくらい明るくなる?〉以外はさっきの都築君の所作によって消えてしまっていて、わたしはもう消滅してしまった〈かげ〉と〈かげではないところ〉について考えはじめる。
 葉のかげの、かげではないところって、いったいどの部分を指すのだろう。わたしは好き勝手に想像の触手をのばしていく。〈かげ〉なんだから〈かげではないところ〉をそのなかに見つけることなんてできないのでは、とか、たとえ見つかったとしてもそれはもう最初から〈かげ〉ではないよね、とか、〈明るくなる〉も何もどうやったらその部分を〈あつめる〉ことが可能なの、とか。
 わたしはプリントに映った自らのかげを見つけた。ゆびを交差させる。ゆびとゆびのすきまには、かげができない。木漏れ日における、ひかりと、かげの関係を思う。かげなくしては木漏れ日は木漏れ日ではない気がする。木漏れ日を木漏れ日として成り立たせるのは、かげがあってこそだという気がする。
 なんだかカンニングをしているような気分になり、あわててプリントをもとの位置にもどす。わるいことをしてしまった感覚がわたしのからだのうちがわにへばりついて、胸がすこしだけうずうずする。時計をみる。テストがはじまってまだ5分も経っていない。するどくとがった黒鉛が紙を摩擦する音だけが教室にひびいている。わたしもペンをにぎりなおし、問題文に目を走らせる。

〈葉のかげの、かげではないところだけをあつめたらどのくらい明るくなる?〉

「え」
 声がでてしまう。教卓に座りこんでいたガンジーがまぶたをひらき、誰の声かと目を光らせる。となりの結城君は解答をプリントに書きこみながら、横目でわたしを気にしている。錯覚かと思い、目をきょうれつにぱちくりさせてから、もういちど問1と対峙する。

〈葉のかげの、かげではないところだけをあつめたらどのくらい明るくなる?〉

「ええ?」
 こんどは思わずではなく、意識的に声をあげる。なんで机と同じ文が? どうなっているのだ?
「どうした皆原」
 ガンジーが発声源をようやく見つけて席を立つ。結城君がペンを走らせる手を止め、こちらをまっすぐに見る。都築君が椅子を引き、ゆっくりとわたしの方をふりかえろうとする。
 風。
 窓際のカーテンが、一気にめくれあがる。
 それぞれの机からプリントがときはなたれ、きゃあきゃあさわぐみんなの頭上をくるくると舞う。
 そのとき窓の外が、ピカッとひかったのだった。教室のなかが一瞬、もうれつなコントラストの世界に変貌する。乱反射するガンジーの眼鏡。乱反射するガンジーの額。乱反射するガンジーの歯列。炸裂するひかりが私たちのあいだを疾走すると同時に、瞬間的にピタリと静止する。黒と白の、モノクロームの世界。宙に浮いたプリントはその両極端を自らの表裏に焼きつける。まさに、これこそが、かげではないところとかげの集積としての光景だった。わたしはこのとき、世界の真理をはじめて理解した。わたしたちはかげとひかりのあつまりにすぎない。光あれ、と神がいったきもちがよくわかる。わたしは神さまなんて信じていないけれど。
 都築君が飛んでいったプリントを俊敏な動作でキャッチして、なんか、すごかったねとくだけた身ぶりでわたしにやさしく語りかける。うん、すごかった! わたしは咄嗟に、不用意に、純粋なきもちを以て返事をする。岩島先生ぼくのプリントどっかいっちゃったみたいなんですけど。結城君がいつもどおりのとんでもない早口でガンジーに話しかける。が、声のちいささも相まってガンジーはききとることができず、さわぐ生徒たちをなだめることで手一杯になっている。クラスはもはや小テストどころではなかった。みんながみんな、さきほどの出来事に興奮を抑えられない様子で、たかぶった感情をまわりとわかちあってはきもちをさらにエスカレートさせていった。
 ピカッ。わたしは窓の外にもういちどひかりのばくはつを見た。教室のなかの熱狂がそのままはれつしたかのような、あざやかなフラッシュだった。そうしてわたしたちは卒業アルバムの一頁をはなばなしく飾る、とてもうつくしい写真になったのだった。