ネオ・ボルテージ

小説を新人賞に投稿した。よう完成させたよな。122枚。結果は4月だか5月のあたまくらい? かましたいなと思う。豪語豪語。おれはつねづね自信過剰である。

以前しらないひとばかりが集まる飲み会にいったときに小説の話になって、でも本を読むようなひとはその場には少なく、読んだとしてもエンタメ派で(いやべつにそれはそれでいいのだが)、たまたまそのとき鞄に入っていた中上健次(『十八歳、海へ』か『十九歳のジェイコブ』)をしたり顔のおっさんに青いねえみたいな感じで小馬鹿にされておまえはいったい文学の何を、、、とかなしいきもちになったことを思いだした、ちなみにその飲み会はアムウェイへの勧誘のためにひらかれたものだった、おれはアンチキャピタリズムだよ、せめて相手みて誘えよボケナスが!

でもまあ反資本主義反資本主義ってさんざんいってるけれど、日々矛盾を感じてしまうね。現代にそうあろうとするのは引き裂かれの渦中から逃れられないってことだよね。つよい思想/思考はこういう地場できたえられるんだ。

矛盾といえばお金があったら何よりも服に金を注ぎ込みたい。おれは何よりも服がすきなんだ、、週末に好きな服を着て町を歩いてるだけでみたされるものがあるってもんだろう? 平日もスーツじゃなけりゃな、、とつくづく思う、めちゃくちゃに穴のあいた靴で出勤しているのだが、みっともないとわかってはいるのだが、会社のためのファッションに金をかけたくない、ほんとに、心底、かけたくない、、エチュードアディダスのコラボスニーカー、マーカのセットアップ、ニールのベルト、ビルディングブロックのバッグ、、物欲の塊、コエカタマリン


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アナアキイインザフウケイ、新宿の靴のダイワなくなってんの地味にかなしい安くて会社用にはぴったりだったんだ


闘争領域の拡大、文学がイケるタイプならだいたい会うひと会うひとにすすめているのだけれど、だーれも読んでくれないんだよな、、ティスランの背負ったかなしみについてめちゃくちゃ話したいんだおれは、

ジョージアグルジア映画祭あぶない母さん、書くことがセラピーと復讐であるのはわかるのだが、安易なトラウマの昇華という決着が物足りないし言葉に頼りすぎている。突き放すようなカメラワークとぷつぷついうきもちのわるい音響は◎ 感想で散見された「女が書く」みたいな視座から観るのはジェンダーバイアスの強化にしかならないのではと思う。

で、このジェンダーバイアスの強化ってさ、言及すること自体がそうなってしまうジレンマを含んではいないか? そもそもが女性の発言権もしくは発言が存在できなかった非常に抑圧的な時代/状態から比べればもちろんよいことなのだろうとは思うのだけれど、、

荒天へ、好転へ!