反意の道順をふりかえりながらうろうろする

「KくんとFくんはいつも著者の考えとは反対のことを書くよね」

細かなところまではおぼえていないが、中学校時代、国語教師が授業中に発した言葉だ。Kくんというのは当事わたしがよく遊んでいた友人であり、Fとはわたしである。教科書やテストの設問としてよくあらわれる、「筆者の考えをまとめてそれに対する意見を書きなさい」に対する姿勢がそこでは俎上にあがっていた。いわれてみればたしかにそうだなと思い、えへらえへらと愛想笑いを返したのをおぼえている。

いまでこそ反発・反逆・反抗といった「anti-」の思考はわたしを成立させる骨子であるとの自覚があるが、当事から意識的に反旗をひるがえしまくっていたわけではない。とはいえ、反意の発露は教師が指摘するように無意識的にはおこなわれていたはずで、それがどんどんこじれていっていまのわたしがあるわけである。マイナー志向に伴うカルチャージャンキーへの邁進や、ネットへの傾倒だってここに淵源をみてもいいかもしれない。革命や反体制的なものに惹かれるのも、ここにルーツを発見することができるだろう。このO先生の発言を受けて、わたしのなかの「反」ははじめて認識され、その認識をふまえることによってより強固なものとなった。そういうことができる、と当時の年齢からおよそ倍となったいまに至って気づいたのである。

だがいったい、この反発はどこから生まれたのだろうか? その問いに答えることができるようになるのはどうやらまだまだ先のことのように思える。「O先生の発言を受けて、わたしのなかの「反」ははじめて認識され」と書いたが、その認識があったことに気づいたのは「いま」なのである。つまり、当時は、無意識的な抵抗の存在をこれまた無意識的に受容していただけであって、自らが抱える「反」の片棒をもってふりまわしはじめるのはせいぜい大学生になってからのことなのだ。そのことを理由づける象徴的な出来事がある。

高校生の頃、インターンシップの授業での話だ。これは心底杜撰な体験学習で、テキトーに2-5人程度に振り分けられた班ごとに、生徒の希望などはとらずにテキトーな会社が割り当てられ、そこで何日間かテキトーに疑似労働をする、というものだった。興味のないしごとをして何が得られるのか、と文句を垂れながらもわたしはそつなくその日々を終えたのだが、この無意味さとの対峙は、たしかに会社における日々の経験の先取り(事前学習)をしていたといえるのかもしれない。各班代表して1名の感想文を冊子にまとめる段になったとき、最初に白羽の矢が立ったのはわたしだった。ただそれは事前にはしらされず、完成した冊子を手にもった担任が、わたしのまえでこぼした言葉によって明らかとなる。

「最初はFくんのものを、と思ったんだけどね……」

第一候補となったわたしの原稿は、「こんな生徒の希望をないがしろにする選別方法はまちがっている!」といういらだちをぶつけたものだった。希望していない職務を割り当てられたがゆえに、勤務先への攻撃性もむきだしだ。無論掲載されず、けっきょくは無難な感想だけが活字として記録に残された。インターン先の会社にも配布するものだったらしく、不掲載は当然だと思ったわたしは、このときもまたへらへらわらってその場をおさめようとした。このときの、すこし困ったような顔をしたM先生の顔が忘れがたい。

この原稿に託されたいらだちはわたしのひねくれ性質が漏れだしているとはいえ無邪気なもので、ストレートな怒りの発散であった。そのことが、当時わたしがまだ自らの反意を飼い慣らせていないことの最大の証拠だ。「作品をつくる」という行為を本格的にはじめ、その原動力である「怒り」への対処を学ぶのは大学生になってからなのである。ある敵対者と対峙し、戦闘のための思考を練り、鍛え、摩擦させ、そのうえで反撃を行為していく。そこではじめて反抗はその明確な輪郭を獲得し、あざやかな残像をもむすびうるようになるのである。

ここまで書いてきてようやくわかったことがある。わたしの反意-怒りと、わらいは表裏一体なのだ。反発の記憶にこうもわらいが絡みついているのは、あらがいの皮膜として笑みがぴったりとはりついているがゆえなのだ。わらうな、と怒られたことがある。大学時代、小教室での授業に遅刻したときのことだ。わらってごまかすな。茶を濁すな。老教授のまっすぐなまなざしはそういっていた。しかしこれは処世術なのだ。反発をその場で解消せず、つねにかかえつづけるために編みだした、わたしのたたかいの方法なのである。

わたしはキレた人間が好きだ。単に怒っているという意味だけではない。極端で、大胆で、頭のねじが飛んだ、エキセントリックなひとのことだ。Kもそうしたタイプの友人だった。わたしとちがって反発をわらいでごまかすことはせず、対立者とはよくぶつかり、問題を起こしていた。そんな彼を、わたしはとても信頼していた。いまではもう連絡をとりあうこともないのだが、当時からつづいている――といっても、会話が生じるのは年に数回レベルになってしまったスカイプのグループチャットや、ツイッターのタイムラインで彼のことを見かけるたびに、ふと冒頭の言葉がよみがえり、「まだきみも元気に反骨しているかい?」と、声をかけたくなるのである。