真摯さの強制誘発対話ゲーム

あるひとつの真摯さがあり、それは他者の真摯さを強制するが、完全にひきだすことができるかどうかはわからない、あくまでも誘発の域にとどまること、その境目でなされる「よくわからない」という一言ですべてを片づけられ、対話はなされず、一方的に切り捨てられる、もしくはそうした放棄と似たようなものとしての、パフォーマンスのあとで、たがいにステージの外でたたずんでいる際にぽつりと語られるひとことの所在(倫理は継続せず、断続する、だってずっとじゃ息苦しいからね、)

「踏み外さない対話」などはもちろん幻想で、不可能なことなどわかりきっている、でもその地平からものごとを為す、話す、かかわることが、かならず「よい方向」にゆくための道すじをつくるはずだと信じる、信じあう、それが強制ゲームでしかないというのなら、おれはこの手に何をにぎりしめられるのだろうか?

倫理性の極限は自殺である。その結末の手前で、宙吊りであること。わたしはそのもがきを肯定する、したしげに肩をたたく、たのしげにわらいかける、やわらかく抱擁する。わたしが支持しようとしている真摯さの交信の絶対化をつきつめていくことは、エリーティズムへと荷担することと同義であるように思える。だが、個個人の絶対性、固有性、タマシーみたいなものを信じることは、はたして選民主義といってしまえるのだろうか? わたしがファシズムに対して抱いているかすかな希望みたいなものを腑わけしてみれば、そこにはやっぱりひとを信じたい、あなたを信じたいというつよい思いが見つかるような気がする。

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