内なる帝国(迷彩のフラッグ)

さいごにいうと、から2-3時間話をつづけるひとが中心の会議をいくつも乗り越えることで得るものについて。

ラヴ・ディアス『立ち去った女』、長さはちからである、その持続との対峙から生まれる〈つかれ〉は達成感と似た質感をもち、何かとともに過ごすことの効力を感じさせられる、聖母としての女、3つの名、マザー・テレサの死、復讐の共通項、スティグマを背負ったひとびと-ゆるしの関係、取り調べのカットのサスペンス、固定カメラ長回しの反復がはじめてとぎれるとき、あ、この作家は自主映画のような熱意のひとなんだと理解した、そうだよな、撮影・編集まで自分でやってんだもんな、〈なにものか〉はつねに奥からやってくる、奥行きの映画

強度をつくるながさ、だがそこに寄りかかってはいけない、本作の長さに必然性がなかったかと問われればいやあったと思うのだが、観おわったときのうちふるえをあまり感じられなかった、序盤にくりかえされる30年分の慟哭や、おなじ時間をともに過ごすことを意識させる、かなしくてもあかるさをもって生きる魅力的なキャラクターたち、デジタル撮影を2階調化にした白と黒のきょうれつなコントラストなど、目をみはる点はいくつもあるのだが、ちまたでもてはやされているほどのりきれなかったのが正直なところだ。


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単色のリズム 韓国の抽象@東京オペラシティアートギャラリー、ぼちぼちよかった、つぎは谷川俊太郎展やるらしいじゃないですか、「ヒツクリコ ガツクリコ」@前橋文学館で観たoblaatの電光掲示板を流れてゆく詩よかったな、顕微鏡のものは子供たちがぎゃーぎゃーさわぎながらずっとにぎりしめていたため観れなかった、何の催しが同フロアのホールでおこなわれていたのかはしらないがここは展示空間、文化的再生産ではないところ(たとえばわたしは映画も美術も演劇も東京にきてから親しいものになった)で、もうすこしなんとかならないのかと思わざるを得なかった、ノイズが走ること事態はよいのだが、わたしの不徹底/ゆらぎが露出する場面のひとつである


意味のないことのつらさにわたしたちは残業をとおして気づく。ああわたしはいま意味のないことでわたしを消耗している、時間を無意味なものとしてきつく矯正されている。だからせめてもの抵抗としてそこに意味をつくりだそうとする。ひとはあらゆるものに価値を見いだそうとする。それを利用して資本は駆動する

さいごにいうと、はひとつの会議で複数回くりかえされる。