想像図はつねに先取りを予期している

詩手帖の中間合評対談、つまりはまいとし11月号には息切れしてしまって投稿しそこねがちだったのだが今回はぶじ投稿でき、なおかつ佳作に入っていたので、あるていどの文量をさいて作品に言及がなされていた。こうして自作が読まれているという事実が何よりうれしいし、ゆえにまた書き継ぐことができる。しかしもう投稿も5年目であり、今クールでいちど区切りをつけて詩集の編集にシフトしていきたい。編集・デザイン・執筆すべて自分で為すすーぱーインディペンデントな感じですすめていきたい。問題は、海外製の、日本で流通していない紙を融通できるのかということ。技術も含めぐっどな印刷会社/製本会社を見つけられたらよい。

新文芸坐シネマテークにてアンジェイ・ムンクを2本観た。アンジェイ・ワイダ、イェジー・カヴァレロヴィッチとならぶポーランド映画界の巨匠で、39歳のときに交通事故で亡くなってしまった夭折の天才ということだ(アンジェイときけばあたまにうかぶのはワイダの方で、しかもその作品はひとつも観たことがない体たらくのわたしはムンクのことを観にくるまで名前すらしらなかった、ちなみにカヴァレロヴィッチのことも、いつもおもしろい講義をありがとう大寺さん!)。ポーランドでもヌーヴェルバーグと同時代的に数々の傑作が生みだされていた、それをまざまざと感じさせてくれる作品たちだった。

『白い決死隊』、雪山の美しさ、映画は白と黒の世界、その白さのなか、明るさのなかで、ポーランドの山小屋に横たわる病傷兵を、第二次大戦末期の救出劇を描く、黒いちいさなひとかげが、まっしろの雪原を悠々とすべってゆく……

『鉄路の男』、きょうれつな正面からとらえた顔の、切り返しカットの連続、からのズームアウト→回想への移行、永遠に続く機関車の滑走からなるファーストカット、鋼鉄の肉体ともいうべきちからづよい車体の描写、心の機微をていねいに、つつましやかに映像化した演出・画が支える繊細なミステリ

東京デスロック『3人いる!』@STスポット、デスロックが志向するのは「演劇の枠組みの破壊と再構築」だと『CEREMONY』しか観たことない身分ながらにそう思っているが、本作においても「わたしではない役」を「わたしが演じる」という役者/演劇の構造を用いたメタフィクショナルな作品に仕上がっていた、わたしではない誰かをゆびさそうと試みるわたしがわたしをゆびさしてしまうとき、それはなにをゆびさしているのか、なにがわたしとして、なにがわたしではないものとして示されるのか

なにかおおきな出来事が起こるわけでもなく、「わたしがふたりいる」という状況のもとに、役者3名の会話のみで物語を駆動させていくその武骨さがよかった、『再生』も観たかったがまあよかっぺ


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表参道はハブモアカレーのカレー、うまい、イメフォやスパイラル、ユトレヒト、青山ファーマーズマーケットなどに足を運んだときによいごはんやを見つけられていなかったのだがこれからはひと安心


いま読んでるのはニーチェ『偶像の黄昏 反キリスト者』(筑摩書房)、ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ』、野中モモばるぼら『日本のZINEについて知ってることすべて』(誠文堂新光社)、『デザインのひきだし32』(グラフィック社)、ソポクレス『ギリシア悲劇2:ソポクレス』(筑摩書房)、橋本シオン『これがわたしのふつうです』(あきは書館)あたり。ソポクレス、「プリュギア」という言葉がでてくるたびにおれのプリキュアスピリットが熱を帯びる。ニーチェははじめてちゃんと読んでるけれど、いまのところぜんぜんおもしろくないのだった……