帰巣の準備体操

5-6時間の会議、というより聞くこと、発言せずにただひたすら話を聞くことがザラである「労働時間」をいかにしてポジの力に反転させていくか、その思考と試みに疲労をおぼえている。おれはつかれた。

話すことは快であり、聞くことは不快である。
知ることは快であり、忘れることは不快である。
解放-抑圧の図式、聞くことの不快に、知ることの快は勝りうる、忘却を話すことによって昇華する、

教育の問題だ。おなじ話をくりかえしくりかえしなんどでもなんどでも刷り込む。ともにある時間の長さがそのまま学びのゲージに照応する。たとえば徒弟制度、書生、職人の工房、そうした場のもつ教えの力をおれは否定しない、だがつかれた。おれはつかれた。

だがこの一連の文章も抑圧の解放としてあるわけで、この筆記行為自体が反転する力をもっておこなわている。

こうして仮説を立ててゆくことが、出来事を腑わけしていくことが、わたしを鍛える。つまりは、あきらかに無駄と思われる長時間の「耳を傾ける」が、結果的に思考のきっかけとちからをもたらす時間として浮かびあがってくる。だがしかし、おれはつかれたのである。