ふたたび受胎(気おくれ風の

チリの話は『チリの闘い』のDVDがとどいてからにする。この予告を観るだけで涙がこぼれそうになる。今年の9/17(日)と22(金)、PFFで一挙上映されます。


鈴木洋平『丸』、きてれつ! 闖入者がもたらす静止、によってうごかされるドラマ、その停滞、それを打破するのは暴力、その持続が途切れるとき映画も幕切れる、理解できないものに遭遇したときにわたしたちは停止するのか? そしてそれを打ち砕くことができるのは暴力だけなのか? 静/動のダイナミズムによって物語はごろごろと転がってゆく


マウゴシュカ・シュモフスカ『君はひとりじゃない』、wierd film! コメディであり、スリラーであり、ミステリーであり、家族を描いたドラマである、邦題のさす「きみ」はアンヌを指しているように思った、ボディという原題、からだと霊(精神)を分けるとして、検死を生業にする父と、身体の治療をおこなう現代科学の精神科医と、霊媒セラピスト・アンヌのはざまで、拒絶者としてのオルガ(拒食=自らの身体への拒否、父への嫌悪、母の死を受け入れられない)が立ちなおる、家族の関係性が回復する、そういう話として受けとれる、一見シリアスと思われるひとの死や、崇高なものとしてのスピリチュアルな要素がギャグとしても立ちあらわれるように演出されており、その二重性がおもしろい(ぼくが観た回はあまり客入りがよくなく、わらいがすくなかったのがさびしい)、そして何よりも幕切れのしかた! 霊媒ポーランド人がどうとらえているのかが気になる

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挿入歌ビキニデスがとてもよい


ジャコメッティ展@国立新美術館、背中の気配、存在が際立つほそまった造形、「見たままにつくること」でできあがってきた彫刻があのようなかたちをしていること、〈孤絶-角〉をおもいだす、それぞれがそれぞれの仕方で存在=孤絶していること、それが時代を超えてわたしの胸をふるわせること、もともとは観にいくつもりはなかったのだが、ソーニエ展で読んだテキストで言及されており、時間も空いたので足を運んだのだがきてよかったと心底思った


新聞家『白む』@BUoY、テキストの幸福さが、切実な語りとそれに耳を傾けるいくつもの直線上で反転し、ホラーとして浮きあがる、役者後方の暗闇、この空間の廃墟感によって、語り口と、この「暑い」熱帯的空間によって、恐怖として現前する、前半はそんなことを思った、稽古ににどほど参加している身としては、(志村や若菜(名前がうろおぼえ)といった色恋の不穏さはあれども)幸せの断片として読まれるテキストを感受していたので、これがどのように結実するのだろうかという期待をもって今回の公演に臨んだのだが、はじめてきく箇所だけではなく稽古場ですでにきいていたテキストがまったくちがう立ちあがりかたをしていて、なぜこんなに怖いのかをずっと考えていた、この怖さの質、黒沢清のゆれるカーテン、稲川淳二の怪談、きのう観た『丸』のような異質性との対峙として? 反転、逆転、子供が生まれたという祝福的な幕切れに対していだいた安堵はその出来事ではなく、サスペンスが「着地」したことから生まれたのではないか

熱帯的空間について、会場のBUoYはまだ設備がととのっておらず、でかい扇風機(うるさいので上演&トーク中は切られた)だけが空調設備としてそこにある状態で、とにかく暑い、演者も普段の稽古とは何がちがうかと問われて第一声「暑い」をこぼすほどに汗ばむ空間、それは観客もいっしょで、つまりはダメージをともに受ける、共苦する場、になっていた、共有、円を描くように座る観客と演者の同列の気配のなかで作品は上演された

[ツイートした感想]
意見会で大石英二がいった「いまを信じつづけるしかない」というワード、これを共有不可能な道のりにおいて共有しようとする試みが、作内の「尊ぶ」る事象と結びつく感動の源泉/演劇の核であることを、ともに信じつづけられるかが試される「幸福の折りたたまれたホラーサスペンス」として観た

感想会の村社祐太朗の言葉をきいていて思ったのは、稲川方人の倫理性をもっとべつのかたちでそびえさせることによって新聞家のテキストは成り立っているのかもなということ、つまり執筆/発語のまえで立ち止まり、辛抱しつづけることでより正確で、きびしい、切実さをはらんだ言葉、村社の言葉でいえば「事実に嘘をつかない」言葉がうまれる

その事実の「確かさ」は内野儀が指摘していた通り、観客にはわからないものとしてあるがゆえに想像することが試され、観客の負荷を増大させる。大文字の「フィクション」に寄りかかっていればいい作品ではないことを理解するには、初見者にとって新聞家の演劇はだいぶハードルが高く、ともすれば拒絶の対象として映る(そしてこの理解不能性があるがために一種の尊さが作品に宿る)。

ゆえに、この新聞家の作品と向きあう(向きあわない)ことによってはじきだされる「目が曇り、耳がとじているひと」を、意図しようがしまいが切りすててしまう選民主義的ふるまいの危険性にどう対峙するのかが、こんごの方向性を左右するポイントではないだろうか。この「誠実さのあぶりかえしの現場」が作品の内部ではないとみなすことができるのは、内野儀がアフタートークでいっていたように、「新聞家の公演は観客への負荷がひじょうにおおきい」ことからもわかる、そこに耐えれるか、耐えれないか、ぼくの問題系でいえば宙吊りに耐えうるひとであるかどうかがそこで試されているのである(そうした耐えられない観客たちに対する村社の「さびしいですよね」という感情の、行方を見定めること)

公演本編→意見感想会→アフタートーク→質疑応答とすべてその場で体験しおわったあとの充実感はなににも替えがたいものだと思った、なぜわたしはこんなにも充たされているのか? 以前『揃う』を観たときの感想会での、観客が自分の言葉をその瞬間瞬間で探りながらつっかえつっかえ発話しているその切実さ、『鶯張り』第1話「ケージ」における、電車やバイクの走行音や街を行き交うひとの声にかきけされまいと、ごくごくちいさなボリュームに設定された拡声器を以て言葉を発する峰村菜月と、それをなんとか聴き逃すまいとする観客たちの懸命さが、この感慨にかさなる

「人が話し、人が聞く」という演劇の骨組みを突き詰めた結果としてのこの行為こそが、共有不可能な道のりにおいて「いまを信じること」を共有しようとする試みであり、観客であるわたしもそれを信じたいと思うがゆえに、新聞家の作品はひととひとのあいだでドラマティックに立ち上がり、わたしたちの胸を打つのである。