わたしはわたしの為すことに自覚的でありたい

感情は論理に優先する。魅力的な批評はその飛躍力=想像力にかかっている。イデオロギーと信仰にちがいはあるのか。それを分かつものが普遍性だとして、それは何を意味しているのか、アクチュアルであることとジャーナリスティックであることと、そのこと自体の普遍性に目をやること。唯物史観の否定について。わたしはわたしの為すことに自覚的でありたい。

気温がひくくなってきてテンションがアガる。明日は最高気温が20度だという。このまま秋に突入してくれればよい。9月、恋人がドイツへゆく。ドクメンタ、おれは次回かな。もう四半世紀を生きのびてきていていちども海外いったことないんだよ、去年せっかく10年パスポートをつくったのに。南米、中東、北欧あたりにいきたいです。でもさいしょはアジアかな。

中東といえば、ファルハディの脚本、ちょっと天才すぎない? と『セールスマン』を観て思った。過去作である『別離』も『ある過去の行方』もいちど観ただけでは把握しきれないほどの伏線だらけで、この緻密さ、用意周到さはすんごいなあと舌を巻くばかりなのであった。とにかくサスペンスフル。どうしようもできない状況、やり場のない感情の宙づり、アンビバレンスの葛藤、そうしたものを描く脚本を書かせたら右にでる者はいない、というか現代映画でファルハディよりすごいものを書くやつをみてみたい、そんなことを思わせる、細部までつめられた脚本(冒頭の女優に対するわらい、タクシーの男性嫌悪の女、父がいない学生、トイレはひとりですると女にいい放つ男児=女性が抑圧されるイラン/イスラム社会……)、こうしてまたハズレのない監督だという思いを強くするのであった、劇中劇のシーン、PA卓のカットが画面に重ねられるのは何を暗示しているのだろう?

またパレスチナの作家カナファーニーの『ハイファに戻って/太陽の男』がさいきん文庫化して、はじめの2本を読んだのだがこれまたおもしろい。こちらもファルハディ同様やるせなく、どうしようもない状況に生きるひとびとを描いているのだが、その描写のなかにあらわれる行きつ戻りつな時制のあつかいかたがなんだか新鮮で、なんてとこよりも故郷を侵略され強烈な太陽のもとをさまようしかないという現実から生まれてくる物語のつよさにうちふるえるばかり、おもしろい、とかひとことで片づけてはいけないと思わせる切実さがある。一時期井筒俊彦を経由してイスラム文化にあたまをつっこんでいたのだが、またつっこみなおしたいと考えている。まずはカンドゥーラでも買うかな。

南米といえば先日パトリシオ・グスマンの特集上映にいったのだが、その話はまたこんどにする。アテネフランセである。金子遊レトロスペクティヴにも足を運んだのである。はじめて訪れたのだが、観るポジションを探るのがむつかしい劇場である。寝る。