雪融けを待たない仕草

自分で考えることについて考えている。すべての思想はおまえのための踏み台であり、手がかりである。自分の思想・哲学を練り上げることなしに世界は変わらない、すなわち、おまえはあらゆる思想を取っ掛かりとして、この断崖絶壁を、その困難さを自覚しながら、のぼったりおりたりすべったりくだいたりしなければならない。その点においておれは強者の思想をふりかざしている、考えることのできない事態/状態について……

埴谷雄高はこういう、「スローガンを与えよ。この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩いていく」(『幻視のなかの政治』)、シモーヌ・ヴェイユはこういう、「もっとも危険なのは、集団の個人を圧迫しようとする傾向ではなく、集団に馳せ参じ、そのなかに溺れようとする個人の傾向である」「不幸は、それ自体曖昧なものである。不幸な人々は、おのれを表現するための言葉があたえられることを沈黙のうちに哀願している」「不幸な人々に、民主主義、権利あるいは人格といった中途半端な価値しかない言葉を語らせることは、彼らに善をもたらすどころか、多くの悪を犯さざるをえない破目に追いやる、そのような贈り物をすることだ」(「人格と聖なるもの」)、今村純子のテキストが示唆に富む、だがおれは暴力に可能性をみている、それは愛をもうちにそなえうる、


チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』@シアタートラム、あ、ラース・フォン・トリアーじゃん! みたいな(検索したら同じようなこと思っているひとがそれなりにいた、かつて青土社の採用面接を受けにいったときに当時のユリイカ編集長とそんな話をしたがここにきてなるほどと思った、ここにきてというのはチェルフィッチュはすごいすごいといろいろな方面からききつづけ、ようやくはじめて観れたからであった、『God Bless Baseball』は観た、面接は落ちた)。「悲劇」における狂気的なヒロインの系譜。「散らし」ということを思った。そのタフ=強靭さ。久門剛史の強力な散らしの運動体、転換装置としての震災の読み替えなぞにいまさら意味などあるのか? 目にみえないもの(音、幽霊、未来、過去、時間)に仮託する、ゆえに観客は目をとじることをうながされる、目にみえないものは、部屋としてみえる、ひととしてみえる、光としてみえる、音としてあらわれる、、、

かの夫婦はいったい生きていた/るのか? ちょうどその日に起きた海老蔵/麻央のことを想起していたのだが、はたしてそのような血のめぐりをここに視ることはできたか? いやそんなものはなから否定している、存在のレベルの逆転、観客のシンパシーはどこに向かわせるのか、より実態をもって迫ってくる青柳いづみと、さまざまな舞台装置の方へ、、

青柳いづみをひさしぶりになまで観て、肉声ということを考える。身体なき声をいかにして立ちあげるか、そこを考えたい。文字がその内に入りこんだ発語、これは作品ではなくおれの興味関心の話。

吉田庸、すごいおもしろいと思った。本作はとにかく役者の圧がすごい、この圧によって場をもたせる、

いろいろ書いたがあんまりよさがわからなかった。これだったら『God Bless Baseball』の方が磁場のきりひらきかたがすぐれていた。人ではないものがその役割を負う、仕向けに対するこわばりが、わたしにそう思わせる? 『三月の5日間』のリクリエーションを観ねばなるまいね、小説版が収録されている『私たちに許された特別な時間の終わり』が好きなんだ、おれは。

f:id:seimeikatsudou:20170720094254j:plain
f:id:seimeikatsudou:20170720094315j:plain

排気口『そしてきせきはしんじれて』のフライヤーをデザインしました。
2017年9月16-17(土日)、高田馬場プロト・シアターにて。
ぜひ、ご来場ください。