まぶしく語る

せっかくチェルフィッチュ当日券アタックできる時間に退勤できたのに家にめがねをわすれ、というか本来は昨日いって今日はロメールにいくはずだったのにむだばなしでつぶされ、どちらもまたけっきょく観れないのかとなみだでてくるので鎌田東二『言霊の思想』を買ってかえる(翌日にチェルフィッチュを観た、それはまたこんど書く

ひとを語るときにスペックという言葉をつかうおんながいて、おれはPCじゃねえぞと思ったのだが、こういう言語に何の違和ももたないで使う思考態度が平然とそこにあることのかなしみみたいなものをいわれてから数ヵ月経って思いかえしている。web上であれば一種のスラングとして、そしてデジタル空間ゆえの言語スタイルとしていいとは思うのだが……これも言葉狩り的発想? でもじっさいいわれてみるとやだからね。それに言語は変化しつづけるものであるということとこの反発は両立できるでしょ。アンチ言葉狩り、アンチ保守主義、アンチ非思考。

湯浅政明夜明け告げるルーのうた』、アニメのたのしさがあった、ノスタルジーが核(主人公ら子供世代)にないアニメ(作動しているのは親や祖父の世代)だ、子どもたちが主体となってうごく、大人たちは背後にあるものとしてかくれている、ルーがエロティック、あのピンクのあんよ、過去へと引き込まれていく老人と、未来へと歩みだす少年少女たち、おおきな壁がくずされ、頑固なカイの殻は破られ、彼らは確かな一歩を踏み出す、タイトルバックまでのイントロダクションがマジサイコー、自分のきもちを素直に言葉に乗せること、聞き取れるように、話すこと=放送のように一言一句、まちがえないように話すこと、

アニメのたのしさとは作画のたのしさである。アニメゆえの演出のことである。だが観おわったときに物足りないとおもってしまったのは本作のアニメがだめなわけでなく、おれ自身がアニメから離れすぎてしまったからのように思う。『夜は短し~』を観たときにもそんな感覚をいだいたのだけれども、テレビアニメを見なくなってしまったがゆえの鈍麻からきている気がする。『マインドゲーム』を観なおしたいきもちだ。祝、アヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ。

マイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』、魅力的な予告編にたがわずめちゃよかった。映画的ワンダーではなく、語り口のまぶしさ。グレタ・ガーウィグはこういうエッジの効いたひとを生きる天才(『フランシス・ハ』、『ウィンナードッグ(トッド・ソロンズの子犬物語)』)だし、主演のおばちゃんもアメイジングだった、70年代末期のパワーあふれるおんなたちに囲まれ、ひとりの少年が自立し、おんなたちも自分の立つ位置を見つける、なんというかhaimの新譜のmvに似た感覚を感じた。