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たたかいタクティクス

胃がいたい。おれは胃が弱い。ストレスは胃にでる。大学受験に失敗したとき、胃潰瘍になってタール便(くろいうんこである。血がでてからしばらく時間が経っている=出血場所が尻穴からとおい証拠で、真っ赤な血便の場合は肛門のちかくで出血していることを意味する、というあした役に立つクソ知識)がでたのにはたいそうショックを受けて、対面に座っていた女医にそのことをいいだせなかった思いでがある。いまのこれはべつにストレス由来の腹痛ではない気がする。のだが、めちゃいたい。

というようなことを金曜の夜に書いていた。
いまは日曜、午前である。
昨日、一昨日と演劇を観た。新聞家『軟禁の正常さ』と、アイスカハラ(でいいのか?)『こわがることを覚えるために旅に出た若者/泥』である。前者は、毎週金曜21時頃から中目黒のユーティリティキャンバスという帆布生地をつかった衣類を取り扱っているお店でおこなわれている演劇で、演劇そのものよりも、終演後に必ずおこなわれている「アフタートーク」を、より「話す場」に近づけたかたちにしている点が魅力的だ、といってしまうのはちょっと暴力的だけれどその豊かさがいいんだ。

そもそも演劇とは軟禁的状態をつくりだすものではなかったか?

新聞家でのトークでの議題と、アイスカハラでのステートメントの齟齬がよかった。

おもしろい身体をつくるってのはオフィスマウンテン『ドッグマンノーライフ』観たときに感動したのだがむつかしいよな。

ここから7/1、現在形。
わたしがこの場に加担しているという意識があるかぎり、軟禁状態はうまれない。しかし、そこから疎外されている、強制されていると思ったときに軟禁は立ち上がりはじめる。すなわち態度の選択が「軟禁」なのであって、客観的軟禁などは存在しない。
ただ、わたしはこの場に加担しているという自覚がなく、疎外も強制もされ(ていると思わ)ず、ただ「いる/ある」という状況においての存在とは暴力ではないか(わたしがいまここで書きつけているのも暴論だけれど)。
今日のトークは、豊かさが押しつぶされていく瞬間がなんどもあって――それは胃がいたいと嘆いていた日にもあったけれど――、とても「軟禁的」だった(いまぼくがここで話している「軟禁」は、タイトルの『軟禁の正常さ』における「軟禁」とは異なるものを指していると思う、こういうズレをなんとか擦りあわせようとする、ズレたままでものごとがすすんでいくことを回避しようとする態度をぼくは支持したい)。さいごに発言をした、身体パフォーマンスをやっているひとの空気の変えかたあるいはその変化がほんとうに救いで、それがなければおれはいまよりももっと気落ちしていだろう。ああでもだからといってこういうじめじめした解決のしかたはよくないよな。言葉で生きてるにんげんって、だから健康的じゃないのかっていまわかったよ。

浮動することの楽さに身を寄せずに、極端へと傾いていきたいのがいま脳みそに浮かんでいること。岡田利規『三月の5日間』でNOと叫んだ男はべつに過激主義者ではない。