遠さをかみしめるためのビニールのてかり

けっこう前に思ったことを書き残しておく。それを見返して「即」のすぴーどで走り書いておく。帰りの電車を降りるまでがわたしのタイムリミットである。

地震がおこった。震度7。熊本。その遠さがやばいしまずいと思った。東京という感じ(東京に転嫁するな

自分の想像力の限界がかんたんに露呈するよな。おれは福島で311を体験したけれども、やっぱり温度差があるよな。福島-他県、内陸-沿岸とかいろんな軸においてね。学生時代に沖縄問題(この沖縄+問題という表記が成り立つってやばくない?  書いててふざけてるなって思うよ。だからあえてこう書くよ)に関するドキュメンタリー映画の撮影を手伝っていたのだけれども、その体験は自分のなかでいまだにすごく生きてるんだよ。高校のとき、修学旅行が沖縄でぜんぜんつまんねーーとか、もういかなくていいわーとか思ってたんだよ。でもいまはちがうわけ(イントネーションはひがさん)。これは、沖縄の背負う歴史性をしって日本人としてちゃんと向き合わなくちゃいけないなと思いましたとかそういうことじゃなくて、単に距離がちかくなったってことなんですよ。沖縄に友人がいる、福島に家族がいる、熊本に、タイに、シリアに見知ったちかしい存在がいる/ある。そういうところを越えた想像力をどう培えるかってことが平和をつくりだすんだと思います。

先日24歳になった。若さを理由にできる季節がおわりに近づいていることははたしてかなしみだろうか。詩集を編みたいし、小説をひさしぶりに書くぞと思っている。いま、おれの肩に寄りかかっている疲れきったサラリーマン(しかしこいつは酒を飲んできている! うらやましい!)の人生にはとどくことのない言葉かもしれない。反対側のナンプレをやってる息のくさいおっさんにもおそらくひびくことはないだろう。それでも書くしかないと思うのは、言葉の射程を信じているからだ。