俺のいらだちは草臥れている

前日のつづき。

青柳いづみが好きだという話。でも『夜三部作』にはでていなかったという話。そもそもちゃんとタイトル書けよという話。『夜、さよなら』、『夜が明けないまま、朝』、『Kと真夜中のほとりで』の3本だての話。

で、この3本をつらぬいているのが「不在」で、この3部作は「不在を語る物語」であるといえるのだけれど、奇しくも青柳いづみの不在を感じさせない役者のタフネス/存在感がよかった。同じく青柳いづみが出演しなかった『ΛΛΛ~』では少々物足りなさがあったので、今作での役者の成長ぶりというのは目を見張るものがあったかなと。

そして言及したいのは劇中で流れるムーム! こうして音楽に新しい意味付けがなされるのだなあとなんだかいたく感動してしまった。

ところで、ぼくの思う青柳いづみのいちばんの魅力といえば脆くもつよい身体なのだけれど、この身体性というところに着目していうのであれば、成田亜佑美は弱き身体、吉田聡子はぴりついた身体ということができる(川崎ゆり子さんは無邪気な……?)のではないか。

で、もう一段階踏み込んだことをいえば、今後の作品では「ああ、マームだな」で完結させない姿勢を期待したい(残念ながら寺山に行けなかったので現在のマームがどう変化しているなのかはくわしくはわからないのだけれど)。頭打ちの手法をいかに打破していくのか、音響劇の次は何か。いまのマームにあるのは何のつよさかといえば、言葉のつよさ。負荷における比重は身体だけでなくもっと精神にもあっていいのではないか。

cocoon』再演では、時間軸の置き場としてのいま→未来への移行があり、声の演劇から音響芸術としての演劇への変移が見られた。過剰さを削ぎ落としたリフレインの洗練さも感じた。死の薄まりと普遍性を手に入れたことによるさらなる強度の獲得もあった。ドラマティックであることを背負い込んだ身体の魅力もあった。観劇するわれわれが生きている時代の空気が初演からの年月を経て、見違えてかわっているのだと認識することとなった。

特筆すべきは尾野島慎太郎の異形さ。とはいえ、個人の際立ちが背景と化した感があり、全体的に初演とはまったくの別物として立ち上がっていたのだが、どちらがよかったかといえば初演の個の切実感に分があるのではないだろうか。

しばらくは観た演劇について書こうと思う。おわったら映画について書く。どちらもここ1年半くらいのメモ書きがたくさんある。書き記しておくこと、目に見えるかたちで残しておくこと。そのフォーマットにおいて「雑であること」を意識すること。