あまりのつらさにふらりと入った駅ビルで親しみ深そうなサボテンを衝動買いしてしまいそうになる

アピチャッポンの『世紀の光』観た。特集ぜんぶ観ようと思っていたのにこれしか観れなかった。ひとやものにフォーカスを当てるんじゃなくて、現象そのものをうつしとることで「見ること」の緊張感をあぶりだす感じがよかった。何年かまえに演劇作家のむらこそさんや映画監督のひがさんから「アピチャッポン」という声にだしたときの口の感じがたのしい名前をきいてからずっと観たかった作家なので、ようやっと観れたという感慨がおおきい。光りの墓も観に行く。

メカスの『フローズン・フィルム・フレームズ』を読み終えた。『幸せな人生からの拾遺集』も観た。たまたま連続して観たからなのだが、クストリッツァの『アンダーグラウンド』とメカスの作品を並べてみたときに浮き上がってくる、祝祭的/幸福な戦争の語り口のしなやかさにはやられてしまった。けっしてポリティカルではない身ぶりで「戦争」を描きながら、それをおこなう主体はひじょうに切実な政治性(たとえば、難民という属性)を背負いこんでいる。メカスは前掲書のなかで下記のように直接的に明示しながら、作品のなかではそのそぶりを見せない。このアンビバレンスな作品/作者のあり方に感情と足場がぐらぐらとする。

「わたしは一度としてぐっすり眠ったことがない。/これからも決してぐっすり眠ることはないだろう。/なぜならわたしは一度だってふるさとを離れたいと思ったことはないのだから。/なぜなら、一度だってここに来たいと思ったことはないのだから。」

「三十年も旅をしたあとで難民が、亡命者がなおどんな思いを抱いているかきみたちは知りたいか。本当に知りたいか。/それなら教えよう、聞くがいい。/きみたちが憎い!/きみたち大国が憎い!」

「われら亡命者、われら難民、われら居所のない者たち。/わたしはこのことをきみたちに言うために、ここにいる。/わたしはきみたちの所業に目をこらし、ひとつひとつ記録してきた。/そうだよ、大国諸君。/わたしは詩人にすぎない、ホーム・ムーヴィーを撮っているちっぽけな人間にすぎない。」

さいしょにイメージフォーラムで『ウォールデン』を観たとき、さして気に入ったわけではなかった。難解だ、と思ってしまった。第二部を観終えたあと、映画館から青山通りへでて、信号待ちをしているときにさわがしいバスが目のまえを通りすぎていった。アルティメットパーティバスとかいうギラギラした乗り物が、たのしげな音楽を鳴らしながら渋谷駅の方へと走り去っていった。光、動き、音、光。これか、と確信はなかったが、そう思った。当時のぼくはそこに疑問符と迷いを入れ込んで「何が映画なのだ?」と間抜けなことを書き記しているが、いまなら「それだ!」といってやることができる。むかしのツイートを読み返してみると、バスには「ふざけた酔っ払い」が乗っていたらしいのだが、それに関してはすっかり覚えていない。記憶は都合がいいな。
さいごに『フローズン・フィルム・フレームズ』から好きなエピソードを。再版しないかなあ。たいせつに持っていたくなる本だ。

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一九七六年一一月九日

 スプリング街を歩く。トンプソン街との交差点にある銀杏は昨夜のうちにすっかり落葉してしまった。地面は黄金でいっぱい。
 一つくらいのこどもを連れた若い女が落ち葉のじゅうたんのうえで歩みをとめた。こどもはまだよちよち歩き。落ち葉が面白いらしく、目をこらして見ている。びっくりして落ち葉から目がはなせない。とつぜん木の葉のなかに転がっているコカコーラの王冠が目にとまる。こどもは思わずちいさな手をのばした。その瞬間、ポーン――こどもが王冠をつかむ寸前に母親の足が先回りして、びっくりしたこどもの指先から遠くに王冠を蹴飛ばした。母親はしばらくぼんやりとたたずみ、やがてこどもの手を引いて立ち去った。
 わたしは銀杏の下に立ちすくんでしまった。母親はべつにたいしたことをしたわけではないし、連れていたのは自分のこどもなのだろう。こどもにひとこと触ってはだめよと声をかけ、優しく手を引いてやればすむことだ。わたしはウーナにはいつもそうしてきたし、それで用はたりた。ウーナが一歳のときでも。
 わたしは銀杏の下に立って考えた。わたしたちはあんなふうにこどもたちを教育しているのだ、人間性とはこんなものなのだ、わたしたちがこんなふうなのはそのせいなのだと。
 足が王冠を蹴飛ばしたとき、こどもの小さな心にどんな思いが浮かんだか想像してみた。こうしたことがつみかさなると、こどもの心がどのように形づくられてゆくものか、考えてみた。季節は秋、地面は黄金色の落ち葉でおおわれ、天気も申し分なかった。それなのに、あんなに乱暴に蹴飛ばすなんて……。
 わたしは交差点に長いこと立ちすくんでいた。そして、ソーホーの散歩をつづけた。
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