アーキテクトの文明論

3331で小山友也のふたつの展示を観る。2014だか2015の五美展に出品されていた作品のなかで断トツにおもしろかったのでおぼえている、街中や本屋などのイヤホンの音漏れの音で踊るという、プライベートとパブリックの境界を突き破るパフォーマンスを記録した映像、その前年は田中良典(田中良佑)がいちばんよく、アンパンマンマーチをラジカセで流しながらアンパンマンのコスプレをして終戦記念日靖国神社を行進する映像(やなせたかしは従軍しており、弟は回天に乗って爆死している)と、戦闘機の製造にかかわっていた祖母に粘土で戦闘機をつくってもらう映像と、祖父にテレビのバラエティ番組を模したスタイルで軍歌を歌ってもらう映像から成るインスタレーション、またおなじ頃の藝大の院展で観た五十嵐耕平『息を殺して』が心底すばらしい作品、わけのわからないままにうちのめされる稀有な感覚を味わえる映画、ちかぢか『若き詩人』のダミアン・マニヴェルとの合作『泳ぎすぎた夜』が公開される、いま挙げた3名すべて、もっといえば先日すばらしいダンスパフォーマンスをSTスポットでおこなったAokidも造形大卒、この磁場、造形大はいい作家を輩出しているなと思ったのをおぼえている、


泳ぎすぎた夜』予告編


ふたつの展示といったが、3331内のふたつのスペースでそれぞれ個展を同時期におこなうというおもしろい試みで、ともに印象深い作品に出合うことができた。まず一階の『Remaining Methods』、部屋に入るとまず目に入ってくる「BEHAVE AS YOURSELF」という文字がでかでかと掲げられた、大きな壁いちめんに張りだされたグラフィティちっくな巨大な人体コラージュ《BEHAVE AS YOURSELF》と、展示空間の中心部に配置された、ねじまがった物差しが突き刺さった白い箱《ダンスをする直尺の彫刻》、既存のスケールを逸脱していくことが宣言されるこのふたつの作品を核に、ふたつの映像と一連の連続写真から構成されていた、

タイの学校らしき場所で膝をかかえて静止した作家自身(と思われるひと)を、異国のひとびとが協力しあってどこか(美術館? ギャラリー?)へと運んでいく映像《Passing thorough there》、段ボールとダンスするようにコミュニケートするさまを連続写真でとらえた《Singing together》、とくによかったのは、3331の入り口の自動ドアのところで反復横跳びをしつづける映像《越境のためのハードワーク》、この会場にくるために必ず通らざるを得ない、先ほどとくに注意することなくまたいだ内と外の境界線の再認識をうながしながら、無意味とも思われる脱コード的な反復行為によってその意味づけをさらに変容させていく、そしてそうした自由と力を、わたしたちもまたもっていることに気づかせてくれる、勇気の作品だった、世界との、他者との関係性を既成のコードからずらし、そこにゆたかな潜勢力を見いだす、まだまだわたしたちはわたしたちとしてやれることがあるさ、過労する身体の奥にたたずむキックボードに乗った少年が跳ぶさまをうかがっているようすもよかった、しばらくして颯爽と地面を蹴りとばしカメラのフレームから消えていった、

二階の作品は何かを神妙に思案する壮年の男の顔が27分間(うろおぼえ)固定カメラでとらえられた《いままでで一番ロマンチックな性行為を思い出す》(うろおぼえ)がすばらしかった、ぜんぶは観なかったのだがアイデア勝ちだと思う、おもしろい、つよい、また作品として受付に展示されていたステッカーが500円で売られていたので買おうと思ったのだが、その受付前にギャラリストとずっーーと話しつづけている男がたたずんでいることに遠慮してしまい買わずにでてしまった、ちゃんとビヘイブしろよおれ、

横トリににどいっている(きょうさんどめのアタックをした、それについては後日書く)。まだすべてまわりきれていない。観たなかでよかったのは、レーニンをディカプリオの格好、それも彼の主演する映画内の役柄の格好(『インセプション』のコブ、『J.エドガー』のJ・エドガー・フーバー……)をさせて肖像画化し、共産主義と資本主義(ハリウッド!)の二重化を図ったザ・プロペラ・グループの作品@横浜美術館、祖母の家にあるあらゆるもの(祭壇、タンス、窓、料理、カーテン、ドア……)をキャンバスに刻印し、それを部屋の間取りに準ずるようなスタイルで展示空間に並べたてたドン・ユアンインスタレーション《おばあちゃんの家》@横浜赤レンガ倉庫1号館、さまざまに組み合わされたミキサー、洗濯機、ドライヤー、ギターなど、多種多様な家電や楽器の駆動音と、それらを照射する光とライヴカメラによる宇治野宗輝サウンドインスタレーション《プライウッド新地》@横浜赤レンガ倉庫1号館。いまのところ前回(2014)のほうがよかったかな!

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レーニンはいいよな


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無性にいとおしさを感じる本作、モデルとなったおばあちゃんの家は区画整理のために取り壊されるという


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ギュインギュイン! ちなみにおなじ部屋に展示されていた歴史的な銅像を力持ちたちがあつまってもちあげるパフォーマンス《重量級の歴史》(クリスチャン・ヤンコフスキー)もめちゃおもしろかった



組版造形@gggと1_wall@ガーディアン・ガーデン、亀倉雄策展@ノエビアギャラリーを友人ふたりとまわり銀座グラフィックまつりをしたあと鱈腹魚金、ルパンをはしごした。荒木悠の展示を観てからずっと食いたかった牡蠣、せっかく食えた牡蠣が、ハズレで泣いた。まずかった、かなしかった、だれかいっしょにうまい牡蠣を食べにゆきませう、ニュウマンのとことかよさそうだ、もうすこし寒くなってから、いっしょに牡蠣を食いましょう、

帰巣の準備体操

5-6時間の会議、というより聞くこと、発言せずにただひたすら話を聞くことがザラである「労働時間」をいかにしてポジの力に反転させていくか、その思考と試みに疲労をおぼえている。おれはつかれた。

話すことは快であり、聞くことは不快である。
知ることは快であり、忘れることは不快である。
解放-抑圧の図式、聞くことの不快に、知ることの快は勝りうる、忘却を話すことによって昇華する、

教育の問題だ。おなじ話をくりかえしくりかえしなんどでもなんどでも刷り込む。ともにある時間の長さがそのまま学びのゲージに照応する。たとえば徒弟制度、書生、職人の工房、そうした場のもつ教えの力をおれは否定しない、だがつかれた。おれはつかれた。

だがこの一連の文章も抑圧の解放としてあるわけで、この筆記行為自体が反転する力をもっておこなわている。

こうして仮説を立ててゆくことが、出来事を腑わけしていくことが、わたしを鍛える。つまりは、あきらかに無駄と思われる長時間の「耳を傾ける」が、結果的に思考のきっかけとちからをもたらす時間として浮かびあがってくる。だがしかし、おれはつかれたのである。

線形サンダーブレーク

外山恒一トークイベントでありえないと思ったのはだれだかしらないがおれが席をはなれているあいだに飲み物が入ったコップをひっくりかえしてひとのかばんといすをびちゃびちゃにしておいてそしらぬかおで放置してゆくその心胆だよ、会自体はおもしろかったし、活動家たちはまだバリバリやっているんだとか、自分よりも若い10代のひとたちもけっこうきていて政治的身体はこうして脈々と云々とかいろいろ刺激を受けた夜だったのだがその一件で心底萎えてしまった、こうしてまたおれの偏見が増長されてゆく、ラディカル、ラディカルへ

廣瀬純がいうひとは勉強すればかならず左翼になるというのは実感として真理だと思っているのだけれど、このベクトルは左翼を通過して右翼に行き着いたりもするんだろうと思った、質問で時間のスパンの話がでてきていたが、そもそも右翼も左翼も時と場所が変われば入れ替わったりまざったりしているわけで、それぞれの人間がそれぞれの思考の強度を獲得していく行為をつきつめていくことがよりよい世界の実現(左翼的?(笑))のためには必要だと現時点ではかんがえている

トーク中にメモしたのはこんなもの、階級闘争の代替物としての反差別、マルクス-レーニン主義ひくマルクスファシズム、排外主義と反グローバリズムの相剋。

トーク、アジアンアートアワードでもアーティストトークをきいた、メモしたのはこんなこと、トーククリシェに回収されることへの抵抗、何らかの意味性を反転させること=ガマを人々が生きのこった、生の場所として考える、ヴィリリオの「事故の博物館」とメディアアートクリシェについては言及があったわけではなく話をきいていてそう思った、紋切り型の言語活動からいかにして離脱するか、突飛さの有用性について、たとえば山城知佳子がいっていた「どこでもない、(がゆえに)どこでもある」……、渡辺豪展「ディスロケーション」@横浜市民ギャラリーあざみ野のステートメントでもみた、相互認識のためのコードの更新を図ること、それは観者のリテラシーにも深くかかわる問題だ

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横浜市民ギャラリーあざみ野は新井卓展ではじめていったのだが、とてもよい感じの場所でおすすめ

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そういえばサンシャワーにもいったのだった、全体的に国新美の方がよかった

展示自体は山本高之の作品がおもしろかった。出品されていたのはそれぞれ人間ひとり分のサイズの段ボールに入った中学生たちが、ひとりで、ふたり(搭乗機となる段ボールが連結される)で、全員で……と体育館でうごめく《Dark Energy》や、わたしに嘘をついてくださいと道行くひとに嘘をついてもらう《Lie To Me》のふたつ。トークもフェイスタイムを介してロンドン-東京間でおこなわれたのだが、接続不良による間だったり断絶だったり、山本自身の飄々とした話っぷりが魅力的だった。トークイベントの司会であり本アワードの審査員でもある小澤慶介が、自らの読解も踏まえながらこのふたつの作品はどんな理由で出品したのかと問うたときの「いまやれることを精一杯ね、やっただけです」といったようなニュアンスの答えは、一見はぐらかしのように思えるのだが、つまりこれこそがコードからの逸脱として機能しているように思った。

またコンタクトゴンゾの《サンダー&ストーム バイオ有限会社》も映像との物理的な格闘(の疑似イメージとの衝突?)という未体験の鑑賞を強いられてひじょうに興味深かった。

グランプリを獲った山城知佳子の《土の人》も、肉声による戦争イメージの再現を、シームレスに現代的なボイスパーカッションに変奏することによって、じつにエモーショナルなとまどいとおどろきを生じさせていた。作品を鑑賞する際の椅子であり、展示空間に点在しているオブジェでもある無数のスピーカーは、わたしの尻のしたから音をとどろかせ、歴史はつねにわたしたちの下敷きとしてあることを、瞬時に自覚させる。納得の受賞である。

E.S.Vのニューアルバム『ぬけ道』がめちゃよいのでみんなきいて!

あつまりの最小

Aokid『I ALL YOU WORLD PLAY』@STスポット、よかった! 高揚があった、色のレイアウト、エモさをはらんだ肉声のダンス、自分の得た感動を、相手に衒うことなく伝えるまっすぐさが、そのまっすぐさゆえに突き刺さってくる。

どうぶつえんではじめてAokidさんのパフォーマンスを観たとき、祝祭的なイメージが息づいているなと思ったのだが、今回は劇場公演ということもあって、さまざまな要素(映像、照明、音響、壁、モノたち……)がそれぞれにつよく主張してきており、祝祭性はその雑多な空間に他のものと並列してあるように見受けられた。この「雑さ」はわたしが信奉しているもので、しかもそれが放棄しすぎず、彫琢しすぎずのちょうどよい具合にまとまっていて、わたしの観おわったあとの満足感に直結したのであった。

アフタートーク菊地敦己が「途中のブレイクダンスだけプロフェッショナルで~」というようなことをいっていたが、その他のパフォーマンスにおけるアマチュアリズムとこんごどう向きあっていくのかが気になる。今回はよい方向にころがっていたと思うのだが、5年10年のスパンで考えたときにはたしてよいのかはさだかではない。

観ている最中はダンスとして受け取っていない時間もけっこうあったのだが、たしかに踊らされたこの胸を思い返すに、まぎれもなくこれはダンスなのだと、そういいきりたくなる作品だった。

[ツイートした感想]
Aokid『I ALL YOU WORLD PLAY』。手は音を鳴らし、つかみ、ささえ、指差し、弾き、描く。青春と喜びに振りきれた、とびきりフレッシュなマクルーハンという印象をもった。終演後、差しだしたぼくの手を握りかえしてくれた彼の手から、全身から、たしかに受け取ったものがある


さいきん観たもの読んだもの
島地保武×環ROY『ありか』@KAAT
排気口『そしてきせきはしんじれて』@プロト・シアター
イェスパ・ネルセン『きっと、いい日が待っている』@恵比寿ガーデンシネマ
ヨン・サンホ『新感染』@渋谷シネパレス
ポール・バーホーベン『ELLE』@渋谷シネパレス
外山恒一『良いテロリストのための教科書』(青林堂
ウラジーミル・レーニン『国家と革命』(講談社

どれもまあまあおもしろかった、もう長らく宣伝美術を担当している排気口、一皮むけたように思う、でかい箱でも通用する物語の強度、この推進力が作品を引っ張りつづけ、些細なことはどうでもいいのだといわんばかりの荒々しさがガツンとこちらに迫ってくる、伏線の企みを一気にたたみかけるラスト、ひさしぶりに演劇を観てびりびりとふるえるものがあった、作中、文学に対する茶化しが入るが、そこに立脚するのだというつよい意志を感じた、とはいえ演出にほとんど荷重がないのとそれに伴わなくても役者の完成度がまだまだ甘いので次回はぜひ克服してほしい

その他についてはまた後日触れる。

いまはピエール・ブルデュー×ハンス・ハーケ『自由-交換』、ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』、『谷川雁セレクション』、廣瀬純『蜂起とともに愛が始まる』などを読んでいる。

ふたたび受胎(気おくれ風の

チリの話は『チリの闘い』のDVDがとどいてからにする。この予告を観るだけで涙がこぼれそうになる。今年の9/17(日)と22(金)、PFFで一挙上映されます。


鈴木洋平『丸』、きてれつ! 闖入者がもたらす静止、によってうごかされるドラマ、その停滞、それを打破するのは暴力、その持続が途切れるとき映画も幕切れる、理解できないものに遭遇したときにわたしたちは停止するのか? そしてそれを打ち砕くことができるのは暴力だけなのか? 静/動のダイナミズムによって物語はごろごろと転がってゆく


マウゴシュカ・シュモフスカ『君はひとりじゃない』、wierd film! コメディであり、スリラーであり、ミステリーであり、家族を描いたドラマである、邦題のさす「きみ」はアンヌを指しているように思った、ボディという原題、からだと霊(精神)を分けるとして、検死を生業にする父と、身体の治療をおこなう現代科学の精神科医と、霊媒セラピスト・アンヌのはざまで、拒絶者としてのオルガ(拒食=自らの身体への拒否、父への嫌悪、母の死を受け入れられない)が立ちなおる、家族の関係性が回復する、そういう話として受けとれる、一見シリアスと思われるひとの死や、崇高なものとしてのスピリチュアルな要素がギャグとしても立ちあらわれるように演出されており、その二重性がおもしろい(ぼくが観た回はあまり客入りがよくなく、わらいがすくなかったのがさびしい)、そして何よりも幕切れのしかた! 霊媒ポーランド人がどうとらえているのかが気になる

https://t.co/QY5uZ6mIP5

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挿入歌ビキニデスがとてもよい


ジャコメッティ展@国立新美術館、背中の気配、存在が際立つほそまった造形、「見たままにつくること」でできあがってきた彫刻があのようなかたちをしていること、〈孤絶-角〉をおもいだす、それぞれがそれぞれの仕方で存在=孤絶していること、それが時代を超えてわたしの胸をふるわせること、もともとは観にいくつもりはなかったのだが、ソーニエ展で読んだテキストで言及されており、時間も空いたので足を運んだのだがきてよかったと心底思った


新聞家『白む』@BUoY、テキストの幸福さが、切実な語りとそれに耳を傾けるいくつもの直線上で反転し、ホラーとして浮きあがる、役者後方の暗闇、この空間の廃墟感によって、語り口と、この「暑い」熱帯的空間によって、恐怖として現前する、前半はそんなことを思った、稽古ににどほど参加している身としては、(志村や若菜(名前がうろおぼえ)といった色恋の不穏さはあれども)幸せの断片として読まれるテキストを感受していたので、これがどのように結実するのだろうかという期待をもって今回の公演に臨んだのだが、はじめてきく箇所だけではなく稽古場ですでにきいていたテキストがまったくちがう立ちあがりかたをしていて、なぜこんなに怖いのかをずっと考えていた、この怖さの質、黒沢清のゆれるカーテン、稲川淳二の怪談、きのう観た『丸』のような異質性との対峙として? 反転、逆転、子供が生まれたという祝福的な幕切れに対していだいた安堵はその出来事ではなく、サスペンスが「着地」したことから生まれたのではないか

熱帯的空間について、会場のBUoYはまだ設備がととのっておらず、でかい扇風機(うるさいので上演&トーク中は切られた)だけが空調設備としてそこにある状態で、とにかく暑い、演者も普段の稽古とは何がちがうかと問われて第一声「暑い」をこぼすほどに汗ばむ空間、それは観客もいっしょで、つまりはダメージをともに受ける、共苦する場、になっていた、共有、円を描くように座る観客と演者の同列の気配のなかで作品は上演された

[ツイートした感想]
意見会で大石英二がいった「いまを信じつづけるしかない」というワード、これを共有不可能な道のりにおいて共有しようとする試みが、作内の「尊ぶ」る事象と結びつく感動の源泉/演劇の核であることを、ともに信じつづけられるかが試される「幸福の折りたたまれたホラーサスペンス」として観た

感想会の村社祐太朗の言葉をきいていて思ったのは、稲川方人の倫理性をもっとべつのかたちでそびえさせることによって新聞家のテキストは成り立っているのかもなということ、つまり執筆/発語のまえで立ち止まり、辛抱しつづけることでより正確で、きびしい、切実さをはらんだ言葉、村社の言葉でいえば「事実に嘘をつかない」言葉がうまれる

その事実の「確かさ」は内野儀が指摘していた通り、観客にはわからないものとしてあるがゆえに想像することが試され、観客の負荷を増大させる。大文字の「フィクション」に寄りかかっていればいい作品ではないことを理解するには、初見者にとって新聞家の演劇はだいぶハードルが高く、ともすれば拒絶の対象として映る(そしてこの理解不能性があるがために一種の尊さが作品に宿る)。

ゆえに、この新聞家の作品と向きあう(向きあわない)ことによってはじきだされる「目が曇り、耳がとじているひと」を、意図しようがしまいが切りすててしまう選民主義的ふるまいの危険性にどう対峙するのかが、こんごの方向性を左右するポイントではないだろうか。この「誠実さのあぶりかえしの現場」が作品の内部ではないとみなすことができるのは、内野儀がアフタートークでいっていたように、「新聞家の公演は観客への負荷がひじょうにおおきい」ことからもわかる、そこに耐えれるか、耐えれないか、ぼくの問題系でいえば宙吊りに耐えうるひとであるかどうかがそこで試されているのである(そうした耐えられない観客たちに対する村社の「さびしいですよね」という感情の、行方を見定めること)

公演本編→意見感想会→アフタートーク→質疑応答とすべてその場で体験しおわったあとの充実感はなににも替えがたいものだと思った、なぜわたしはこんなにも充たされているのか? 以前『揃う』を観たときの感想会での、観客が自分の言葉をその瞬間瞬間で探りながらつっかえつっかえ発話しているその切実さ、『鶯張り』第1話「ケージ」における、電車やバイクの走行音や街を行き交うひとの声にかきけされまいと、ごくごくちいさなボリュームに設定された拡声器を以て言葉を発する峰村菜月と、それをなんとか聴き逃すまいとする観客たちの懸命さが、この感慨にかさなる

「人が話し、人が聞く」という演劇の骨組みを突き詰めた結果としてのこの行為こそが、共有不可能な道のりにおいて「いまを信じること」を共有しようとする試みであり、観客であるわたしもそれを信じたいと思うがゆえに、新聞家の作品はひととひとのあいだでドラマティックに立ち上がり、わたしたちの胸を打つのである。

わたしはわたしの為すことに自覚的でありたい

感情は論理に優先する。魅力的な批評はその飛躍力=想像力にかかっている。イデオロギーと信仰にちがいはあるのか。それを分かつものが普遍性だとして、それは何を意味しているのか、アクチュアルであることとジャーナリスティックであることと、そのこと自体の普遍性に目をやること。唯物史観の否定について。わたしはわたしの為すことに自覚的でありたい。

気温がひくくなってきてテンションがアガる。明日は最高気温が20度だという。このまま秋に突入してくれればよい。9月、恋人がドイツへゆく。ドクメンタ、おれは次回かな。もう四半世紀を生きのびてきていていちども海外いったことないんだよ、去年せっかく10年パスポートをつくったのに。南米、中東、北欧あたりにいきたいです。でもさいしょはアジアかな。

中東といえば、ファルハディの脚本、ちょっと天才すぎない? と『セールスマン』を観て思った。過去作である『別離』も『ある過去の行方』もいちど観ただけでは把握しきれないほどの伏線だらけで、この緻密さ、用意周到さはすんごいなあと舌を巻くばかりなのであった。とにかくサスペンスフル。どうしようもできない状況、やり場のない感情の宙づり、アンビバレンスの葛藤、そうしたものを描く脚本を書かせたら右にでる者はいない、というか現代映画でファルハディよりすごいものを書くやつをみてみたい、そんなことを思わせる、細部までつめられた脚本(冒頭の女優に対するわらい、タクシーの男性嫌悪の女、父がいない学生、トイレはひとりですると女にいい放つ男児=女性が抑圧されるイラン/イスラム社会……)、こうしてまたハズレのない監督だという思いを強くするのであった、劇中劇のシーン、PA卓のカットが画面に重ねられるのは何を暗示しているのだろう?

またパレスチナの作家カナファーニーの『ハイファに戻って/太陽の男』がさいきん文庫化して、はじめの2本を読んだのだがこれまたおもしろい。こちらもファルハディ同様やるせなく、どうしようもない状況に生きるひとびとを描いているのだが、その描写のなかにあらわれる行きつ戻りつな時制のあつかいかたがなんだか新鮮で、なんてとこよりも故郷を侵略され強烈な太陽のもとをさまようしかないという現実から生まれてくる物語のつよさにうちふるえるばかり、おもしろい、とかひとことで片づけてはいけないと思わせる切実さがある。一時期井筒俊彦を経由してイスラム文化にあたまをつっこんでいたのだが、またつっこみなおしたいと考えている。まずはカンドゥーラでも買うかな。

南米といえば先日パトリシオ・グスマンの特集上映にいったのだが、その話はまたこんどにする。アテネフランセである。金子遊レトロスペクティヴにも足を運んだのである。はじめて訪れたのだが、観るポジションを探るのがむつかしい劇場である。寝る。

茶濁すように客体になる

バランスをとる。

ピュアジョイのマンゴージュースがうまい。アップルも配合。カルディで買った。

祝日だが出勤だ。明日まででれば盆休みになるはず。このはず、がとても嫌だな。だからおれははやく独立したい。だって自分の意思とはべつのところに自分の時間を支配されてるってのはとても嫌じゃない、おれが元号がきらいなのはそのいちめんもあるかもしれない、いや単純に西暦と混在していてわずらわしい、いやそもそも西暦も、

クスクスをはじめて食べた。バミヤ(牛肉とオクラのトマト煮込み:アラブ料理、これもはじめてつくった、というよりありあわせを組みあわせたらできた)といっしょに。大いにありだと、主食ルーチンに組み込めるらくちんさ(塩と油を入れたお湯でふやかすだけ)、うまさだと思った。

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○バミヤとクスクス

また牛カツのサルサソースじゃ! とつくったものはボリビア料理のシルパンチョというものに酷似していた。写真はない。異国料理マンになろうと思う。つぎはフムスをつくる。

ナンディニ虎ノ門店(虎ノ門・新橋・御成門の中間地点にある)のノンベジミールス、ちょううまかった……これで1300円とかあんびりばぶるだよ

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○ナンディニのノンベジミールス

おれにもしすぐれた力能があるとすればそれは料理のスキルで、それはいまの仕事(編集者)にとても役立っていると思う。編集は生涯のなりわいにしてゆくつもりだけれども、将来的には本格的に飲食にも手をだしたいと考えている。場をつくる、これに尽きる