今朝を刷ったひかりのやうに

『はなればなれに』を観た。ゴダール。スクリーンでははじめてだ。『勝手にしやがれ』しか観たことがなかったので2本目になる。カメラ-運動-シネマ-ゴダールという感じで、ゴダールってコレだよね! とひとり得心していたが、たった2本の鑑賞経験で何をいっているんだと上映中終始くすくすわらっていたシネフィルにぶん殴られそうだ、おおシネフィル! 客席はほぼ埋まっていて(満席?)で根づよい人気を思いしった、ハル・ハートリーの『シンプルメン』のダンスシーンが好きだし、下手大輔の同名作『はなればなれに』もよかったからずっと観たかったのだ。映画は死を引き延ばす、しかし好きな監督かと問われるとそうではない気がする。

排気口『静かにできない私達、も』は作家が新しい方へと向かおうとする変移の過程にある作品だった。作風やその向かう先はちがえども、その点でいえばsons wo:『シティⅠ』の観劇後にいだいた印象*1とちかいものがある。劇中でなされるシステムの話(生と死をわけ隔てる魂の存在や、オリジナルの劇中ゲームであり、あるルールのもとで厳密におこなわれる「マーズおにごっこ」など)と、演劇という方式が重なるようでいて重ならない、そこでのリアリティのあり方が、いびつな役者のあり方や徹底しないリアリズムといったさまざまなほつれをもってゆさぶられる、その感じが奇妙でひっかかりをもたらしていたのだが、完成度が高かったかと問われれば、これまでにもっといい作品をつくってきているだろうといいたくなるものだった。脱皮しきった次回に期待したい。おれもフライヤーもっとがんばろう。

*1:観たあとにツイートしそびれていた感想/sons wo:『シティⅠ』。発語、身ぶりともに方法の更新を図ろうとする意識があり、それに伴って細部における適当さ(これが好きだった)を削いでしまったきらいがあるのだが、全体を通観してみると未完成なものという印象。Ⅱ、Ⅲに至るまでの実験作のような。素材の配置のしかたには共感を覚える/前作では『〈孤絶-角〉』を想起させるような人々の関係性に痛烈に感動したのだが、今回その要素は非常に薄まった/限定的状態で提示されるに留まっていた。時代の変化を、未生からネオテニーのレベルへの変位に転写すること。その先にしぼりだされる切実は空回ることなく表出可能か、という問い=試み

『キングダム』『キングダム2』を観た。ラース・フォン・トリアーのやつである。10時間でイッキ観である。tnlfである。毎年ぐっどなプログラムを組んでくれているいいイベントなのでみなさんもいきましょう。本上映は2/11~。詳細はこちら。2012年のtnlfで嗚咽を漏らす寸前まで滂沱の涙を流した作品『マンマ・ゴーゴー』の監督であるフリドリック・トール・フリドリクソンの過去作『コールド・フィーバー』が上映されるのがアツいです。

アピチャッポン展も観た。亡霊たち@TOP Museum。リニューアル後はじめて。おお、新しいと入った瞬間は思ったのだが、そんなに変わっていないのか? と展示をまわりながら思案した。ただひさびさだっただけか。透明のアクリルかなにかに映像を投影した《花火(アーカイヴス)》がうつくしくていつまでも観ていられた。暗闇のなかで光がバチバチとフラッシュする。その光に照らされて、ひとが映ったり、草が映ったり、石像が映ったりする。映像は透明なスクリーンを支持体にしながらすりぬけ、はねかえり、床や壁にも映しだされる。部屋がひかるのと同時に、シャッターをきる音がきこえる。展示室の中心部にスクリーンがあるので、裏面を覗こうとしたら学芸員にとがめられた。かなしかった。

アピチャッポンはちかいところでもとおいところでもすごいすごいいわれていて、わたしはこれまでに『世紀の光』と『光りの墓』を観ており誰のものでもない視線の緊張なんかはおもしろいと思いつつそんなによいのかと懐疑的であったし、その考えがくつがえされたわけではないのだけれどまあまあいい展示だったなと、書きおく。惜しむらくは映像プログラムを観そびれたことだ。

そして一昨日には『ドント・ブリーズ』を観た。長回しによる息をひそめたくなる緊張感と、予想を超えてきたサイコな感じと、引き延ばし感のある終盤のぬるさをミックスすると、おもしろかったー! という感想がでてくる。ひさびさに映画館でホラー観たな。ひとりで観にきていた隣の女性が上映中「ひっ」とか「やっ」とか息をのんでいる様子がよかったけれど、エンドロールでガヤガヤビカビカしだす客ばっかりで萎えた。

ユーリー・ノルシュテインのいくつかのアニメーションも観た。ウォームでいて崇高な感じ。奥行きを感じさせるフレームワーク/演出にしびれた。レーニンはカッコいいよな。女性客がたくさん入っていて、なるほど『ひなぎく』のようなかたちで受容されているのかとあまいにおいで充満していたいつかのイメフォを思いだした。

フライヤーをつくった排気口の新作も観にいった。これはまたのちに触れる。

春のガラスに張りついたババアだ(広々とあかるい

網棚に置かれたタバコのケースがわたしのカバンをとるうごきによって真下の席に落下し、ふたりの人間のあいだにはさまった。何が落ちたのかを把握する暇もないまますみませんと声をかけると、親切なおじさんは無言でそれを手にしてわたしに渡そうとする。あ、タバコかと落下物を認識し、いや、ぼくのじゃないんですよと弁解してその振るまいを台無しにしてしまうことに躊躇するとともに、降車しそびれることを危惧したわたしのカバンのなかにはライトブルーのマルボロが10時間ほどしまわれることになる。

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わからなさをわからなさのまま呈示することの予定調和性に抗いながら、そのわからなさの核を伝える。ものごとをあらわす際の姿勢として、気をつけたいと、説明的な身体パフォーマンスをみて思った。わからないことの前提、ディスコミュニケーションという地平の前景化をおこなってもいまさら感しかないでしょみたいな。問題意識の設定はむつかしいよな。変な社会性みたいなとこに足をとられると自由にうごけなくなってしまうよ。極私的であることは免罪符としても成立してしまうとは思うのだけれど、その足場から発することのつよさにおれは懸けているような気がする。何に自覚的で、何を切り捨てていくのか。また今月も投稿できなかった。ウンコだ。

薄くなった風船をさいしょの乗りものにする

凹のへこんだ位置のような時期を過ごしているような気配がする。凸の突端へ向かう一歩目を踏みあぐねている朝夕だ。ナムジュンパイク展の後半をワタリウムに観にいった。前半もそうだったのだけれどあんまりピンとこなかった。ノスタルジーが過ぎるんだ。一緒にいった同世代の友人はおもしろかったといっていたので、若いひとがたのしめないわけではないのだろうが。前半のときにあった吉増ゴーゾーの朗読はカッコよかった。朗読への興味が増すばかりだ。ギンズバーグやケルアック、バロウズらの若いころを描いた映画『キル・ユア・ダーリン』にそんなものを期待していたのだが、ほぼなかった。ジェームズ・フランコ主演の『HOWL』、どこかで上映されないだろうか。キルユア~と同じくオトカリテあたりで。

宣伝です。
排気口の新作公演『静かにできない私達、も』のフライヤーをデザインしました。
1/27-29の金土日、新宿ゴールデン街劇場にて。

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ぜひご来場ください。
詳細・ご予約はこちら

べつの夜鳴き

2017年、とても未来感がある。なぜか。20年前の97年がちかいと感じるからか。たとえば2015年、20年前の95年の記憶なんてほぼない。とここまで書いてべつに97年にも記憶なんてないことに気づく。そんなことを思った。毎年未来感を感じているのだろうか? いやそうではない気がする。今年はこのブログをはじめて最初の年越しだから、今後5年10年の年が明けたころのきもちをふりかえるときのことをたのしみにしておく。

カラックスの『汚れた血』を映画納めにし、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を映画初めにした。モダンラヴ、サイコーだ。『フランシス・ハ』を観返して、その流れでカラックスへいった。『汚れた血』ももちろんすばらしいけれど、『ポーラX』がいちばん好きなんだ。先日触れた『リプライズ』然り、ものをつくるひとの苦悩を描いた作品はいいよな。

あとは『マッドマックス』や『バタリアン』や『ホーリー・マウンテン』などを観た。それぞれにさまざまな方向へ振りきっていってよかったです。

フライヤー、たんぶらーにすらアップできてないので今日やります。

試す石を探しにゆくひとといる

年末感というものがあるとして、いまそれにつつまれてきている。三連休である。鼻血がでるレベル。生きててよかった。

今日はパーティへいった。家でやる前にお呼ばれをした。しらない家でみしったひとたちとテーブルや絨毯を囲んだりし、辛い骨付き肉やバターたっぷりのケーキを食べるなどした。ハゲタカのえじき、おもしろかった!

そのほか、ミントを植え替えたり、フライヤーをつくったりもした。明日にはたんぶらーなどで告知をするので、時間差でここでもおこなう心構えだ。なかなかカッコいいものができた。自分でそう思えるものをつくっていかないとほんとだめだと思う。そのためには妥協しない骨が必要だ。たたかう素振りのにどと一致しない周回路だ。

明日は町へくりだす。

うつぶせの樹の倒立するまで

うちにはIKEAで買ったビリーが3台ある。ビリーとは本棚のことだ。でかくて重くてやすいやつなのだが、先週末はそこに漫画をぼんぼん詰めこむ作業をした。まったく入りきらず、漫画に熱をあげていた大学時代=青春のほとばしりを感じて「すごいなあ」と感動していると、いっしょに住んでいる恋人に呆れられた。シュリンクがかかったまま1巻-最終巻という積読家が涙を流して肩を叩きあう光景がたやすく想像できるようなブツもあるから、仕方あるまいと思う。コミティアで買い漁った漫画たち(とくにコピー本)の扱いに困る。コミケに毎回いくようなつわものたちはいったいどんな風に収納しているのだろう。

本棚がある生活は実家にいたころ以来なのだが、この「自分の棚」をつくる作業がたのしすぎてしかたがない。書店でいい棚を見かけるとテンションがあがるように、自分の棚は自分の好きな本しかないので、ながめるたびにうっとりとする。将来、わたしの家には壁いちめんを本棚で埋めた書斎があり、その部屋にしのびこんだこどもたちが、目についた背に指をかけることを想像する。こどものころ、祖母や叔父の家の本棚から本を引き抜いて、こっそり読むのが好きだった。ああ、文化的再生産。マジディスタンクシオン。たのしいおばあちゃんになりたいよな。

鉢植えと土を買った。春になったらバジルとパクチーと大葉を蒔くんだ。伊勢丹には葉脈がひかる草がうっていていいなあと思った。今日でフライヤーに決着をつけられるといい。1/27-29のどこかはあけておいてください。手がけている本も2月の末には刊行される。ZINEもつくろう。みんなあそぼう。来月はホームパーティーをやる。詩は投函できなかった。代わりに詩を読む。読みまくる。