春のガラスに張りついたババアだ(広々とあかるい

網棚に置かれたタバコのケースがわたしのカバンをとるうごきによって真下の席に落下し、ふたりの人間のあいだにはさまった。何が落ちたのかを把握する暇もないまますみませんと声をかけると、親切なおじさんは無言でそれを手にしてわたしに渡そうとする。あ、タバコかと落下物を認識し、いや、ぼくのじゃないんですよと弁解してその振るまいを台無しにしてしまうことに躊躇するとともに、降車しそびれることを危惧したわたしのカバンのなかにはライトブルーのマルボロが10時間ほどしまわれることになる。

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わからなさをわからなさのまま呈示することの予定調和性に抗いながら、そのわからなさの核を伝える。ものごとをあらわす際の姿勢として、気をつけたいと、説明的な身体パフォーマンスをみて思った。わからないことの前提、ディスコミュニケーションという地平の前景化をおこなってもいまさら感しかないでしょみたいな。問題意識の設定はむつかしいよな。変な社会性みたいなとこに足をとられると自由にうごけなくなってしまうよ。極私的であることは免罪符としても成立してしまうとは思うのだけれど、その足場から発することのつよさにおれは懸けているような気がする。何に自覚的で、何を切り捨てていくのか。また今月も投稿できなかった。ウンコだ。

薄くなった風船をさいしょの乗りものにする

凹のへこんだ位置のような時期を過ごしているような気配がする。凸の突端へ向かう一歩目を踏みあぐねている朝夕だ。ナムジュンパイク展の後半をワタリウムに観にいった。前半もそうだったのだけれどあんまりピンとこなかった。ノスタルジーが過ぎるんだ。一緒にいった同世代の友人はおもしろかったといっていたので、若いひとがたのしめないわけではないのだろうが。前半のときにあった吉増ゴーゾーの朗読はカッコよかった。朗読への興味が増すばかりだ。ギンズバーグやケルアック、バロウズらの若いころを描いた映画『キル・ユア・ダーリン』にそんなものを期待していたのだが、ほぼなかった。ジェームズ・フランコ主演の『HOWL』、どこかで上映されないだろうか。キルユア~と同じくオトカリテあたりで。

宣伝です。
排気口の新作公演『静かにできない私達、も』のフライヤーをデザインしました。
1/27-29の金土日、新宿ゴールデン街劇場にて。

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ぜひご来場ください。
詳細・ご予約はこちら

べつの夜鳴き

2017年、とても未来感がある。なぜか。20年前の97年がちかいと感じるからか。たとえば2015年、20年前の95年の記憶なんてほぼない。とここまで書いてべつに97年にも記憶なんてないことに気づく。そんなことを思った。毎年未来感を感じているのだろうか? いやそうではない気がする。今年はこのブログをはじめて最初の年越しだから、今後5年10年の年が明けたころのきもちをふりかえるときのことをたのしみにしておく。

カラックスの『汚れた血』を映画納めにし、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を映画初めにした。モダンラヴ、サイコーだ。『フランシス・ハ』を観返して、その流れでカラックスへいった。『汚れた血』ももちろんすばらしいけれど、『ポーラX』がいちばん好きなんだ。先日触れた『リプライズ』然り、ものをつくるひとの苦悩を描いた作品はいいよな。

あとは『マッドマックス』や『バタリアン』や『ホーリー・マウンテン』などを観た。それぞれにさまざまな方向へ振りきっていってよかったです。

フライヤー、たんぶらーにすらアップできてないので今日やります。

試す石を探しにゆくひとといる

年末感というものがあるとして、いまそれにつつまれてきている。三連休である。鼻血がでるレベル。生きててよかった。

今日はパーティへいった。家でやる前にお呼ばれをした。しらない家でみしったひとたちとテーブルや絨毯を囲んだりし、辛い骨付き肉やバターたっぷりのケーキを食べるなどした。ハゲタカのえじき、おもしろかった!

そのほか、ミントを植え替えたり、フライヤーをつくったりもした。明日にはたんぶらーなどで告知をするので、時間差でここでもおこなう心構えだ。なかなかカッコいいものができた。自分でそう思えるものをつくっていかないとほんとだめだと思う。そのためには妥協しない骨が必要だ。たたかう素振りのにどと一致しない周回路だ。

明日は町へくりだす。

うつぶせの樹の倒立するまで

うちにはIKEAで買ったビリーが3台ある。ビリーとは本棚のことだ。でかくて重くてやすいやつなのだが、先週末はそこに漫画をぼんぼん詰めこむ作業をした。まったく入りきらず、漫画に熱をあげていた大学時代=青春のほとばしりを感じて「すごいなあ」と感動していると、いっしょに住んでいる恋人に呆れられた。シュリンクがかかったまま1巻-最終巻という積読家が涙を流して肩を叩きあう光景がたやすく想像できるようなブツもあるから、仕方あるまいと思う。コミティアで買い漁った漫画たち(とくにコピー本)の扱いに困る。コミケに毎回いくようなつわものたちはいったいどんな風に収納しているのだろう。

本棚がある生活は実家にいたころ以来なのだが、この「自分の棚」をつくる作業がたのしすぎてしかたがない。書店でいい棚を見かけるとテンションがあがるように、自分の棚は自分の好きな本しかないので、ながめるたびにうっとりとする。将来、わたしの家には壁いちめんを本棚で埋めた書斎があり、その部屋にしのびこんだこどもたちが、目についた背に指をかけることを想像する。こどものころ、祖母や叔父の家の本棚から本を引き抜いて、こっそり読むのが好きだった。ああ、文化的再生産。マジディスタンクシオン。たのしいおばあちゃんになりたいよな。

鉢植えと土を買った。春になったらバジルとパクチーと大葉を蒔くんだ。伊勢丹には葉脈がひかる草がうっていていいなあと思った。今日でフライヤーに決着をつけられるといい。1/27-29のどこかはあけておいてください。手がけている本も2月の末には刊行される。ZINEもつくろう。みんなあそぼう。来月はホームパーティーをやる。詩は投函できなかった。代わりに詩を読む。読みまくる。

騒々しいバスドラ、バスドラバスドラバスドラ!

音楽から朝がはじまっていく。生活がある。タークのフライパンをさいきん買った。とにかく肉がうまい。つぎはバーミキュラの鍋を買おうと思っている。ボーナスが満額でるらしい。ロードバイクとレコードプレイヤーを買う。ロードはラレーのCRF。クロモリ。今朝はラディアンの新譜からゴーゴーペンギン。洗濯をして朝御飯を食べ役所に行きフライヤーをデザインする。明日は本棚を組み立て表参道で買い物をする。今月はひさびさに詩を投稿できる気がする。2ヵ月ぶりの連休がいまはじまる。

(通りすぎる宿命としての)折れる名前の反発

ヨアキム・トリアーの『母の残像』を観た。彼が立つ場所は文学である。文学からの沸騰/要請がカメラを回し、演出をかける。ここで名指す文学とは詩でもある。言葉に頼りすぎてどうしようもなくなってしまう映画がよくあるが、彼はその悪弊に陥らずに「映画的」に映画を自立させている。

長編第一作『リプライズ』では、、、、、。
つかれたな。おれはつかれたよ。
とにかくヨアキム・トリアーはめっちゃいい。とくに『リプライズ』。ラース・フォン・トリアーももちろん好きだけれど、あんなに暗くないし(『ボス・オブ・イット・オール』はまだしも、『イディオッツ』とかあかるい雰囲気をもっていておかしくないのにくらーい感じでしょ、いいよね)。とはいえ『オスロ、8月31日』なんかは陰鬱な00年代邦画的アトモスフィアをかたちづくっていてそれもまたいいんだ。

明日は休みだ。ハッピー。