まぶしく語る

せっかくチェルフィッチュ当日券アタックできる時間に退勤できたのに家にめがねをわすれ、というか本来は昨日いって今日はロメールにいくはずだったのにむだばなしでつぶされ、どちらもまたけっきょく観れないのかとなみだでてくるので鎌田東二『言霊の思想』を買ってかえる(翌日にチェルフィッチュを観た、それはまたこんど書く

ひとを語るときにスペックという言葉をつかうおんながいて、おれはPCじゃねえぞと思ったのだが、こういう言語に何の違和ももたないで使う思考態度が平然とそこにあることのかなしみみたいなものをいわれてから数ヵ月経って思いかえしている。web上であれば一種のスラングとして、そしてデジタル空間ゆえの言語スタイルとしていいとは思うのだが……これも言葉狩り的発想? でもじっさいいわれてみるとやだからね。それに言語は変化しつづけるものであるということとこの反発は両立できるでしょ。アンチ言葉狩り、アンチ保守主義、アンチ非思考。

湯浅政明夜明け告げるルーのうた』、アニメのたのしさがあった、ノスタルジーが核(主人公ら子供世代)にないアニメ(作動しているのは親や祖父の世代)だ、子どもたちが主体となってうごく、大人たちは背後にあるものとしてかくれている、ルーがエロティック、あのピンクのあんよ、過去へと引き込まれていく老人と、未来へと歩みだす少年少女たち、おおきな壁がくずされ、頑固なカイの殻は破られ、彼らは確かな一歩を踏み出す、タイトルバックまでのイントロダクションがマジサイコー、自分のきもちを素直に言葉に乗せること、聞き取れるように、話すこと=放送のように一言一句、まちがえないように話すこと、

アニメのたのしさとは作画のたのしさである。アニメゆえの演出のことである。だが観おわったときに物足りないとおもってしまったのは本作のアニメがだめなわけでなく、おれ自身がアニメから離れすぎてしまったからのように思う。『夜は短し~』を観たときにもそんな感覚をいだいたのだけれども、テレビアニメを見なくなってしまったがゆえの鈍麻からきている気がする。『マインドゲーム』を観なおしたいきもちだ。祝、アヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ。

マイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』、魅力的な予告編にたがわずめちゃよかった。映画的ワンダーではなく、語り口のまぶしさ。グレタ・ガーウィグはこういうエッジの効いたひとを生きる天才(『フランシス・ハ』、『ウィンナードッグ(トッド・ソロンズの子犬物語)』)だし、主演のおばちゃんもアメイジングだった、70年代末期のパワーあふれるおんなたちに囲まれ、ひとりの少年が自立し、おんなたちも自分の立つ位置を見つける、なんというかhaimの新譜のmvに似た感覚を感じた。

体温がちがう書式への憎悪

このひとに賭/懸けたいと思えるひとと関係していくこと。その継続が自分(のまわり)をつくっていく。それはとてもむつかしい。20代の課題だと思っております。

七里圭サロメの娘 アナザサイド remix』@三鷹SCOOL、「?」という感じ。ダンサーと演劇者を配する意図は? 音楽から映画をつくっているというのに興味をひかれて観にいったのだが、けっきょくはドラマに堕している。幾層ものレイヤー(複数の映像・音声の重ねあわせ)が映像のなかにあり、映像内に配置されたふたつのスクリーンの合間からにんげんがでてくるのはおもしろかった。そこには鈴木了二のいうようなマテリアルサスペンス=反物語的物質性の表出がある(先日k's cinemaで鈴木作品と七里作品の併映があったこと思えばそこに共通の問題意識がある/見いだせると考えても差し支えないだろう、ちなみにわたしは廣瀬純の言及によって「建築映画」をしったたちで、『建築映画』自体は読んでいないのでマテリアルサスペンスの理解が多少ずれているかもしれない、どちらかといえば松本俊夫の影響下において考えている)。ただ全体としてみてみれば、作品内にでてくるような大学生的サブカルを脱していない完成度としか思えず、ダンサーをメインの登場人物に置いているのに緊張感のない弛緩しきった身体、すなわち画の力がないゆえのしょうもない身体がうつしだされていて、???となった。青柳いづみの声の力もこのようなあらわれかたではひびいてこなかった。

おもしろいダンス/身体とは何だろうかと考えながら観ていたのだが、やはりまいかいつきあたるのは、身体と言葉(意識の場所といいかえてもいい?)の関係性におけるテンションのつよさである。そこにわたしはひかれる。その点でいうとオフィスマウンテンの公演はひじょうに興味深い。

オフィスマウンテン『ホールドミーおよしお』@STスポット、のまえに前作の感想メモを。ちなみに、前回の方が断然よかった。

オフィスマウンテン『ドッグマンノーライフ』@STスポット。エクスキューズ*1をエクスキューズとして提示しない、もしくは非エクスキューズをエクスキューズとしてなげかける? 外に露出した支柱を用いて建てられた小屋のような。振り付けが単純におもしろいし、その浮かなさがよかった。もっと笑いがでる回(客)だとグルーヴがでてよかっただろうに。

*1 ここでいうエクスキューズとは、舞台に立ち、演技をすることに対してのエクスキューズである。

『ホールドミーおよしお』、前作に比べ人体のレイアウト、が前にでてきた気がする。だがその印象-イメージの薄さ(役者の自我コントロールと意識の行き先の断裂による?)が気になった。すぐれた役者と、そうでない役者のちがいがそこに集約されており、きちんとテンションをかけられるひとたち(大谷、横田、矢野)は◎、それ以外は×、の極端さが「酷な光景」を立ち上がらせていた。その凸凹さが魅力に映るかどうかは観客次第だが、わたしはまったくよく思えず冷めてしまったし、そのような意図のもとに本作がつくられているわけではないだろう。言葉遊びがふんだんに盛り込まれたテキストは相変わらずくだらなくておもしろいし、振り付けも観ているこちらがどきどきする魅力をもっている(前作の方がよかったけれども)のだから、稽古で何とかするかもしくはキャスティングをきびしくしてほしいと思った。

そして書いていて気づいたのだがこのテンションのかかった身体というのはまさにマテリアルサスペンスを引き起こすものとして見なしうるのではないか?

身体関連でもうひとつ。シアターパントマイムフェス2017Aプログラム@スタジオエヴァ。パントマイムの公演をはじめて観た。そこで考えたのはパントマイムにおける身体は物語を志向するということだ。演劇やコンテンポラリーダンスの身体が、物語との癒着を避けるものとして存在する(しないものも数多く、というより大半かもしれないがそれらには興味がないのでここでは問題にしない)のとはまったく逆の方向へちからがかたむけられ、演者は言葉なき物語を駆動させようとする。そこにエクスキューズはなく、観客は気恥ずかしい思いをしながらも演者と共犯関係をむすびながら「想像上の光景」を幻視することを試みる。その際に問題として挙げられるもののひとつに、パフォーマンスの巧拙があるが、パントマイムにおける巧さの正体とはいったい何なのだろう?

本公演はフレッシャーズ公演と銘打ってあり、若手と思われるパフォーマーがそれぞれ10-15分程度の演目を行うオムニバス形式のイベントだった。最後はゲストと称して、ヴェテランが掉尾を飾っていたのだが、それまでの演者とはあきらかにちがう質感の空間を舞台上につくりあげていた。演技における自我コントロールがよくいきわたっていたし、何より行為=状況のイメージのしやすさがあった。これを喚起力をもった抑制された身体といいかえてもいいが、これはダンスや演劇におけるすぐれた身体とイコールでむすびうるものである。その身体によって喚起されるものが物語だけでなく、そのもととなる「異質な身ぶり」自体も同時に前景してくるのがおもしろい。このあたりで思考のための執筆が、書くための執筆になってきた気がするのでとぎるが、物語を志向しながら、同衾を拒みつづけること。それがパントマイムのひとつの極点として考えられるのではないか。パントマイムの世界にも、ダンス/コンテンポラリーダンスのような区分けはあるのだろうか。ラディカルなパフォーマーがいるのであればまた観てみたいと思った。

その場でくるりとまわる身ぶりによって時間・場所が切り替わることを意味させるパントマイムの文法はおもしろく、はじめて観るひとでも瞬時に理解できるこのうごきは発明だなと思った(マームでもそんなシーンがあったような気がするが記憶が定かでない)。

森めいたうごきを教える/先生ですからね

本を読むことは左翼になることである。そういいたくなるほどに日々左へすすんでいる気がする(廣瀬純の「~である右翼」、「~になる左翼」に対応して?)。小学生のころを除いていちばん読書している。いま読んでいるのは、鈴木大拙『日本的霊性』、現代詩手帖2017年6月号、レーニン『国家と革命』、絓秀実・木藤亮太『アナキスト民俗学』。それぞれべつの場・時間に手に取っている。直近ではユリイカ2017年6月号がアウト(読了)、すばる2017年7月号、スペクテイター39号がイン。

佐藤満夫・山岡強一『山谷―やられたらやりかえせ』。なんていいタイトルだろうか。映画の出来がいいかどうかは措くとして、命がけで作品をつくるというのはこういうことだと心がゆさぶられる(本作の監督は、ひとりは撮影中に、もうひとりは完成後にヤクザに殺害される)。日本全国の寄せ場を紹介するシーンが途中ではさまれるのだが、その際にくりかえしかけられるドラムの効いたBGMがおもしろい。

ロバート・クレイマー『アイス』。60年代末期のひりついたアメリカで革命のときを待つ若者たちを描いた劇映画。ぜんぜんピンとこず寝てしまった。同じ「革命の映画」でも『チリの闘い』の方にシンパシーを感じる。メカスはどこにでていたんだ?

生まれてはじめて吉原にいった。いったといっても町をふらついて新吉原の手ぬぐいやカストリ書房の棚をながめたくらいだけれども(記念にすけべえなステッカーを買った)。浅草、山谷、吉原とじっさいに歩いてみることで、その土地の関係性に思いを馳せたり、その空気をあじわうのはおもしろい。つぎはあの古めかしい店で天丼を食いたい。

石井裕也『夜空はいつでも最高密度の青色だ』。誰に向けての映画なのだろう、と思ってしまうなぞの文体(意欲的なカメラワーク、イメージ操作)にまず目をひかれる。そりゃもちろん若者だよなと思いなおす。福間健二のスタイルを想起したけれども、こちらはやっぱり若さがほとばしっている。こちらの欲望を着火させるようなエネルギー。その横溢が、すっかり身体化してしまった都市をからだからひきはがし、みなれた渋谷と新宿を映画として立ち上げる。反復運動のカタルシス

内容としては、震災やテロなどがからめられ、ずいぶんポリティカルなつくりになっていた。原作は積み本になってるので何ともいえないが、最果タヒってこんなんだったっけ? という驚きとともに観ていた。その驚きは、本作が原作モノのすばらしい映画化であることを何ら貶めるものではない。でかい世界に対峙するわたしの生活を、ていねいに、誠実に送ってゆくこと。

新宿バスタに降り立った主役ふたりの奥にみえるルミネの広告「言葉に頼りすぎると退屈な女になっていく」、サイコーだったな。そして何より、池松壮亮、ファンになった。

闘争文法の発動

想像の過剰は余剰分の切り捨て(ここで見えなくなるのは余剰したものとイコールで結ばれない)を作動させ……、と書きかけていたのだがいったい何について記そうとしていたのか思いだせない。たかだかみっかまえの、しかも言葉にしたことの記憶さえあやしいとは思いやられる。

福間健二特集へ足を運んだ。観逃していた『秋の理由』。同監督においては『あるいは佐々木ユキ』がすきなのだが、今作は映像の核が、持ち味である「詩」からドラマへとかたむいた感があり、あまり好みではなかった。主演の伊藤洋三郎の演技がひどかったのもマイナス要因。とはいえ女の子を撮ることに関しては、やはり福間健二はすばらしい。趣里は『恋につきもの』でもよい存在感をはなっていて名前をおぼえていたのだが、本作においても卓越したエネルギーをスクリーンにきざんでいた。また作家志望役の木村文洋も特異なたたずみを発揮していて、その監督作を観てみたくなった。上映後のトークはただ登檀者たちが並んで座っているだけでおもしろく、さらに話自体もそれぞれの老獪さが炸裂していたので非常に満足した。

あとはN.S.ハルシャ展@森美にいったり、ピラミデビルのギャラリー、complex665のギャラリーをめぐったりした。ルイジ・ギッリがよかった。『写真講義』は高くて買ってないのだが、いいたたずまいをしているよな。森美もベリファニーだった。

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イジー・メンツェルの『剃髪式』、はじめて観るチェコの監督で、ひじょうに多幸感にみちた映画だった。映画史上ここまでさわやかで、幸福な青姦シーンはあっただろうか。観おわったあと、想起したのはベルイマンの『野いちご』だった。女優がダーシャすこし似ていたな。

朝起きると顎がいたい。夜になっても痛いまま。睡眠中、歯ぎしりしまくっているのだろうか。嫌だな。

ちんたら書いてる場合ではない。速度、速度。

起草できる馬場にて

GWの収穫。小泉明郎「帝国は今日も歌う」@VACANT、ミヒャエル・グラヴォガー『ワーキング・マンズ・デス』@イメージ・フォーラム・フェスティバル2017。ともに今年のベスト級。前者の「いま目の前にしているものがよくわからないままにうちのめされる感」、この理解を超えた感動がなんらかの作品に対峙したときあらわれるものとして最上だと思っているのだが、ひさびさに感覚した、と思ったけれど先日DIC川村でマーク・ロスコの部屋に足を踏み入れたときも感じたのだった。自分がいま立っている(存在している)場がくずれはじめ、重力がねじれていくような作品自体の強烈さ。感情をゆさぶる強度が強度として迫り、身をぐらつかせる映像の力。現実がおそろしい、ほんとうにおそろしいと思わされた。マームとジプシー『COCOON』再演のときに感じた、いまわれわれが生きている時代/日本がもつ暴力をむきだしにしているように思った。皇居を撃つ作家の姿をみてうちふるえることを拒絶できない「わたし」の所在を考える。

後者も「この現実」にビリビリくるドキュメンタリー。世界の辺境ではたらく人々のすがたを、いったいこれどうやって撮っているの?(笑)というスタイル(カメラワーク、被写体との関係性、撮影者の不在感……)で映像に焼きつけた大傑作。ドキュメンタリー映画を観る際にまいかい考えるのは、これは映画として優れているのか、それとも映されている現実がすごいのかということなのだが、本作はその両輪がうつくしい調和のもとに、過酷さのなかで生きるワーキングマンたちの軌跡をちからづよく描きだしていた。ウクライナにある採掘禁止の炭鉱、インドネシアはイジェン火山での手作業による硫黄採掘、ナイジェリアの青空屠殺場、巨大船解体所inパキスタン、中国の近代化した製鋼所、ドイツのテーマパーク化されたかつての工場。すべて現代(撮影当時:2003-4年頃)の話であり、そこに生きるひとびとはわれわれと同じように家族があり、信仰があり、ボン・ジョヴィを聴き、歌をうたう(本作において、労働者たちはとにかく歌をうたう。それはひとつの生きぬくすべである)。鑑賞中は映しだされているシーン自体に驚嘆しっぱなしなのだが、とぼけたユーモアと「圧倒的現実」のつよさによってあぶりだされる資本主義の獰猛さ(どんなに末端の市場にもヒエラルキーが構成される……)にはとてもおそろしいきもちになる。

とりわけ注目すべきは、国家を支える労働者の、勇ましい弁舌がふるわれるソ連プロパガンダフィルムに、ジョン・ゾーンの高揚感あふれる音楽が重ねあわされることによって本作が始動することだろう(そして、このオープニングにより、観客はいまからはじまる映画が傑作であることを瞬時に理解する)。このような作品は、安全な地帯から映画を眺めるわれわれ観客が胸を撫で下ろすための映画になってしまってはいけないと思うのだが、ジョン・ゾーンの音楽は全編にわたり、その危うい回路を回避するための宣誓のように鳴りひびいていた。

パキスタンにおける巨大船の墓場は、2014年の横浜トリエンナーレでも題材にとられていた(ヤスミン・コビール)。原一男的ズームアップ、スローモーションが多用されたパワフルでエクスペリメンタルなその作品も印象深いものだったとグラヴォガーの映像を見ながら思いかえす。とはいえ『ワーキング・マンズ・デス』は、横トリのものとは異なり、そこではたらくひとびとの過酷さのなかのユーモア、使い古された鋼鉄のもつ崇高さ/無常感にスポットが当てられていたように思う。ちなみにエンドロールにではアウトテイクが使用されているのだが、ナイジェリアの屠殺場のシーンで豚の死体があらわれ、きみたちイスラム教徒なのにそんなことをしていいのかいとふきだしてしまった。

そのほか今年のイメージフォーラムフェスティバルではF(中村衣里『閉塞』/木村あさぎ『鱗のない魚』)、R(ミヒャエル・グラヴォガー『無題』)、T(ジョシュア・ボネッタ+J.P.・シニァデツキ『エル・マール・ラ・マール』)、U(ラティ・オネリ『陽の当たる町』)、J(ジム・モリソン『ドーソン・シティー』)プログラムを、展示では高木こずえ@αM、ジョージェ・オズボルト@タロナス、クリスタ・モルダー@kanzan gallery、椿会展@資生堂ギャラリーアブラハム・クルズヴィエイガス@メゾンエルメス、ダン・フレイヴィン@エスパス ルイ・ヴィトン、「待宵の美」@THE CLUB(GINZA SIX)なども観た。筆が乗れば後日触れようと思う。まあ、この記事をだらだら書いていた所為でもう5月も終盤なので乗らないでしょうね。ちなみにロスコは生で観るまではぜんぜんよさがわからなかった。対面してはじめて、モノとしてのプレッシャーの半端なさを実感し、感動した。

小林秀雄岡潔の対談(『人間の建設』)を読んで何をほざきちらしているんだこの老害どもはと呆れかえっていたのだが、『栗の樹』収録の「感想」を読みすすめるにつれてあ、小林秀雄はおもしろいかもしれないと思いなおし、そういえば安吾小林秀雄論を書いていたよなと『堕落論』をひっぱりだして読みかえすにこのアジテーションと野性味こそが! と鼻息を荒くする2017年5月夏日。

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排気口次回公演の仮チラシをデザインしました。
2017年8月末、新宿ゴールデン街劇場にて。
詳細含めた本チラシは来月公開予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。

なんどで、安全ピン、刺してなんどもとれて

松本俊夫が死んだ。もっとも影響を受けた映画(映像)理論家だ。おれの卒論は彼なしには成立しなかった。もちろん理論だけでなく、『アートマン』や『色即是空』などの作品にも感銘を受けた。作品はYouTubeにたくさんあがっており、ネットにつながってさえいれば誰でも見ることができるのだが、やっぱり劇場で観てほしいと思う。感動がぜんぜんちがう。あのサイケデリックアヴァンギャルドを泥酔状態で受容する、ということでいえば家で観るのもまた一興か。Ⅱ以後の刊行が滞っている『松本俊夫著作集成』もはやくでればよい。脱コード、脱コード。

『ストロングマン』、『夜は短し歩けよ乙女』、『クーリンチェ少年殺人事件』を観た。むさくるしいおっさんたちがはりあうくだらなさ、青春を縦横に躍動するアニメーション、埋没を強いる社会のなかで発光する若さのいらだちが◎だった。とくにクーリンチェは傑作傑作いわれるだけあって、圧のある映画体験だった(もちろん4時間あるという量の問題がおおきくかかわっているのだが)。余韻の持続、観おわったあとに劇場をでると世界が変わって見えるタイプの映画。小四の純粋さに魂が浄化される思いがした。そして10代を救いたいと、おれも思ったのでした。『夜明け告げるルーのうた』もたのしみだ。

『ヒメアノ~ル』と『ディストラクション・ベイビーズ』も観た。先日の二本立てにくらべたらだいぶ落ちるのだけれど、それなりにはたのしめた。とくに前者は森田剛ナチュラルなキチガイっぷりは「学校へ行こう!」なんかとのギャップもあってヒリヒリ。コメディタッチと殺戮の違和感なき同居がうまいぐあいに成立していた。明るく陽気な昼の世界から不穏で狂気的な夜の世界にギアチェンジしていくタイトルバックにもしびれた。

ディストラクション・ベイビーズ』は小松菜奈がセクシーだったなー向井の音楽かっけーなー菅田将暉おもろいなーって感じだった。ディスコミュニケーションの解決としての暴力を否定し、コミュニケーションとしての暴力を肯定する、まではいいとしても描きかたが好みではなかった。おなじ暴力的な映画でも『ケンとカズ』のほうがずいぶんよかったな。『NINIFUNI』観てみよう。

先々週ぐらいにころんでけがをした。柵としてのロープにひっかかり勢いよくアスファルトに転倒したのだった。ひざに水がたまるってのはこういうことかと実感している。にんげん身体おもしろコース。

詩は本質的に全体主義を拒絶する

過日、現在の演劇シーンにおいてもっともラディカルな試みを実践している演劇カンパニー・新聞家の、新聞家のケース『鶯張り』第1話「認可保育園」(なんと複雑な呼称!)を下北沢ケージにて観劇し、その行為が生起させる「出来事」の尊さと困難さに合点がいったので、ここ1年半ほどに観てきた作品群に関するメモを貼付/再読解しながら、彼ら、あるいはわたしたちの、孤高なたたかいについてつらつらと書く(はずだったのだが怠惰ゆえに頓挫したので、さらなる思考、次なる思考のためのノートとして書きつけておく)。


■メモ1. (2015.1『スカイプで別館と繋がって』@SNAC)
新聞家『スカイプで別館と繋がって』。事前的な了解を結ぶためのデモンストレーション、くわえて遊びのある意識のゆれが補助輪となって作品のそばを回る。決して結像しない記憶のあやふやさは映る位相での心的な体験として試される。批評性の矛先が制度を支持してしまっているのではという疑問が残る(「物語る/物語/手法」への言及=批評的視座)。
シニフィアンシニフィエ化。
この自己言及は突き放しではない。

Xという制度のなかで、そのメディウムの特性をきちんと身に引き受けたうえで、いかにしてそれを更新していくか。そうした格闘が文学や音楽や、映画などあらゆる場でおこなわれているが、新聞家もその例にもれなく演劇の場においてその実践をおこなっている。ある枠組みのなかでその枠組みを転覆させることの困難さは、真摯な表現者であれば誰しもがぶつかる点であるが、鑑賞時点のわたしの着眼点は

この時点のぼくの理解では、新聞家は演劇という制度の更新を

この『スカイプで~』を観劇して思ったのは、新聞家は難解からの脱却を図ろうとしているのだろうかということだった。いわゆるポストドラマ演劇で、それも独自のルールによってガチガチに固めたパフォームをおこなっている印象をこれまで受けていたのだが、今回はこちらに譲歩するような試みが垣間見えたような気がしたのだ。

■メモ2.(2015.5『川のもつれホー』@CLASKA
新聞家『川のもつれホー』。極限的ミニマリズムにおける身体とテキストの緻密な緊張関係はもはやダンスだ。遠景に浮かぶ亡霊の、親密さを周到に拒んだ静的な点滅。騒々しい近視的ダイナミズムが、遠視的フラットと=で結ばれる、その最大/最少のドラマ。懐かしさを孕みながら鳴る言葉が彼方へ流れ去っていく。
「川」という字に負荷を掛ける(ねじったり、つらぬいたり)ことで「ホー」となる。

彼らは上演中、ほぼ動かない。なのに、それがダンスに見える。新聞家を鑑賞して、2回に1回は思うのが「音楽」が加味されたものも観てみたいということで(近作ではそう思わないことが増えている)、これはテキストと身体の関係性がとてもダンス的なかたちで応答しあっているように思えるからだ。これは言葉によるダンスの振り付けというような意味ではなく、その緊張の張りつめかたが似ているということだ。
後藤ひかりというすばらしい役者がそれをまさに体現していた。

■メモ3.(2016.3『SABR』@UTILITY canvas
新聞家『SABR』。圧倒的なラディカルさにわたしたち観客は疎外されている(ように感じる)のだが、ふしぎと空間には親密な時間が流れている。何重にも引き裂かれている(身体、発語、衣装……)役者の、「噛み合っていないこと」があたかも噛み合っているようにみえるたたずまいはナチュラルな異形として目に映る。いくつもの相違が合致をみるとき、舞台上には珍妙なくちをひらく動作と効果音が連打される。そのユーモラスな様相とはうらはらの調和の尊さにしびれた。その後すぐさま「わからなさ」が「わかる」に変幻していく鮮やかさ。特徴的な手の芝居/動きはブレッソン的でさえある。

■メモ4.(2016.7『帰る』@NICA)
立ち上がりはじめた現象が、端のほうからほつれていく。語りかけない親密さ。そのしぐさ。いっぱいいっぱいな、確かめかた。こんな愛の語りかたがあっただろうか。にんげんが、桜や線香花火など、消えものに詩情を感じるとしたら、これはその「感じ」を舞台にあげているように見えた。タペストリーが編まれ、その先からほつれていく……。
後藤さんの寄り添いと理解不能性にたいして、横田さんの決裂と理解可能性が同時に起きている不思議さ。
90年代前半生まれの、未来の描きかた。過去を通った未来の描きかた、未来にゆけなさ、があるように思えた。

■メモ5.(2016.10 新聞家のケース『鶯張り』第1話「認可保育園」@下北沢ケージ)
出会い直すためのほつれ。懸命なひとは、観客にも懸命を強いる(その綱を引くかどうかはもちろんわたしたちにゆだねられている/その同調圧力とどうむきあう?)。共鳴は懸命なひとたちのあいだでおこる。その陶酔によって、出来事との対峙のしかたをわたしたちは省みる。そこには、全体主義との誠実なたたかいがある。「踏みとどまれるひと」たちが互いにその尊さと困難さを確認する。詩が生起する「場所」を提示できるのは演劇というメディアがもつひとつの特性といえる。=非シニフィアン的記号であること。

本作を観たことで、これまでの作品に対するクエスチョンがすべて消え去って、クリアーになった。懸命に話すひとに対して、耳を傾けること。瞬間的な矛盾性と、編んでいくのにほつれていくタペストリーであること。

■メモ6.(2016.11 『揃う』@Chiyoda art space 3331 )
メカニカルな印象があった(これは演出ではなく役者の範疇だろう)。いままででいちばん言葉が入ってくる。想像の光景が明確に立ちあがっていき、だが、どこかでその図像がほどけてゆく。映画だと思った。写真でもなく、絵画でもなく。言葉のありかたが、細部に向かっている、その些細なフレームワークが。いや、それがもしかすると演劇の深奥なのかもしれない。最後にくりかえされる言葉/ゆえに立ちあがる状況に、新聞家のつむぐドラマが集約されている。観ている観客は、揃うことが試される。帰り道、秋葉原に立つメイドの姿を見ながら、「真摯である」身体のことを思った。

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