ふたたび受胎(気おくれ風の

チリの話は『チリの闘い』のDVDがとどいてからにする。この予告を観るだけで涙がこぼれそうになる。今年の9/17(日)と22(金)、PFFで一挙上映されます。


鈴木洋平『丸』、きてれつ! 闖入者がもたらす静止、によってうごかされるドラマ、その停滞、それを打破するのは暴力、その持続が途切れるとき映画も幕切れる、理解できないものに遭遇したときにわたしたちは停止するのか? そしてそれを打ち砕くことができるのは暴力だけなのか? 静/動のダイナミズムによって物語はごろごろと転がってゆく


マウゴシュカ・シュモフスカ『君はひとりじゃない』、wierd film! コメディであり、スリラーであり、ミステリーであり、家族を描いたドラマである、邦題のさす「きみ」はアンヌを指しているように思った、ボディという原題、からだと霊(精神)を分けるとして、検死を生業にする父と、身体の治療をおこなう現代科学の精神科医と、霊媒セラピスト・アンヌのはざまで、拒絶者としてのオルガ(拒食=自らの身体への拒否、父への嫌悪、母の死を受け入れられない)が立ちなおる、家族の関係性が回復する、そういう話として受けとれる、一見シリアスと思われるひとの死や、崇高なものとしてのスピリチュアルな要素がギャグとしても立ちあらわれるように演出されており、その二重性がおもしろい(ぼくが観た回はあまり客入りがよくなく、わらいがすくなかったのがさびしい)、そして何よりも幕切れのしかた! 霊媒ポーランド人がどうとらえているのかが気になる


挿入歌ビキニデスがとてもよい


ジャコメッティ展@国立新美術館、背中の気配、存在が際立つほそまった造形、「見たままにつくること」でできあがってきた彫刻があのようなかたちをしていること、〈孤絶-角〉をおもいだす、それぞれがそれぞれの仕方で存在=孤絶していること、それが時代を超えてわたしの胸をふるわせること、もともとは観にいくつもりはなかったのだが、ソーニエ展で読んだテキストで言及されており、時間も空いたので足を運んだのだがきてよかったと心底思った


新聞家『白む』@BUoY、テキストの幸福さが、切実な語りとそれに耳を傾けるいくつもの直線上で反転し、ホラーとして浮きあがる、役者後方の暗闇、この空間の廃墟感によって、語り口と、この「暑い」熱帯的空間によって、恐怖として現前する、前半はそんなことを思った、稽古ににどほど参加している身としては、(志村や若菜(名前がうろおぼえ)といった色恋の不穏さはあれども)幸せの断片として読まれるテキストを感受していたので、これがどのように結実するのだろうかという期待をもって今回の公演に臨んだのだが、はじめてきく箇所だけではなく稽古場ですでにきいていたテキストがまったくちがう立ちあがりかたをしていて、なぜこんなに怖いのかをずっと考えていた、この怖さの質、黒沢清のゆれるカーテン、稲川淳二の怪談、きのう観た『丸』のような異質性との対峙として? 反転、逆転、子供が生まれたという祝福的な幕切れに対していだいた安堵はその出来事ではなく、サスペンスが「着地」したことから生まれたのではないか

熱帯的空間について、会場のBUoYはまだ設備がととのっておらず、でかい扇風機(うるさいので上演&トーク中は切られた)だけが空調設備としてそこにある状態で、とにかく暑い、演者も普段の稽古とは何がちがうかと問われて第一声「暑い」をこぼすほどに汗ばむ空間、それは観客もいっしょで、つまりはダメージをともに受ける、共苦する場、になっていた、共有、円を描くように座る観客と演者の同列の気配のなかで作品は上演された

[ツイートした感想]
意見会で大石英二がいった「いまを信じつづけるしかない」というワード、これを共有不可能な道のりにおいて共有しようとする試みが、作内の「尊ぶ」る事象と結びつく感動の源泉/演劇の核であることを、ともに信じつづけられるかが試される「幸福の折りたたまれたホラーサスペンス」として観た

感想会の村社祐太朗の言葉をきいていて思ったのは、稲川方人の倫理性をもっとべつのかたちでそびえさせることによって新聞家のテキストは成り立っているのかもなということ、つまり執筆/発語のまえで立ち止まり、辛抱しつづけることでより正確で、きびしい、切実さをはらんだ言葉、村社の言葉でいえば「事実に嘘をつかない」言葉がうまれる

その事実の「確かさ」は内野儀が指摘していた通り、観客にはわからないものとしてあるがゆえに想像することが試され、観客の負荷を増大させる。大文字の「フィクション」に寄りかかっていればいい作品ではないことを理解するには、初見者にとって新聞家の演劇はだいぶハードルが高く、ともすれば拒絶の対象として映る(そしてこの理解不能性があるがために一種の尊さが作品に宿る)。

ゆえに、この新聞家の作品と向きあう(向きあわない)ことによってはじきだされる「目が曇り、耳がとじているひと」を、意図しようがしまいが切りすててしまう選民主義的ふるまいの危険性にどう対峙するのかが、こんごの方向性を左右するポイントではないだろうか。この「誠実さのあぶりかえしの現場」が作品の内部ではないとみなすことができるのは、内野儀がアフタートークでいっていたように、「新聞家の公演は観客への負荷がひじょうにおおきい」ことからもわかる、そこに耐えれるか、耐えれないか、ぼくの問題系でいえば宙吊りに耐えうるひとであるかどうかがそこで試されているのである(そうした耐えられない観客たちに対する村社の「さびしいですよね」という感情の、行方を見定めること)

公演本編→意見感想会→アフタートーク→質疑応答とすべてその場で体験しおわったあとの充実感はなににも替えがたいものだと思った、なぜわたしはこんなにも充たされているのか? 以前『揃う』を観たときの感想会での、観客が自分の言葉をその瞬間瞬間で探りながらつっかえつっかえ発話しているその切実さ、『鶯張り』第1話「ケージ」における、電車やバイクの走行音や街を行き交うひとの声にかきけされまいと、ごくごくちいさなボリュームに設定された拡声器を以て言葉を発する峰村菜月と、それをなんとか聴き逃すまいとする観客たちの懸命さが、この感慨にかさなる

「人が話し、人が聞く」という演劇の骨組みを突き詰めた結果としてのこの行為こそが、共有不可能な道のりにおいて「いまを信じること」を共有しようとする試みであり、観客であるわたしもそれを信じたいと思うがゆえに、新聞家の作品はひととひとのあいだでドラマティックに立ち上がり、わたしたちの胸を打つのである。

わたしはわたしの為すことに自覚的でありたい

感情は論理に優先する。魅力的な批評はその飛躍力=想像力にかかっている。イデオロギーと信仰にちがいはあるのか。それを分かつものが普遍性だとして、それは何を意味しているのか、アクチュアルであることとジャーナリスティックであることと、そのこと自体の普遍性に目をやること。唯物史観の否定について。わたしはわたしの為すことに自覚的でありたい。

気温がひくくなってきてテンションがアガる。明日は最高気温が20度だという。このまま秋に突入してくれればよい。9月、恋人がドイツへゆく。ドクメンタ、おれは次回かな。もう四半世紀を生きのびてきていていちども海外いったことないんだよ、去年せっかく10年パスポートをつくったのに。南米、中東、北欧あたりにいきたいです。でもさいしょはアジアかな。

中東といえば、ファルハディの脚本、ちょっと天才すぎない? と『セールスマン』を観て思った。過去作である『別離』も『ある過去の行方』もいちど観ただけでは把握しきれないほどの伏線だらけで、この緻密さ、用意周到さはすんごいなあと舌を巻くばかりなのであった。とにかくサスペンスフル。どうしようもできない状況、やり場のない感情の宙づり、アンビバレンスの葛藤、そうしたものを描く脚本を書かせたら右にでる者はいない、というか現代映画でファルハディよりすごいものを書くやつをみてみたい、そんなことを思わせる、細部までつめられた脚本(冒頭の女優に対するわらい、タクシーの男性嫌悪の女、父がいない学生、トイレはひとりですると女にいい放つ男児=女性が抑圧されるイラン/イスラム社会……)、こうしてまたハズレのない監督だという思いを強くするのであった、劇中劇のシーン、PA卓のカットが画面に重ねられるのは何を暗示しているのだろう?

またパレスチナの作家カナファーニーの『ハイファに戻って/太陽の男』がさいきん文庫化して、はじめの2本を読んだのだがこれまたおもしろい。こちらもファルハディ同様やるせなく、どうしようもない状況に生きるひとびとを描いているのだが、その描写のなかにあらわれる行きつ戻りつな時制のあつかいかたがなんだか新鮮で、なんてとこよりも故郷を侵略され強烈な太陽のもとをさまようしかないという現実から生まれてくる物語のつよさにうちふるえるばかり、おもしろい、とかひとことで片づけてはいけないと思わせる切実さがある。一時期井筒俊彦を経由してイスラム文化にあたまをつっこんでいたのだが、またつっこみなおしたいと考えている。まずはカンドゥーラでも買うかな。

南米といえば先日パトリシオ・グスマンの特集上映にいったのだが、その話はまたこんどにする。アテネフランセである。金子遊レトロスペクティヴにも足を運んだのである。はじめて訪れたのだが、観るポジションを探るのがむつかしい劇場である。寝る。

茶濁すように客体になる

バランスをとる。

ピュアジョイのマンゴージュースがうまい。アップルも配合。カルディで買った。

祝日だが出勤だ。明日まででれば盆休みになるはず。このはず、がとても嫌だな。だからおれははやく独立したい。だって自分の意思とはべつのところに自分の時間を支配されてるってのはとても嫌じゃない、おれが元号がきらいなのはそのいちめんもあるかもしれない、いや単純に西暦と混在していてわずらわしい、いやそもそも西暦も、

クスクスをはじめて食べた。バミヤ(牛肉とオクラのトマト煮込み:アラブ料理、これもはじめてつくった、というよりありあわせを組みあわせたらできた)といっしょに。大いにありだと、主食ルーチンに組み込めるらくちんさ(塩と油を入れたお湯でふやかすだけ)、うまさだと思った。

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○バミヤとクスクス

また牛カツのサルサソースじゃ! とつくったものはボリビア料理のシルパンチョというものに酷似していた。写真はない。異国料理マンになろうと思う。つぎはフムスをつくる。

ナンディニ虎ノ門店(虎ノ門・新橋・御成門の中間地点にある)のノンベジミールス、ちょううまかった……これで1300円とかあんびりばぶるだよ

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○ナンディニのノンベジミールス

おれにもしすぐれた力能があるとすればそれは料理のスキルで、それはいまの仕事(編集者)にとても役立っていると思う。編集は生涯のなりわいにしてゆくつもりだけれども、将来的には本格的に飲食にも手をだしたいと考えている。場をつくる、これに尽きる

毅然、単独でのシャーベット行

作為に支配されずにいるためには時間をかけないことが有効だと思った。作為に支配されずにいる必要があるかはべつのはなし。

帰りの電車、熱をやたらに放熱するひとがいる。

TOLTA『人間関数―トルタオーディオブック』@北千住BUoY、おもしろい朗読のパフォーマンスの実現はむつかしいということを痛感させられる、単独でのいい朗読もさまざまな意匠によって攪乱され、台無しになる、演者と観客の混濁ということでいえば東京デスロックの試みに太刀打ちできていなかったと思うし、大半の出演者が演ずること/朗読することに対する自覚を以てパフォームをしているようにみえなかった、何かをひとまえでリアルタイムにおこなうことという地平において、「詩の朗読」が演劇やダンス、ライヴ、美術に対して互してたたかっていくにはまだまだ歴史=文脈の構築が足りないと思わされた

ちなみにいままででぼくがいいなと思った朗読は、エビスミュージックウィークエンドで観た和合亮一×Gotchのパフォーマンスと、ポエケットで観た三角みづ紀くらいしかない(まあ大した数は見ていないので高は知れているが)

それと、会場となったブイは、トイレもなければ電気もきちんと通っておらず、粉塵まみれのこんなんでよくイベントを打てるなという心底クソみたいな環境で、ちゃんと完成してからスケジュールを組むべきだったのではと思わざるを得なかった、廃墟自体は好きなのでその点ではよかったけれども。

アフタ-マス『くらしを豊かにするマフィンのつくりかた』@三鷹カフェハンモック、役に寄りかかった芝居による、散漫なシーンの連続、断絶の力がない、だらだらとした物語、テキストの魅力がない、暮らしの話なのに、生活がない、つまりディティールがない、とても記号的でフラット、肉がない、凹凸がない、起伏がない、その"無"の前景によってたちあらわれるものに退屈の二文字以外の言葉を見いだせなかった、つまり演出は力能を発揮できていなかった、べつのもの、あまりアートや演劇に興味をもたないひとにもおもしろいと思ってもらえる作品を、といっていたがこれでは不能だろうと思った、トークは一転おもしろかった、美術史をたいして学んでいないおれには梅津庸一の絵はよくわからないが話がうまいなーとみていた、場をきちんとつくろうという意志がみえた、パープルームの展示を観たばかりというのもあってか内容もおもしろかった、ナディッフのも観にゆけるとよい。

クエイ兄弟―ファントム・ミュージアム@松濤美術館、はじめていったがいい建築だった、白井晟一ノアビルとかいかすよな、展示自体はまあまあ、舞台装置であるミニチュアにワクワク、映像をもっときちんと観たかった、神奈川でやってるときにいっていればちゃんと観れたのだろうか、

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ベルギー奇想の系譜@Bunkamuraミュージアム、ここもはじめていった、2点ほどでていたボレマンスがよかったのでナディッフで作品集を一冊買った、原美での個展にいっとけばよかったな、これも展示全体としてはまあまあ、後半部の現代のベルギー(とくにスカルプチュアが興味深かった)時間をもてあましていなければ決して足を踏み入れない展示だったのでその点を考慮すればめっけもん! という感じ。

雪融けを待たない仕草

自分で考えることについて考えている。すべての思想はおまえのための踏み台であり、手がかりである。自分の思想・哲学を練り上げることなしに世界は変わらない、すなわち、おまえはあらゆる思想を取っ掛かりとして、この断崖絶壁を、その困難さを自覚しながら、のぼったりおりたりすべったりくだいたりしなければならない。その点においておれは強者の思想をふりかざしている、考えることのできない事態/状態について……

埴谷雄高はこういう、「スローガンを与えよ。この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩いていく」(『幻視のなかの政治』)、シモーヌ・ヴェイユはこういう、「もっとも危険なのは、集団の個人を圧迫しようとする傾向ではなく、集団に馳せ参じ、そのなかに溺れようとする個人の傾向である」「不幸は、それ自体曖昧なものである。不幸な人々は、おのれを表現するための言葉があたえられることを沈黙のうちに哀願している」「不幸な人々に、民主主義、権利あるいは人格といった中途半端な価値しかない言葉を語らせることは、彼らに善をもたらすどころか、多くの悪を犯さざるをえない破目に追いやる、そのような贈り物をすることだ」(「人格と聖なるもの」)、今村純子のテキストが示唆に富む、だがおれは暴力に可能性をみている、それは愛をもうちにそなえうる、


チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』@シアタートラム、あ、ラース・フォン・トリアーじゃん! みたいな(検索したら同じようなこと思っているひとがそれなりにいた、かつて青土社の採用面接を受けにいったときに当時のユリイカ編集長とそんな話をしたがここにきてなるほどと思った、ここにきてというのはチェルフィッチュはすごいすごいといろいろな方面からききつづけ、ようやくはじめて観れたからであった、『God Bless Baseball』は観た、面接は落ちた)。「悲劇」における狂気的なヒロインの系譜。「散らし」ということを思った。そのタフ=強靭さ。久門剛史の強力な散らしの運動体、転換装置としての震災の読み替えなぞにいまさら意味などあるのか? 目にみえないもの(音、幽霊、未来、過去、時間)に仮託する、ゆえに観客は目をとじることをうながされる、目にみえないものは、部屋としてみえる、ひととしてみえる、光としてみえる、音としてあらわれる、、、

かの夫婦はいったい生きていた/るのか? ちょうどその日に起きた海老蔵/麻央のことを想起していたのだが、はたしてそのような血のめぐりをここに視ることはできたか? いやそんなものはなから否定している、存在のレベルの逆転、観客のシンパシーはどこに向かわせるのか、より実態をもって迫ってくる青柳いづみと、さまざまな舞台装置の方へ、、

青柳いづみをひさしぶりになまで観て、肉声ということを考える。身体なき声をいかにして立ちあげるか、そこを考えたい。文字がその内に入りこんだ発語、これは作品ではなくおれの興味関心の話。

吉田庸、すごいおもしろいと思った。本作はとにかく役者の圧がすごい、この圧によって場をもたせる、

いろいろ書いたがあんまりよさがわからなかった。これだったら『God Bless Baseball』の方が磁場のきりひらきかたがすぐれていた。人ではないものがその役割を負う、仕向けに対するこわばりが、わたしにそう思わせる? 『三月の5日間』のリクリエーションを観ねばなるまいね、小説版が収録されている『私たちに許された特別な時間の終わり』が好きなんだ、おれは。

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排気口『そしてきせきはしんじれて』のフライヤーをデザインしました。
2017年9月16-17(土日)、高田馬場プロト・シアターにて。
ぜひ、ご来場ください。

まぶしく語る

せっかくチェルフィッチュ当日券アタックできる時間に退勤できたのに家にめがねをわすれ、というか本来は昨日いって今日はロメールにいくはずだったのにむだばなしでつぶされ、どちらもまたけっきょく観れないのかとなみだでてくるので鎌田東二『言霊の思想』を買ってかえる(翌日にチェルフィッチュを観た、それはまたこんど書く

ひとを語るときにスペックという言葉をつかうおんながいて、おれはPCじゃねえぞと思ったのだが、こういう言語に何の違和ももたないで使う思考態度が平然とそこにあることのかなしみみたいなものをいわれてから数ヵ月経って思いかえしている。web上であれば一種のスラングとして、そしてデジタル空間ゆえの言語スタイルとしていいとは思うのだが……これも言葉狩り的発想? でもじっさいいわれてみるとやだからね。それに言語は変化しつづけるものであるということとこの反発は両立できるでしょ。アンチ言葉狩り、アンチ保守主義、アンチ非思考。

湯浅政明夜明け告げるルーのうた』、アニメのたのしさがあった、ノスタルジーが核(主人公ら子供世代)にないアニメ(作動しているのは親や祖父の世代)だ、子どもたちが主体となってうごく、大人たちは背後にあるものとしてかくれている、ルーがエロティック、あのピンクのあんよ、過去へと引き込まれていく老人と、未来へと歩みだす少年少女たち、おおきな壁がくずされ、頑固なカイの殻は破られ、彼らは確かな一歩を踏み出す、タイトルバックまでのイントロダクションがマジサイコー、自分のきもちを素直に言葉に乗せること、聞き取れるように、話すこと=放送のように一言一句、まちがえないように話すこと、

アニメのたのしさとは作画のたのしさである。アニメゆえの演出のことである。だが観おわったときに物足りないとおもってしまったのは本作のアニメがだめなわけでなく、おれ自身がアニメから離れすぎてしまったからのように思う。『夜は短し~』を観たときにもそんな感覚をいだいたのだけれども、テレビアニメを見なくなってしまったがゆえの鈍麻からきている気がする。『マインドゲーム』を観なおしたいきもちだ。祝、アヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ。

マイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』、魅力的な予告編にたがわずめちゃよかった。映画的ワンダーではなく、語り口のまぶしさ。グレタ・ガーウィグはこういうエッジの効いたひとを生きる天才(『フランシス・ハ』、『ウィンナードッグ(トッド・ソロンズの子犬物語)』)だし、主演のおばちゃんもアメイジングだった、70年代末期のパワーあふれるおんなたちに囲まれ、ひとりの少年が自立し、おんなたちも自分の立つ位置を見つける、なんというかhaimの新譜のmvに似た感覚を感じた。

体温がちがう書式への憎悪

このひとに賭/懸けたいと思えるひとと関係していくこと。その継続が自分(のまわり)をつくっていく。それはとてもむつかしい。20代の課題だと思っております。

七里圭サロメの娘 アナザサイド remix』@三鷹SCOOL、「?」という感じ。ダンサーと演劇者を配する意図は? 音楽から映画をつくっているというのに興味をひかれて観にいったのだが、けっきょくはドラマに堕している。幾層ものレイヤー(複数の映像・音声の重ねあわせ)が映像のなかにあり、映像内に配置されたふたつのスクリーンの合間からにんげんがでてくるのはおもしろかった。そこには鈴木了二のいうようなマテリアルサスペンス=反物語的物質性の表出がある(先日k's cinemaで鈴木作品と七里作品の併映があったこと思えばそこに共通の問題意識がある/見いだせると考えても差し支えないだろう、ちなみにわたしは廣瀬純の言及によって「建築映画」をしったたちで、『建築映画』自体は読んでいないのでマテリアルサスペンスの理解が多少ずれているかもしれない、どちらかといえば松本俊夫の影響下において考えている)。ただ全体としてみてみれば、作品内にでてくるような大学生的サブカルを脱していない完成度としか思えず、ダンサーをメインの登場人物に置いているのに緊張感のない弛緩しきった身体、すなわち画の力がないゆえのしょうもない身体がうつしだされていて、???となった。青柳いづみの声の力もこのようなあらわれかたではひびいてこなかった。

おもしろいダンス/身体とは何だろうかと考えながら観ていたのだが、やはりまいかいつきあたるのは、身体と言葉(意識の場所といいかえてもいい?)の関係性におけるテンションのつよさである。そこにわたしはひかれる。その点でいうとオフィスマウンテンの公演はひじょうに興味深い。

オフィスマウンテン『ホールドミーおよしお』@STスポット、のまえに前作の感想メモを。ちなみに、前回の方が断然よかった。

オフィスマウンテン『ドッグマンノーライフ』@STスポット。エクスキューズ*1をエクスキューズとして提示しない、もしくは非エクスキューズをエクスキューズとしてなげかける? 外に露出した支柱を用いて建てられた小屋のような。振り付けが単純におもしろいし、その浮かなさがよかった。もっと笑いがでる回(客)だとグルーヴがでてよかっただろうに。

*1 ここでいうエクスキューズとは、舞台に立ち、演技をすることに対してのエクスキューズである。

『ホールドミーおよしお』、前作に比べ人体のレイアウト、が前にでてきた気がする。だがその印象-イメージの薄さ(役者の自我コントロールと意識の行き先の断裂による?)が気になった。すぐれた役者と、そうでない役者のちがいがそこに集約されており、きちんとテンションをかけられるひとたち(大谷、横田、矢野)は◎、それ以外は×、の極端さが「酷な光景」を立ち上がらせていた。その凸凹さが魅力に映るかどうかは観客次第だが、わたしはまったくよく思えず冷めてしまったし、そのような意図のもとに本作がつくられているわけではないだろう。言葉遊びがふんだんに盛り込まれたテキストは相変わらずくだらなくておもしろいし、振り付けも観ているこちらがどきどきする魅力をもっている(前作の方がよかったけれども)のだから、稽古で何とかするかもしくはキャスティングをきびしくしてほしいと思った。

そして書いていて気づいたのだがこのテンションのかかった身体というのはまさにマテリアルサスペンスを引き起こすものとして見なしうるのではないか?

身体関連でもうひとつ。シアターパントマイムフェス2017Aプログラム@スタジオエヴァ。パントマイムの公演をはじめて観た。そこで考えたのはパントマイムにおける身体は物語を志向するということだ。演劇やコンテンポラリーダンスの身体が、物語との癒着を避けるものとして存在する(しないものも数多く、というより大半かもしれないがそれらには興味がないのでここでは問題にしない)のとはまったく逆の方向へちからがかたむけられ、演者は言葉なき物語を駆動させようとする。そこにエクスキューズはなく、観客は気恥ずかしい思いをしながらも演者と共犯関係をむすびながら「想像上の光景」を幻視することを試みる。その際に問題として挙げられるもののひとつに、パフォーマンスの巧拙があるが、パントマイムにおける巧さの正体とはいったい何なのだろう?

本公演はフレッシャーズ公演と銘打ってあり、若手と思われるパフォーマーがそれぞれ10-15分程度の演目を行うオムニバス形式のイベントだった。最後はゲストと称して、ヴェテランが掉尾を飾っていたのだが、それまでの演者とはあきらかにちがう質感の空間を舞台上につくりあげていた。演技における自我コントロールがよくいきわたっていたし、何より行為=状況のイメージのしやすさがあった。これを喚起力をもった抑制された身体といいかえてもいいが、これはダンスや演劇におけるすぐれた身体とイコールでむすびうるものである。その身体によって喚起されるものが物語だけでなく、そのもととなる「異質な身ぶり」自体も同時に前景してくるのがおもしろい。このあたりで思考のための執筆が、書くための執筆になってきた気がするのでとぎるが、物語を志向しながら、同衾を拒みつづけること。それがパントマイムのひとつの極点として考えられるのではないか。パントマイムの世界にも、ダンス/コンテンポラリーダンスのような区分けはあるのだろうか。ラディカルなパフォーマーがいるのであればまた観てみたいと思った。

その場でくるりとまわる身ぶりによって時間・場所が切り替わることを意味させるパントマイムの文法はおもしろく、はじめて観るひとでも瞬時に理解できるこのうごきは発明だなと思った(マームでもそんなシーンがあったような気がするが記憶が定かでない)。