つかまり勃ちの子供たち

後ろの予定までにはまだ余裕があったので、併設された谷内六郎館にも寄っていく。かつての自分であればスルスルっと展示室を通過してしまうタイプの作家であったのだが、わたしもこういう絵に感動する年齢になったのだなと、以下のような絵をながめながら思った。


▼タイトルがまた泣かせるんだ


また、展示室内の窓に半透明のブラインド(?)がかかっていて、その風景がよかったのでカメラをまわした。かつてそういう意識をもって生きていた時期があり、むかしのスマホにはそうした映像素材がいつか映画になることを夢見ながらねむっている。


▼こんな感じ


ギャラリーショップではヤンキーの集団がおり、美術館という場所とのアンマッチ感に感動したりしつつ、帰路へ。バス停でまたも潮風たっぷりの嵐に襲撃を受けながら、きゃあきゃあ声を上げるジブリ展帰りのガールズたちとともにバスを待つ。のちにバスが満席になるほどの客が機能していない屋根をはみだして集まっており、「あ、(バスが)きた」「うっそーん」という少女たちの戯れも、こんなあばれ雨のなかでは悶着の発火点になりそうで、耳にしながら内心ドキドキしていた。

藤沢に移動し、駅前の喫茶店でAと会合。ピザを食みつつ瓶ビールで乾杯する。さいきんはAIに凝っているというA。わたしはほとんど触れずにここまできているので、へえへえなるほどとたのしく話を聞く。ビットコインでもなんでもそうだが、新しいものにビャっと飛びつけるフットワークがものをいうのだろう。わたしの足はきわめて鈍足である。のち、前回も足をはこんだいろは丸へ。カキフライや筍の天ぷら、鰤刺しなどをつまみにまたもビールをやる。カキフライが3個で一皿だったので、「これ4個にできますか?」と店員に訊ねたら「できますよ!」とのことだったのでそうオーダーすると、ずいぶん時間が経った頃にべつの店員がやってきて「カキフライは(4皿ではなく)個数が4つってことですか? それはできないんですよ」と断りに来るシーンがあった。もちろん4皿も食べられないので、4個にいちばんちかい1皿で再オーダーしてすぐにでてきたが、おそらく無駄になってしまっただろう3皿に想いを馳せた。


▼前回藤沢来訪記
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食後はまたコージーコーヒーコネクションにてチャイ。今回は店内で。うまい。なぜかプリキュアを店長にプッシュする時間があり、退店時には観てください!と言って店をでた。

帰ればY、Yさん、Nちゃん、Sさん、Qさんが酒盛りをしているので混ざる。ここでもプリキュアの話をしたおぼえがある。Yさんは関西から上京してきたばかりで、QさんやNちゃんの京都コネクションの間接的なつながりが明らかになって盛り上がったりしていた。グリーンがいちばん好きなミュージシャンだというYさんのまっすぐさがまぶしかった。



Hさんのベッドで深いねむりに落ちているとHさんが帰ってき、いっしょにお昼を食べに行く。道中、次回公演や次々回(あるいはその先?)公演のアイデアを聞き、おもしろい!となる。恒例の銚子丸に足をはこぶも開店前で、踵をかえしてバーミヤンへ。バーミヤンに立ち寄るのはいつだかのコミティアの帰り以来か? というか、人生においてそのタイミングでしかバーミヤンに寄ったことがない気がする。それほどまでに馴染みのないファミレスである。台湾フェアをやっていたので牛肉麺。まずい、、ショックである。Hさんはライス付きで坦々麺をもりもり食べていたが、食べすぎた、、と残していた。

渋谷へ移動し、ユーロスペースにて清原惟『すべての夜を思いだす』。ラジオでもいろいろ話したのでそこで話していないことを書く。終盤、知珠が徒労の末に公園のベンチにたどりつき、夏とその友人が花火をしているのをながめている一見美しいシーン(ハッピーバースデイ・トゥ・ユー!)がある。夏の立場に立ってみれば、ひとりでダンスの練習中に遠くで自分の真似をしていたにんげんが、同じ日の夜にふたたび自分を見つめているのはかなり怖いのではと思った。その二重性がおもしろかった。同じ行為・現象・言葉も、角度を変えて見つめてみればあらたなかがやきを放ちだす。そういう可能性が随所にあらわれている映画だと思った。かなり暗い感じに幕切れてしまったという印象を受けて劇場をあとにしたのだが、そんなことはないのかもしれない。これはいんすたでも少し触れたことだが、中盤のESVがかかるダンスシーンがほんとうにすばらしかった。呼応しあうにんげん、共振するにんげんというありかた(?)はわたしのなかでかなりおおきな場を占めているモチーフで、それは岸田将幸中尾太一といったゼロ年代詩人たちの影響のもとにそうなったのだが、それがふたつの集団のおどりという映画の内側と、AokidさんとESVというわたし自身のよくしったひとらがここで〈共演〉しているという映画の外側のふたつで起こっており、つまりは倍速コードの破壊衝動でわたしはノックアウトされたのだった(いや、倍速でも破壊衝動でもないのだけれども、、その語が降ってきたのだった、二重の共振性……

リトグラフで刷り、一部一部手製本したというパンフも別丁の判型ちがいの紙が組み込まれていたり、舞台となった多摩ニュータウンのマップの付録がついていたりと、つくりも含めてたいへんよかった。ほんとうは本作の公開をきっかけにRさんがつくったZINEもほしかったのだが、受付では販売していないということで買いそびれてしまった。

乱交する街

劇場でははるばる遠方からやってきたBちゃん夫妻やTさんなどに挨拶をしつつ、雨脚がつよまるなかを小走りにIくんとサイゼリヤへ。IくんがKとやっているラジオの話や、さいきん触れているというAIの話などを聞きながら、今日は二次会ないしな、とデカンタのワインをガブし、すっかり酔っ払う。が、前回これで記憶を失っているので、ちゃんとセーブする。Iくんは今度小説を書いて即売会に参加するようで、その報告をうれしく思った。文芸サークルの友人たちのうち、いまだにものをつくりつづけているひとらはもうほんとうに少数で、だからこそ、こうやってまだ「やっている」ひとがいることがかなりはげましになる。解散し、あとは帰るだけのタイミングで撤収作業をおえたHさんから連絡があり、劇場に閉じこめられたりしながら合流し、おつかれさまでしたと挨拶をする。のち、移動したりなんだりしつつ、解散する。

永野護展に行く予定だったのだが、会期は昨日までだったということで、長らく行きたかった東映アニメーションミュージアムへ。コロナ真っ盛りの時期にその存在をしり、当時は予約が必要だったためになかなか足をはこべなかったのだが、いつの間にかその措置は解除されていたのでようやく。東映アニメーションの1階に常設されてあるので、ここでプリキュアがつくられているのか、、の感動がまずあった。プリキュアコーナーでは昨日放映があったばかりの最新話のスチルが展示されており、そのスピード感におどろいたりもした。目玉である全プリキュアのボードの前で写真も撮り、これまたプリキュアファンにとっての聖地のひとつであるT・ジョイSEIBU大泉をチラ見したり、その階下のゲーセンでUFOキャッチャーに硬貨を吸いこまれたりしながらバスに乗って吉祥寺へ。

一日と百年をまわり、ポール・ヴィリリオとステファン・エセルの本を買う。のんき、というお店にも行ってみたかったのだが閉まっていて入れなかった。時間に余裕があればバサラブックスにも立ち寄りたかったが後ろに予定があったので素通りし、またバスに乗って的ラジオの収録へ。キッチンに立ち、春菊と卵と何か(椎茸だっけ?)の炒め物をつくって同人のみんなと食べもした。Oは生姜ごはんを炊いてくれた。広いキッチンで料理できるのはうれしい。複数名でのラジオは不慣れだが、まあなんとかなったのではないか。公開はおそらく5月? おたのしみに。ラジオのほか、ハラスメントをめぐるもろもろの話題にもなり、知見を深めた。SNSの時代における「後処理」ってマジでむつかしすぎないか?

HQハウスにもどるとTとMさんがおり、乾杯する。Tはわたしより年齢が上だが学年はいっしょであり、HさんQさんは年齢は同じであるが学年は上、4人のなかではTが最年長という構図で、わたしは学年基準で敬語が発生するタイプのにんげんなので、Tをどついたりしているわたしのすがたが新鮮だとHさんQさんがわらっているのがおもしろかった。さいきんのおもろ漫画をすすめたりすすめられたりしつつ、たのしく夜を過ごした。TとMさんというなかなかない組み合わせなのも新鮮でよかった。

銃弾で撃たれ、歯がぽろぽろ抜けていく夢を見た。

寝坊。まあいいかの気分でHさんとインドカレー。お気に入りのニットの袖をサラダにかかっているオレンジ色のソースで汚し、テンションだだ下がり(食器洗剤をつかったりなんだりしたらちゃんと落ちた、ピース)。ドデカナンがでてくるカレー屋はかなりひさびさな気がする。マトンとダル。うまい。サーブされた時点ではナンおかわりしたるぜ!のきもちだったが、半分くらい食べたあたりでむりだぜ!になっていた。デカすぎる。

横須賀へ。遠すぎる。横殴りの風雨にぶちのめされながら、ジブリ展に行くであろうきゃあきゃあ声を上げるガールズたちとともに海辺の道を美術館に向かって行進する。せっかくの海辺だし、あたりを散歩したいと思っていたのだが、それどころではない大時化である。

わたしのお目当てはジブリ展ではなく、「日本の巨大ロボット群像展」。鉄人28号を起点に、マジンガーZゲッターロボガンダムガオガイガーなど、日本の巨大ロボットの歴史をたどりつつ、そのリアリティを解剖していく展示構成。原寸大のガンダムが平面状態で床や壁に設置してあるインスタレーション(?)と、アニメのひとコマをレイヤーごとに分解して展示するスタイルの展示物がおもしろかった。


▼こんな感じ


展示としては富野展の方がおもしろかったな、という印象なのだが、展示室をめぐっていると、あらためて自分はロボットが好きなんだなというじっかんが湧いてくる時間があった。スタジオぬえ宮武一貴によるコンバトラーVマジンガーZライディーンが立ち並ぶ巨大絵画は、もはやわれわれにとっての宗教画ともいえるような風格を帯びていた。

展示を観おえたあとは建築をながめつつ、図書室へ。美術館に併設してある図書室は、だいたいどこも空いていていいんだ。「荒野のグラフィズム」展のカタログをめくっていると、谷川俊太郎の寄稿文のなかで「理想の朝」を問われた際に「(そもそも)朝は嫌いだ」と答えた粟津潔が描写されており、おもしろかった。ねむい、寝ていたい、というような文言もあり、わたしも睡眠派のにんげんなので、そんなところまで信頼できる!とうれしいきもちになった。

不釣り合いな形容詞を並べ立てた部屋

ずいぶんと前に先月入る、と聞かされていた入金が今月もおわろうとしているのに未だなく、大丈夫か?(おれの人生が)となっている。来月の引き落としまで入金がなかったら死である。クレカがなかったらすでに死んでいた。来ない入金を当てに買い物をしている。人生綱渡。

ワークワーク。いまうごいているもの次第で東京滞在の日程のはじまりが決まり、そろそろうごきだすであろうもの次第で東京滞在の日程のおわりが決まる。こういうバカみたいなスケジューリングはやめよう。未来のわたしへの忠告。

夜、豆腐の味噌汁、菊芋と新たまと豚炒め。うまい。

小泉義之が言及しているのを見て聴いたリルアッシュ懺悔、いい。モーメントジュンの「ラッパーって奴らは今日も言うことないから歌詞に入れたbitch」があたまによぎりはするが、確かな「リアル」があるように感じる。

ワークワーク。抱えていたもろもろがぶじフィニッシュ。ぱちぱち。これで事前に想定していたスケジュールで東京滞在ができそう。はやめに寝室に退散する。

圧倒的寝坊。はやめに寝室に退散しようが、ついついゆーちゅーぶを観る日頃の習性と、アラームをひとつだけにした慢心がこういう事態を引き起こすのである。めちゃくちゃ急いで準備すれば予定の電車に間に合う時間ではあったが、そういう生き方はやめようということでのんびりリスケを開始する。「のんびり行こうよ、人生は。」とのび太も言っていた。にどねさんどねも済ませ、ダッシュで駅まで向かっていると、親から「なんで鍵を持っていくんだ」との連絡があり(家に通ってくれているヘルパーさんの都合上、鍵が必要なのである)、さいあくだ……と思いながら道の途中で引き返す。帰ってみると、妹の鍵があるのでべつに戻る必要がなかったことが判明し、ひと悶着。つぎの電車までの2時間が吹き飛び、リスケした予定は壊滅する。さいあくの幕開けだ。

昼、れんこんとしいたけと豚肉のすっぱ炒め。うまい。飯を食う時間ができたと思えばまあ、、



ということで遅い電車に乗って東京へ。紀伊國屋を冷やかしつつ、HQハウスヘ。ぐうたら通話をしたのちに映画を完成させたばかりのSさんも駆けつけてくれ、Qさん、Sさんと3人でひと缶のチューハイをわかちあったのち(びんぼったれでいいなあ……とQさんがわらいながら独りごちていた、まったくその通りだ!)、駅まで向かう道中にあるずっと気になっていた焼き鳥屋へ。お店に着くとすぐにOくんもやってきて、ガチャンと乾杯する。いい店である。お手洗いに至るまでの謎スペースにはイースタンユースブルーハーツの8inchが飾ってあった。いい店である。ドデカ唐揚げと鶏のなめろうなどに舌鼓を打ち、ビールをガブする。次回は鳥刺を食うぞ!の念を胸に抱え、コンビニで酒を買いこみ、家へ戻る。夜中までアジカンの話をし、就寝する。

早起きして町田版画美術館に行く予定は二度寝によってついえつつ、粟津潔邸へ。ジョナス・メカス「われわれは理想主義者でなければならない」展。屋上から家に入るつくりのおもしろ建築にまず衝撃を受ける。家の前でどこから入るんだ?と迷っていたわたしに「あそこから入るんですよ」と教えてくれた親切なお客さんのあとをついて受付を済ませたのち、1階までぶち抜きの階段を降りながら左・右・後に設けられた各部屋(=展示室)を迷路のようにめぐっていく。床が改装中であったり、まだ寝室に布団が敷いてあったりと、無菌室的なホワイトキューブとは異なる場の雑然たるムードがおもしろく、メカスのフローズンフィルムフレームスや詩篇とともに、床近くに設置された窓から見える中庭などをたのしんだ。タイトルにつけられている「われわれ」。この意識をそれぞれがもつことに希望や可能性を見いだす、いやマジでそうなんだよなと自分がワンウォールにでたときのステートメントのことを思いだした。


▼これです

https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/180052331213/1wall18
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会場には次回展示の下見に作家の方が来ており、その方とともに、コラボレーターである誰でも知っているスーパーミュージシャンのCを家主に紹介される一幕もあった。ワンテンポ遅れて「え、あの**?!」となって咄嗟に反応できなかったのだが、後になればなるほどふしぎな出来事だったなと味がでてくるのだった。めちゃくちゃおしゃれであった。

王子に移動し、劇場の入り口で不審者とまちがわれながらブート版フライヤーをHさんに託したあとはお札と切手の博物館にて開場まで暇つぶし。受付しようとしていると後ろから声をかける者があり、ふりかえるとIくんが立っているではないか。同じ回を観るために早入りしていたということで、いっしょに世界各国の紙幣や切手をながめ、インフレ国家の桁のでかさにわらったり、エングレーヴィングの技術に関心したりする。

排気口『光だと気づいた順に触れる指たち』@王子小劇場。代弁の構造、というのをおもしろく思った。舞台上にはあらわれないお爺ちゃん(この台詞の上でのみ登場する存在は近年の排気口に頻出するキャラクターな気がする、ゴドーはドラマをつくるということだ)の言動、レミコの秘められたきもち、亡き息子についてのお父さんの懐旧、ほかにもいろいろあった気がするが、それらが別の人物によって語られるというフレームを印象的に思った。その骨格があるからこそ、本人の言葉がでてくるシーン——たとえば、くらげやおかかが告白する「はじめて」のよろこびが際立ってくる。

ピノがパニックになって鼻くそを食べるふざけがめちゃくちゃおもしろかった。鼻くそとは身体と世界の境界に生まれるその混淆物であり、人体の防衛反応の証でもある。世界と切り離されたホスピスという舞台、あるいはピノが詐欺師かつ泥棒のクソヤローである点を踏まえてこのコミカルな芝居を見つめなおしてみれば……と書きすすめていこうと思ったが、とにかくおもしろかったことに尽きるのでやめる。

レミコとタカシによるラストシーンは『午睡荘園』3場のサイドバイサイドの構図(こちらもかたわれはレミコである)を思いだした。しかし、格段に本作の方がいい!と思った。観ていて、空気がぎゅっと詰まる感じがあった。舞台上と客席に、ムードがしっかりと根を張っている感覚があった(悲哀にもおどけにもあきらめにも傾かないレミコのぜつみょうな表情がかなり効いていたように思う)。暗転を挟んで、そこにはだれもいなくなっている、という幕切れもすばらしい。みんな星になってしまった。そのさびしさを抱えて、わたしたちは帰路につく。星を呼ぶのではなく、星になること。そしてそれをながめる/ながめようとすること。


▼『午睡荘園』について触れている記事、好きな作品というじっかんがあったので、この記事を書くにあたって読みかえして「なんか文句ばっかり言ってる!」とおどろいた
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観ている最中はあまり気にしていなかったのだが、観劇後しばらく経ってからあきら氏が少年役であったことの新鮮さが浮き上がってきて、まっすぐさが身体から発されているようなまぶしさがあったなと思いかえした。これまで比較的クールな役割のキャラクターを演じることが多かったように思うが、意外とハマり役なのかもしれない。

観おえた2日後、フライヤーをながめながら藤沢の喫茶店でAくんと話していた折、「役者の名前に、みんな木とか川とかあるね」と言われておもしろかった。自然ゆたかな客演チーム(劇中にあらわれるふたつのチーム……読み解きがいがあるのでは、だれか書いてください、ほかにも何か書こうと思っていたことがあったのに何も思いだせない、おれはもう記憶力がカスになってしまった……)。

飴を舐めるように過去を抱いて

ワークのすすみよく、〆切地獄も完全に脱した感があり、家族が皆旅行なりなんなりにでかけ、数日間のびのびできそうなのでめずらしくビールを開ける。うまい。

朝、チーズカツ丼。カツはできあい。うまい。

いい天気。いんすたで見かけたイベントに行こうかなと思っていたが、なんだかんだワークに手をつけてしまい、そしてポケモンもいい具合に勝てる波がきていたのでひきこもることにする。12敗ぐらい負け越していたのが、勝ち負け半々になる。この調子でいけば今期は4桁フィニッシュが目指せるかもしれない。キラフロルちゃんのうごかしかたがわかってきた気がする。

夜、鮭とえのきとチーズのクリームスパゲティ。うまい。

食べつつ、ようやくプリキュアオールスターズFを観る。劇場で観た以来だが、やっぱりスーパー大傑作である。序盤の涙ぐみ、みたいなものは劇場とちがってそのじっかんは薄いのだけれども、中盤以降はやはり涙ぽろぽろ、演出があまりにすごすぎてわらいさえでてき、さらにまた涙ぽろぽろ。ありがとう&あいしてるな1本だ。


▼劇場で観たときの感想
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昼、チーズハンバーグ&餃子丼with味噌マヨきゅうり(餃子は冷凍)。うまい。

夜、チゲ餃子うどん。うまい。

朝、チーズカレーうどん。うまい。

夜、ひき肉玉ねぎ茄子人参のかつおだし炒め、キムチ、インスタントの卵スープ。うまい。

わんぷり7話。和解回。土田豊演出回でもある。前回の予告で披露されていたようなアホ顔こむぎ(メエメエの想像内というのがまたウケる、あるキャラがべつのキャラにどのように思われているかの形象……)のようなギャグ描写がピカイチなのは当然のこととして、家出してしまったこむぎを探すいろはのカットのなかでそのさびしさを画で伝えるためにドッグランを巨大化させたり、悟くんがこむぎにいろはとの和解の道を指し示すシーンで閉じたブラインドが風を受けてひらりめくれあがるカットをインサートしたりと、感情を増幅させる演出にグッとくる。大福が「〜だぜ」語尾を用いるハードボイルドキャラであるのが明かされる話を彼の担当回にする組み合わせもサイコーである(だいぶ演出サイドによるふくらませも入っているのではないか?)。デパプリのカトキ回であった弾幕演出が、ここね→まゆとオドオドキャラにおいて反復されるのもよかった。先にキャラの想像(妄想)を絵にすることによって、キャラ同士の関係性を示す演出に触れたが、まゆが愛猫であるユキを想像する際のその「数」によって愛のおおきさがわかるのもおもしろい。

こむぎといろはを新たにつなぐ洋服ハーネスがまゆからのプレゼントであるというのもすばらしい作劇。ていねいな関係性の構築。ありがとう成田良美、、と毎週のように思っている。ガルガル出現後、いろはのもとに向かうよりもガルガルへの対処を優先するいろはと、ブーン状態で遊ぶようにガルガルのもとへ向かうこむぎの対比もおもしろかった。そんな「プリキュアとしての自覚」が足りないとされるこむぎが、誰にでも手を差し伸べるいろは同様に「いろはを助けたい!」というきもちを胸中に起こし、それがフレンドリータクトのちからも呼び起こす流れもいい。戦闘後の「私、こむぎと、ワンダフルといっしょにいるときがサイコーにワンダフルだよ!」、おれもワンダフルだよ!と落涙。

ED後にはまさかの映画告知。まだ3月なのに! ナレーションにはひろプリとまほプリの参加匂わせもあり、テンション爆上げの朝になった。



いまさらながら、デイリーでないのにデイリーでいいのかというセルフ疑念がある


もりもりポケモンをやる。ラブポケの1匹であるシビルドンを泣く泣くアウトし、代わりにダイパ時代に旅パの相棒であったエンペルトを迎え入れる。いい感じに活躍してくれ、4桁が目前となるも、そこからが勝ちきれない。ノーウェポンサケブシッポがやってくれそうな気がしているのだが、プレイングに慣れが必要でむつかしい。ひとつ技を入れた方が安定するだろうか?

同人誌まわりのもろもろをすすめる。

今日は山形からTがやってき、Kも合わせて3人で飲む日。先にTと合流し、買い出しと鍋の準備を済ませ、Gへ。ようやくランビックを飲むことができる。酸っぱい! 夏によさそうである。そのあとに飲んだ瓶のやつ(名前を忘れた)は後味がかなりパンみがあり、たのしかった。クラフトビール、ラブ! のち、仕事帰りのKと待ち合わせし、酒を買い込んでT宅にて鍋を囲む。Tもわたしもペルノが好きなので、水割りをガブガブやる。深夜まで酒をやりつつそれぞれの人生の歩みがたしかめられ、それは語られる言葉だけではなく、所作にもあらわれるのだ、とTの細やかな心配りを見て思った。だれかとともに暮らすことの身体性、みたいなことを考えた。

早朝、別れ、Kに酒屋を経由して家まで送ってもらう。こうやってひとのやさしさに生かされている。

ワークワーク。スケジュールが切羽詰まってきたが、どうか。ぶじ切り抜けられますように。

夜、チャーシュー卵の和風だしスープ、チャーシューもやしのオイスターソース炒め。うまい。

この日を境に

堀禎一夏の娘たち ひめごと』(2017)。奇妙な映画である。ほぼ臨死の状態にある父の病室から映画ははじまるが、しばらくして通夜の場面、軒先で故人を偲ぶおやじふたりのもとに、親戚および友人(?)一同が続々と画面外から集まってき、8人ぐらいがひとつの画面内で「懐かしい」をあたためあうような談笑をおこなうシーンの長さやそもそもの絵面、そのやりとりの感じにかなりの特異さを感じる。これは、何度かあらわれるやたらガクガクするズームアップや、言いまちがい・言いよどみがそのままOKテイクにのこされているような台詞回し、カットとカットのあいだですさまじい断絶(決定的な出来事を描かない!)を起こすといった、さまざまな手法にも通じるものであり、ずいぶんヘンテコな映画があったもんだと興味深く観た。会話から察するに主人公らは30代前後で、兎にも角にもセックスをするが、時折10代のようなモラトリアム的青春(沢遊びの錯誤感!)が垣間見え、モラトリアムの崖、あるいはその崖の先での児戯(姉にフラれたあとの弟の子供っぽさ……、映画のラストにも「子供」の声が据え置かれている……、妊娠や死は匂わせられながらも、子供も「実体」としては画面内に存在しない!)という設計に、盛夏火のことを思いだしたりもした。

のちに結婚することとなる主人公とその幼馴染(映画内における初対面時にはそれとはわかっていない)が、旅館の娘と旅行客として客室でさいしょに相対するシーン、男が三味線を演奏しはじめ、女がそれに合わせて歌と舞をおこなうのもいったい何がここではおこなわれているんだ?!と衝撃だった。シーンに被さっている歌は、じつは母親である女将が歌っていて、台所に立ちつつ歌唱する女将という次のシーンへの遷移が見事だった。西荻の三傑(わたししかこのフレーズを言っていないが)のひとりであるSさんが熱狂的な堀禎一のファンであり、そのすすめあって観ることとなったのだが、これがSさんに流れている精神なのかとSさんの映画を思いかえして頷く自分もいた。

途中、ニャンのトイレで集中が切れる場面が何回かあり、劇場で観たかったなとも思った。

メタリックルージュ5-9話。おもちれー。うえのきみこ回はもちろんだが、7→8→9の物語の加速感がひじょうに高揚的で、観ることに決めてよかったなと思った。ここまで観て、たとえこの先で描かれるおわりがダメだったとしても(ダメにならないと思うが!)、本作は「いいアニメだ」という評価が自分のなかでかたまった。以下は各話でよかった/気になった点。5話、短いカットを連打し、ルジュの記憶・夢現のイマージュを通して彼女自身のバックグラウンドを語るナラティブ。6話、変装殺人鬼をキーマンにした密室船内キリングミステリーを、双子キャラクター(つづく7話でここがさらに裏返るのもよかった)を登場させることによってより一層ゆたかにする技法。ルジュの真偽を判断するためのナオミによる突発クイズ大会、さらには殴ってそれを耐えたやつが犯人だロジックを展開するルジュもサイコーだった。7話、「悪者」の対義語として発される「いいもの・いいもん」。8話、このタイミングでのインモータルナイン勢揃いのアツさ。9話、アニメータの自我全開のルジュとナオミのヌルヌル作画による会話と、合理的植民地主義(?)者である来訪者たちの思想とビジュ。

夜、鯖の塩焼き、唐揚げチリソース(惣菜)。うまい。

カメックスレイド、やろうと思っていたのにオンラインにした途端、眼前のテラスタルの結晶(?)が跡形もなく消え去り、捕獲の夢は破れた。こんなことならソロでやればよかった、、



ポケモンやる。勝てない。間を開けると選出もプレイングもわけがわからなくなる。平気でサーフゴーにアンコールを打ち、飛行テラスボルトロスにじんらいを打つようになる(うっかりにもほどがある)。

夜、チャーシュー新玉ねぎスープ、チャーシュー切り干し大根チーズ炒め。うまい。

制作物を詰めているときになりがちな採算度外視のはたらきかた、どうにかした方がいいのか。しかし、制作物の妥協はしたくないよな、、「時給換算」って便利だけど、意識すると心を壊してしまいそうである。

プリキュアの公式グッズにAI絵がつかわれているのでは?の疑惑、けっこうつらいきもちになる。この心のうごきは先の未来から見れば信じられないものになるのだろうか?

上記の件、いちにち経って、自分のなかでプリキュアはハネケと同じく倫理の作品なので、それが踏みにじられた感じがするから嫌なんだと理解した。そこに「プリキュアの美しい魂」はあるのか、ということである。これまでに積み上げてきた歴史を足蹴にし、躊躇なく破壊するような行為としてわたしの目には映っている。なぜこのような企画にGOサインがでたのだろうか。ついったでは東映アニメーションからそもそもの絵が販売会社に提供されたという文面を目にもした。しっかりしてくれ東映……。

わたしの喋った言葉がだれかのなかに生きつづけている妄想

こうやってブログを書いていて、心的な余裕ができはじめているという実感が湧いてきた。余裕がないと文なんて書けない。

ラジオ。ひとがそばにいるとうまく話せないなあと思いながらやっていた。ひとが去り、グルーヴが乗ってきたぞ、というところで時間切れ。

ワーク。自分でもどうなっていくんだろうか、と思いながら手をうごかしていくと、ちゃんとかたちになってくる。いわゆる「宣伝美術」の範疇となるワークだが、事前にきちんと完成した作品があってデザインに取りかかるのはひさびさである。作品を観た記憶やじっかんが画面にのっかっていくのがたのしい。こういうタイプのワークももりもりやっていきたい。

今年はしごとをしながら歳をかさねた。これまでの人生で意外となかった経験な気がする。

ワークワーク。つらいしごとである。しかしすすみよし。明日完了予定だったのをいちにち早めることに成功する。

夜、豆腐ともやしと豚ひき肉の台湾風炒め。にんにく、生姜、シナモン、ホアジャオ。うまい。

長らく気がかりだった制作ノートを完成させる。何を書くためにメモしたんだこれは?というメモの意図がいつまで経っても思いだせなかったが、書きすすめているうちにもとの意図とは異なるかもしれないにしても、いい感じにまとまってきたのでそれでよしとした。あっぷだけ済ませて告知は後日やる。気づいたひとだけ先に読める方式。

勢いにのって同人誌の原稿も脱稿する。といっても、先日の修正時にはすでに書きおわっていて、さらになおしを入れるかどうか保留していたものを決定稿として提出したに過ぎないのだが。伝わるひとにはちゃんと伝わるのだというコメントが同人から返ってきて、うれしくなる。

合間にちいさなワークの修正もしつつ、もろもろの告知の準備もすすめる。明らかに生活に余裕ができはじめている。

夜、ししゃもフライ、鶏大根厚揚げの煮物。うまい。



わんぷり6話。ケンカ回。刮目すべきは前後編であること。仲直りエンドでなく、こむぎ家出エンドなのである! この苦味、成田良美の味がする! プリティホリックに入りたがったシーンを彷彿とさせるだだこねこむぎの反復がいい(フレンドリータクトをこむぎも使いたいワン!)。いろはの役に立ちたいと叫ぶも、ボール遊びやいっしょに寝ようと促されることで誤魔化されてしまうこむぎがかわいい。前話につづいてガルガルの予兆をAパートラストに配置しているのも好き。おそらくはサバンナに出張中のまゆパパのシーンでライオンについてのやりとりを描いておき、ガルガルにはライオンモチーフをもってくる作劇も王道でいい。イメージをきちんとつないでいく意志が感じられる。前後編と先に述べたが、ガルガルとのバトルも今話では決着がつかないパターンで、これがバネとなって次話にカタルシスをもたらすのだろうと思った。お別れでおわるということで重いトーンで幕切れるわけだが、たのしいEDとダンスのあとに待ち受けている予告編にはとんでもないヤバ顔を披露するこむぎのカットがラストに配されており、メインの視聴者層である子供たちへ向けた緩和がていねいに試みられていると思った。こういうプリキュアスタッフの気の配りかたにわたしは感動するのである。そんなヤバ顔回であり仲直り回の絵コンテを担当するのは土田豊ということでかなりたのしみ。

ところで、公式サイトにおいては犬や猫が飼い主である人間に先立って表記があると以前書いたが、本編での変身順はいろは→こむぎとなっており、もしやこれが前後することによって今後のドラマ(こむぎの成長)がかたちづくられていくのか?といまからワクワクもんである。

アルセウスやる。最終章っぽく空がおどろおどろしく赤と紫に染まったところまで。合間にGTSにヒスイヌメイルをだしていたらランドロスがやってきてくれる。うれしい! 構築を考えるたびに起こっていたランドロスがいてくれたら……の念がこれで解消される。このままアルセウスをすすめていけばもう1匹手に入るはずなので、霊獣と化身の両方をつかうことができる。

朝、鶏とすじこ韓国海苔のスパゲティ。うまい。

ワークワーク。うっすらと浮かびあがりつつあったコンセプトが、手のうごきとともにしっかりとした輪郭をもってかたちをなしていく。素材もだいたい集まってきたのであとは完成に向かって手をうごかしていくだけ。明日あたりに目処をつけたい。

夜、あぶらげの味噌汁、手羽とにんじんとあぶらげの炒め煮。うまい。

ワークワーク。ほぼ完成の域に達する。

朝、チーズと卵とにんにくのスパゲティ。うまい。

ワーク。フィニッシュ。投げる。はじめてやりとりをする相手に第1案を送る際はいつも緊張するが、好意的に受け止められ、安堵する。込めた熱情はちゃんと伝わるのだなとうれしいきもちになる。がんばってよかった。

特異な歩みでできたけもの道の衰亡

20代も前半の頃、当時懇意にしていた美容室の担当者が、「草間彌生は作品をつくらないと死んでしまう」(うろおぼえ)といったような話をしてきた際に、自分もそういう心持ちで詩に向かっているなと思い、「そのきもちぼくもわかりますよ」と軽口を叩いたものだが、はたしてその熱情はどこにいったのか。まいにちのように詩を書いていた、書かずにはいられなかった精神の灯火はもうずいぶん前に消え失せてしまった。詩を書く日よりも、書かない日が多くなったのはいつからか。しばらく前に書いた同人誌用の詩に手を入れた所為もあってか、寝る前にふと上記のエピソードを思いだした。


▼記事を検索したらこの草間彌生の話は5年以上前にもう書いていた、この頃はまだ詩への炎が燃えていたような筆致だ
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それこそ5年どころではなくだいぶ前から制作に着手している、というか原稿も造本プランも何年も前にフィックスしている詩集の刊行までは(金銭的な面で)果てしないにしても、昨年企画して半分以上は完成させている詩誌を発行できたらふたたびきもちは燃え立ってくれるかしら。詩を読んだり書いたりしているとき以外、詩の心がうごかなくなっている気がする。かろうじてデザインをやっているときに微動しているかもしれない。おわりである。

わんぷり5話。パワーアップアイテム回。アバンのラストに海中のガルガルの卵を映し、ヒビを入れる演出を見、こういうオールドスタイルもやっぱりいいよね!となる。海辺での散歩シーンからというスライドのしかたもいい。「散歩」は今回のキーワードのひとつでもあり、こむぎといろはをこれまでかたくつないできたリードが、こむぎが人間体になることによって「手つなぎ」に変奏され、その信頼の証であったリード(落下のピンチを救ったりもする!)がパワーアップアイテムに結実-変貌するという流れがきもちいい。人間の散歩にはリードはないの?というその前段にあたる問いかけもいい。

また、首輪付きの捨て犬だったというこむぎの過去がかなり長めの回想によって描かれる回でもあり、家に来たばかりでまだ警戒心のつよい状態のこむぎのそばで布団を敷いて寝るいろはのけなげさと、やがて彼女に寄り添って眠りにいくこむぎのすがたが泣かせる。脚本は井上美緒。絵コンテ・演出は野呂彩芳。


ワーク。主に準備に時間をかける。作品を観る/読むことがワークの一部であるって、サイコーだなと思いながらやる。こういうしごとばかりやっていきたい。踏まえて、文字サイズ・文字量・版面のバランスをとる。ふだんはあまり用いない判型+文字情報がそれなりに多い案件なので、こうして外堀(?)から埋めていくスタイルがよさそう。

夜、冷凍餃子、ジンジャーすっぱ卵和風だしスープ、キムチチーズ和え。うまい。卵スープは基本的に中華だし(味覇など)をベースにつくっていたが、ほんだしでもいけるなという気づきがあった。

文体の苦手なひとの文章を校正するのはきついな、と思いながらワークをしていたが、目的語や主語、指示語といった文を構成する重要な要素がふんだんに欠落し、主述のねじれもそこかしこに見られるのを受けて、単に文体の問題ではないか、と思いなおすのだった。しかも、悪文はなおさない、という方針のワークなので、やっていてどうもむずがゆさが残る。悪文に突き当たるたびにストレスがかかる。

自分で文章を書くときと、他者の文章をなおすときの意識はわたしの場合だいぶ異なっていて、これは荒川洋治が詩と散文のちがいを説明した文にその差異が記述されているように思う。ここで該当箇所をひっぱってくるのが親切だが、本をもってくるのがめんどうなので触れるだけでおわる。自分で書くときは詩を優先し、他者の文をなおすときは散文を優先するということである。

夜、人参とほうれん草のキーマカレー。カルダモン、コリアンダークローブフェンネルターメリック、シナモン、カイエンペパー、ハバネロペパー、にんにく、生姜。砂糖、塩、妹が大量に余らせていたドリトスのトマトサルサソース。うまい。玉ねぎがなかったのが痛手。

祖母の足腰の弱体化が甚だしい。日常生活のなかで、より立ったり歩いたりするよう促しを試みているが、億劫がってなかなか行動に移らない。捨てるためにちいさく結んだ菓子パンのビニール袋を片手ににぎったまま、何時間も座って韓ドラの字幕を追いつづけている。




排気口『光だと気づいた順に触れる指たち』、フライヤーデザインとコピーをやっています、もしかしたら紙もあるかもしれない、と聞いています、ぜひお運びください、ご予約は以下より


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